白文、書き下し文、日本語訳を併記しています。
孟子見梁惠王。王曰:「叟!不遠千里而來,亦將有以利吾國乎?」 孟子對曰:「王!何必曰利?亦有仁義而已矣。王曰:『何以利吾國?』大夫曰:『何以利吾家?』士庶人曰:『何以利吾身?』上下交征利而國危矣。萬乘之國,弒其君者,必千乘之家;千乘之國,弒其君者,必百乘之家。萬取千焉,千取百焉,不爲不多矣。苟爲後義而先利,不奪不饜。未有仁而遺其親者也,未有義而後其君者也。王亦曰仁義而已矣,何必曰利?」
孟子梁の惠王に見ゆ。王曰く、叟千里を遠しとせずして來る。亦將に以て吾が國を利する有らんとするか。孟子對へて曰く、王何ぞ必ずしも利と曰わん、亦仁義有るのみ。王は何を以て吾が國を利せんと曰ひ、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰ひ、士庶人は何を以て吾が身を利せんと曰ひ、上下交〻利を征りて國危し。萬乘の國、其君を弑する者は、必ず千乘の家なり。千乘の國、其君を弑する者は、必ず百乘の家なり。萬に千を取り、千に百を取らば、多からずと爲さず。苟に義を後にして利を先にするを爲さば、奪はずんば饜かず。未だ仁にして其親を遺する者は有らざるなり。未だ義にして其君を後にする者は有らざるなり。王亦仁義と曰はんのみ。何ぞ必ずしも利と曰はん。
孟子が梁の恵王に謁見すると、王が言った。「遠く千里の道を越えて来られたのは、我が国に利益をもたらすためであろうか?」
孟子は答えた。「王よ、どうして利益を語る必要がありましょうか。ただ仁と義があるのみです。王が『どうすれば我が国に利益をもたらせるか』と語り、大夫が『どうすれば我が家に利益をもたらせるか』と語り、庶民が『どうすれば我が身に利益をもたらせるか』と語るようになれば、上下が互いに利益を奪い合い、国家は危機に陥るでしょう。大国で君主が弑逆されるのは、必ず中規模の国の者たちによってであり、中規模の国で君主が弑逆されるのは、小規模の国の者たちによってです。大が中を取り、中が小を取る、その欲望の多さたるや計り知れません。もし義を後回しにして利益を優先するならば、奪い尽くすことがなければ満足できません。親を顧みない人が仁を持つことはなく、君主を軽んじる者が義を守ることもありません。王よ、どうぞ仁と義を語られますよう。利益を語る必要はございません。」
孟子見梁惠王。王立於沼上,顧鴻雁麋鹿,曰:“賢者亦樂此乎?” 孟子對曰:「賢者而後樂此,不賢者雖有此,不樂也。詩云:『經始靈臺,經之營之,庶民攻之,不日成之。經始勿亟,庶民子來。王在靈囿,麀鹿攸伏,麀鹿濯濯,白鳥鶴鶴。王在靈沼,於牣魚躍。』文王以民力爲臺爲沼,而民歡樂之,謂其臺曰靈臺,謂其沼曰靈沼,樂其有麋鹿魚鱉。古之人與民偕樂,故能樂也。湯誓曰:『時日害喪,予及女皆亡。』民欲與之偕亡,雖有臺池鳥獸,豈能獨樂哉?」
孟子梁の惠王に見ゆ。王池の上に立ち、鴻雁麋鹿を顧みて曰く、賢者も亦此れを樂むか。孟子對へて曰く、賢者にして而る後此を樂む。不賢者は此れ有りと雖も樂まざるなり。詩に云ふ、靈臺を經始し、之を經し之を營す。庶民之を攻む、日ならずして之を成す。經始亟にするなかれ、庶民子のごとく來る。王靈囿に在れば、麀鹿伏す攸、麀鹿濯濯たり。白鳥鶴鶴たり。王靈沼に在れば、於牣ちて魚躍ると。文王民の力を以て、臺を爲り、沼を爲る。民之を歡樂す。其臺を謂ひて靈臺と曰ひ、其沼を謂ひて靈沼と曰ふ。其麋鹿魚鱉有るを樂む。古の人は民と偕に樂む。故に能く樂むなり。湯誓に曰く、時の日害か喪びん、予女と偕に亡びんと。民之と偕に亡びんと欲せば、臺池鳥獸有りと雖も、豈に能く獨り樂まんや。
孟子が梁の恵王に謁見すると、王は池のほとりに立ちながら、鴻雁や鹿を眺めて言った。「賢者もまたこのようなものを楽しむのか?」
孟子は答えた。「賢者であって初めてこれを楽しみます。賢くない者は、たとえこれを持っていても楽しむことはありません。《詩経》にはこうあります。『神聖なる台を建て、これを計画し、民が力を合わせて、わずか数日で完成した。急がずに進め、民は自ら来た。王は神聖なる庭園におり、鹿が伏している。鹿は豊かに繁り、白い鳥は羽ばたいている。王は神聖なる池におり、魚が跳ねる。』文王は民の力を用いて台と池を作り、民はこれを喜んで台を「神聖なる台」と呼び、池を「神聖なる池」と名付けました。そして、鹿や魚亀を楽しみました。古の人は民とともに楽しむことで、初めて自らも楽しむことができたのです。《湯誓》にはこうあります。『もしこの日が滅亡の日ならば、私は民とともに滅びよう。』民が彼と共に滅びようと願うのです。台や池、鳥や獣を持っていても、どうして一人で楽しむことができましょうか?」
梁惠王曰:「寡人之於國也,盡心焉耳矣。河內凶,則移其民於河東,移其粟於河內;河東凶亦然。察鄰國之政,無如寡人之用心者。鄰國之民不加少,寡人之民不加多,何也?」 孟子對曰:「王好戰,請以戰喻。塡然鼓之,兵刃既接,棄甲曳兵而走。或百步而後止,或五十步而後止;以五十步笑百步,則何如?」 曰:「不可,直不百步耳,是亦走也。」 曰:「王如知此,則無望民之多於鄰國也。」「不違農時,穀不可勝食也;數罟不入洿池,魚鼈不可勝食也;斧斤以時入山林,材木不可勝用也。穀與魚鼈不可勝食,材木不可勝用,是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾,王道之始也。」「五畝之宅,樹之以桑,五十者可以衣帛矣;雞豚狗彘之畜,無失其時,七十者可以食肉矣;百畝之田,勿奪其時,數口之家可以無饑矣;謹庠序之敎,申之以孝悌之義,頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉,黎民不饑不寒,然而不王者,未之有也!」「狗彘食人食而不知檢,塗有餓莩而不知發,人死,則曰:『非我也,歲也。』是何異於刺人而殺之,曰:『非我也,兵也。』王無罪歲,斯天下之民至焉。」
梁の惠王曰く、寡人の國に於けるや、心を盡くすのみ。河內凶なれば、則ち其民を河東に移し、其粟を河內に移す。河東凶なるも亦然り。鄰國の政を察するに、寡人の心を用ふるが如き者無し。鄰國の民少きを加へず、寡人の民多きを加へざるは何ぞや。孟子對へて曰く、王戰を好めり。請ふ戰を以て喻へん。塡然として之に鼓し、兵刃既に接し甲を棄て兵を曳いて走る。或は百步にして而る後に止り、或は五十步にして而る後に止る。五十步を以て、百步を笑はば、則ち何如。曰く、不可なり。直百步ならざるのみ。是れ亦走るなり。曰く、王如し此を知らば、則ち民の鄰國より多きを望む無れ。農の時に違はざれば、穀勝げて食ふ可からざるなり。數罟洿池に入らざれば、魚鼈勝げて食ふ可からざるなり。斧斤時を以て山林に入れば、材木勝げて用ふ可からざるなり。穀と魚鼈を勝げて食ふ可からず、材木勝げて用ふ可からざるは、是れ民をして生を養ひ死を喪して憾み無からしむるなり。生を養ひ死を喪して憾みなきは、王道の始なり。五畝の宅、之に樹うるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。雞豚狗彘の畜、其時を失ふなくば、七十の者以て肉を食ふ可し。百畝の田,其時を奪ふ勿くば、數口の家、以て饑うるなかる可し。庠序の敎を謹み、之に申ぬるに孝悌の義を以てせば、頒白の者道路に負戴せず。七十の者帛を衣肉に食ひ、黎民饑ゑず寒えずして、然して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。狗彘人の食を食して檢するを知らず。塗に餓莩有りて發するを知らず。人死すれば則ち曰く、我に非ざるなり歲なりと。是れ何ぞ人を刺して之を殺し、我に非ざるなり兵なりと曰ふに異ならん。王、歲を罪することなくば、斯に天下の民至らん。
梁の恵王が言った。「私は国のために最善を尽くしている。河内で飢饉が起きれば民を河東に移し、河東で穀物を河内に送る。河東で飢饉が起きても同様にする。他国の政策を見ても、私ほど心を尽くしている者はいない。しかし、他国の民は減らず、私の国の民も増えないのはなぜか?」
孟子は答えた。「王は戦いを好まれるので、戦いに例えてお答えしましょう。太鼓が鳴り、兵士たちが刃を交えると、甲を捨て武器を引きずって逃げる者がいます。ある者は百歩進んでから止まり、ある者は五十歩進んでから止まります。五十歩進んだ者が百歩進んだ者を嘲笑うのはどうでしょう?」
王は答えた。「それは間違っています。百歩であれ五十歩であれ、逃げたことには変わりありません。」
孟子は言った。「王がそのことをご存知であれば、隣国よりも民が増えることを望むのは無理でしょう。農繁期を守れば、穀物は食べきれないほど得られます。細かな網を池に入れなければ、魚や亀は食べきれないほど得られます。斧や鋸を適切な時期に山林に入れれば、材木は使いきれないほど得られます。穀物や魚亀が豊富で、材木が十分に得られれば、民は生きることにも死を送ることにも不満がなくなります。これは王道の始まりです。」
孟子は続けた。
「五畝の土地を与え、そこに桑を植えさせれば、五十歳以上の者は絹の衣を着ることができるようになります。鶏や豚、犬、猪などを適切な時期に育てれば、七十歳以上の者は肉を食べることができるようになります。百畝の田を与え、農繁期を奪わなければ、家族が飢えることはありません。学問や教育を重視し、孝行や弟の道を教えれば、老人が荷物を背負って道を歩くこともなくなるでしょう。七十歳以上の者が絹の衣を着て肉を食べ、庶民が飢えも寒さもなく暮らせるならば、それで王になれない理由などありません。」
「しかし今、豚や犬が人の食べ物を食べ、飢えた者が道端で餓死しているにもかかわらず、それを見て何もしないのは、まるで人を刺して殺し、その原因を兵器のせいにするようなものです。王よ、天のせいにせず、民の生活を顧みてください。そうすれば天下の民は必ず集まるでしょう。」
梁惠王曰:「寡人願安承敎。」 孟子對曰:「殺人以梃與刃,有以異乎?」 曰:「無以異也。」 「以刃與政,有以異乎?」 曰:「無以異也。」 曰:「庖有肥肉,廄有肥馬,民有饑色,野有餓莩,此率獸而食人也。獸相食,且人惡之;爲民父母,行政,不免於率獸而食人。惡在其爲民父母也?仲尼曰:『始作俑者,其無後乎!』爲其像人而用之也。如之何其使斯民饑而死也?」
梁の惠王曰く、寡人願くは安じて敎を承けん。」 孟子對へて曰く、人を殺すに梃を以てすると刃と以て異なる有るか。曰く、以て異なるなきなり。刃を以てすると政と以て異なるあるか。曰く、以て異なる無きなり。曰く、庖に肥肉有り、厩に肥馬有り,民に饑色有り、野に餓莩有り。此れ獸を率ゐて人を食ましむるなり。獸相食むすら、且つ人之を惡む。民の父母と爲り、政を行うて、獸を率ゐて人を食まするを免れず。惡ぞ其の民の父母たるに在らん。仲尼曰く、始めて俑を作る者は、其れ後無からんかと。其の人に像りて之を用ふるが爲めなり。之を如何ぞ、其れ斯の民をして饑ゑて死なしめん。
梁の恵王が言った。「私はその教えを受け入れたいと思います。」
孟子は答えた。「棒で人を殺すのと刃物で人を殺すのは、何か違いがありますか?」
王は答えた。「違いはありません。」
孟子は問うた。「刃物による殺人と政治による殺人には、何か違いがありますか?」
王は答えた。「違いはありません。」
孟子は続けて言った。「料理場には肉が溢れ、馬小屋には肥えた馬がいる一方で、民が飢えた顔をし、路上には餓死者がいる。それはまるで獣を率いて人を食わせているようなものです。獣が互いに食い合うのを人は嫌悪します。では、民の親であるべき君主が行政で民を飢えさせるのは、どうして許されるでしょうか?孔子は言いました。『埋葬用の人形を作った者には子孫が続かないだろう』と。それは人を模して不適切に扱ったためです。どうして民を飢えさせて死なせることができましょうか?」
梁惠王曰:「晉國,天下莫强焉,叟之所知也。及寡人之身,東敗於齊,長子死焉;西喪地於秦七百里;南辱於楚。寡人恥之,願比死者壹洒之,如之何則可?」 孟子對曰:「地,方百里而可以王。王如施仁政於民,省刑罰,薄稅斂,深耕易耨;壯者以暇日修其孝悌忠信,入以事其父兄,出以事其長上,可使制梃以撻秦楚之堅甲利兵矣。 「彼奪其民時,使不得耕耨以養其父母。父母凍餓,兄弟妻子離散。彼陷溺其民,王往而征之,夫誰與王敵?故曰:『仁者無敵。』王請勿疑!」
梁の惠王曰く、晉國は天下焉より强き莫きは、叟の知れる所なり。寡人の身に及び、東は齊に敗られ長子死す。西は地を秦に喪ふ七百里。南は楚に辱しめらる。寡人之を恥づ。願くは死するときまでに壹たび之を洒がん、之を如何にせば則ち可ならん。孟子對へて曰く、地方百里にして而して以て王たる可し。王如し仁政を民に施し、刑罰を省き稅斂を薄くし、深く耕し易め耨り、壯者は暇日を以て、其孝悌忠信を修め、入りては以て其父兄に事へ、出でては以て其長上に事へば、梃を制して以て秦楚の堅甲利兵を撻たしむ可し。 彼は其民の時を奪ひ、耕耨して以て其父母を養ふを得ざらしむ。父母凍餓し、兄弟妻子離散す。彼は其民を陷溺す。王往きて之を征せば、夫れ誰か王と敵せん。故に曰く、仁者は敵無しと。』王請ふ疑ふ勿れ。
梁の恵王が言った:「晋国は、天下でこれ以上強い国はないと誰もが知るところだ。だが、私の代になって、東では斉に敗北し、長男を失い、西では秦に七百里の土地を奪われ、南では楚に屈辱を受けた。このことは私にとって恥ずべきことだ。亡くなった者たちに顔向けするためにも、どうすれば良いか教えてほしい。」
孟子は答えた:「百里四方の土地があれば王者になることができます。王がもし仁政を施し、刑罰を軽くし、税を薄くし、農民に深耕と雑草除去を容易にさせるならば、人々は安定し、強者たちは暇な日に孝行や弟への思いやり、忠誠や誠実さを磨くことができます。そして、家では父兄に仕え、外では長上に仕えることができるようになります。そのような人々が武器を取れば、秦や楚の堅固な鎧や鋭利な武器さえも制圧することができるでしょう。
彼ら(秦や楚)は人々の時間を奪い、農作業ができないようにして両親を養えなくさせ、両親は寒さや飢えに苦しみ、兄弟や妻子が離れ離れになります。そのように民を苦しめる国を、王が征伐すれば、誰が王に敵対できるでしょうか?だからこそ『仁者には敵がいない』と言うのです。どうか王よ、疑念を持たないでください。」
孟子見梁襄王,出,語人曰:「望之不似人君,就之而不見所畏焉。卒然問曰:『天下惡乎定?』 「吾對曰:『定於一。』 「『孰能一之?』 「對曰:『不嗜殺人者能一之。』 「『孰能與之?』 「對曰:『天下莫不與也。王知夫苗乎?七八月之間旱,則苗槁矣。天油然作雲,沛然下雨,則苗浡然興之矣。其如是,孰能御之?今夫天下之人牧,未有不嗜殺人者也。如有不嗜殺人者,則天下之民皆引領而望之矣。誠如是也,民歸之,由水之就下,沛然誰能御之?』」
孟子梁の襄王に見ゆ。出でて人に語りて曰く、之を望むに人君に似ず。之に就きて畏るゝ所を見ず。卒然として問うて曰く、天下惡にか定らん。吾對へて曰く、一に定まらん。孰か能く之を一にせん。對へて曰く、人を殺すを嗜まざる者能く之を一にせん。孰か能く之に與せん。對へて曰く、天下與せざる莫きなり。王夫の苗を知るか。七八月の間、旱すれば則ち苗槁る。天油然として雲を作し、沛然として雨を下せば、則ち苗浡然として之に興る。其れ是の如くば、孰か能く之を禦めん。今夫れ天下の人牧,未だ人を殺すを嗜まざる者あらざるなり。如し人を殺すを嗜まざる者あらば,則ち天下の民皆領を引きて之を望まん。誠に是の如くならば民の之に歸する、由ほ水の下に就き沛然たるがごとし。誰か能く之を禦めん。
孟子が梁の襄王に謁見した後、人々に語った。「遠目には君主らしく見えない。近づいても威厳を感じない。それで『天下はどのように安定するのか』と突然尋ねられたので、『統一によってです』と答えました。」
孟子は続けて答えた。
「『誰がそれを統一できるのか?』と尋ねられたので、『人を殺すことを好まない者が統一できるでしょう』と答えました。」
「『誰がそれに協力するのか?』と尋ねられたので、『天下の誰もが協力します』と答えました。そして私は言いました。『王は稲の苗をご存じでしょうか?七月や八月の間に日照りが続けば苗は枯れますが、天が雲を生み、雨が降れば苗は一斉に伸びます。それと同じです。今、天下の民の支配者で人を殺すことを好まない者はいません。しかし、もし人を殺すことを好まない者が現れたら、天下の民は首を伸ばしてその者を仰ぎ見るでしょう。民はそのような人を水が低きに流れるように求めて集まるでしょう。それを阻むことのできる者はいません。』」
齊宣王問曰:「齊桓、晉文之事可得聞乎?」 孟子對曰:「仲尼之徒,無道桓、文之事者,是以後世無傳焉;臣未之聞也。無以,則王乎?」 曰:「德何如則可以王矣?」 曰:「保民而王,莫之能禦也。」 曰:「若寡人者,可以保民乎哉?」 曰:「可。」 曰:「何由知吾可也?」 曰:「臣聞之胡齕曰,王坐於堂上,有牽牛而過堂下者,王見之,曰:『牛何之?』對曰:『將以釁鐘。』王曰:『舍之!吾不忍其觳觫,若無罪而就死地。』對曰:『然則廢釁鐘與?』曰:『何可廢也?以羊易之!』——不識有諸?」 曰:「有之。」 曰:「是心足以王矣。百姓皆以王爲愛也。臣固知王之不忍也。」 王曰:「然;誠有百姓者。齊國雖褊小,吾何愛一牛?卽不忍其觳觫,若無罪而就死地,故以羊易之也。」 曰:「王無異於百姓之以王爲愛也。以小易大,彼惡知之?王若隱其無罪而就死地,則牛羊何擇焉?」 王笑曰:「是誠何心哉?我非愛其財而易之以羊也。宜乎百姓之謂我愛也。」 曰:「無傷也,是乃仁術也,見牛未見羊也。君子之於禽獸也,見其生,不忍見其死;聞其聲,不忍食其肉。是以君子遠庖廚也。」
齊の宣王問うて曰く、齊桓・晉文の事、聞くを得べきか。孟子對へて曰く、「仲尼の徒は、桓文の事を道ふ者なし。是を以て後世傳ふるなし。臣未だ之を聞かざるなり。以むなくんば則ち王か。 曰く、德何如なれば、則ち以て王たる可き。曰く、民を保んじて王たらば、之を能く禦ぐ莫きなり。曰く、寡人の若き者以て民を保んず可きか。曰く、可。曰く、何に由りて吾が可なるを知るや。曰く、臣之を胡齕に聞く、曰く、王堂上に坐す、牛を牽いて堂下を過ぐる者あり、王之を見て曰く、牛何くに之く。對へて曰く、將に以て鐘に釁らんとすと。王曰く、之を舍け。吾其の觳觫として,罪無くして死地に就くが若くなるに忍びず。對へて曰く、然らば則ち鐘に釁るを廢せんか。曰く、何ぞ廢す可けん。羊を以て、之に易へよと。識らず諸ありや。曰く、之有り。曰く、是心以て王たるに足る。百姓皆王を以て愛しむと爲すなり。臣は固より王の忍びざるを知る。王曰く、然り。誠に百姓なる者あり。齊國褊小と雖も、吾何ぞ一牛を愛まんや。卽ち其觳觫として罪なくして死地に就くが若くなるに忍びず。故に羊を以て之に易ふるなり。曰く、王百姓の王を以て愛むと爲すを異しむ無かれ。小を以て大に易ふ、彼れ惡んぞ之を知らん。王若し其の罪無くして死地に就くを隱まば、則ち牛羊何ぞ擇ばん。王笑ひて曰く、是れ誠に何の心ぞや。我其財を愛んで、而して之に易ふるに羊を以てするに非ざるなり。宜なるかな、百姓の我を愛むと謂ふや。曰く、傷むなきなり。是れ乃ち仁の術なり。牛を見て未だ羊を見ざればなり。君子の禽獸に於けるや、其生を見ては、其死を見るに忍びず。其聲を聞けば其肉を食ふに忍びず。是を以て君子は庖廚を遠ざくるなり。
斉の宣王が孟子に尋ねた。「斉桓公や晋文公の事績について聞きたい。」
孟子は答えた。「孔子の弟子たちは斉桓公や晋文公のことを語りませんでした。そのため、後世にも伝わらなかったのです。私はその事績を聞いたことがありません。それでは、王に問います。『徳がどのようなものであれば天下の王となれるのでしょうか?』」
王は答えた。「民を保護して王となれば、誰もそれを阻むことはできません。」
孟子は言った。「その心があれば可能です。」
王は尋ねた。「どうして私にはそれができるとわかるのですか?」
孟子は答えた。「胡齕という者から聞いた話があります。王が堂上に座っておられた時、牛を引いて堂下を通るのを見て『牛をどこへ連れて行くのか?』と尋ねられたそうです。家臣が『鐘を清めるために供犠とします』と答えたところ、王は『やめよ!私はその怯えた様子を見るに忍びない。無実の者を死地に送るようなものだ』と言われたとか。その後『では鐘を清めるのをやめるのですか?』と尋ねると、王は『それはできない。羊に代えよ』と言われたそうです。これは事実でしょうか?」
王は答えた。「その通りだ。」
孟子は言った。「その心があれば王となるのに十分です。百姓は皆、王が吝嗇だと思っていますが、私はそうではなく、王がその牛の姿を忍びないと思ったからだと知っています。」
王は言った。「確かにそうです。百姓の言う通り、私は斉国の小ささを理由に牛を惜しむことはありません。ただ牛の怯えた様子を見て、その罪のない者を死に送るのが忍びなかっただけです。それで羊に代えたのです。」
孟子は答えた。「百姓が王を愛惜深いと考えるのも当然です。しかし、牛を羊に代えたことで、どちらが罪がないということに違いはありません。」
王は笑って言った。「私の心は何なのでしょうか?私は財産を惜しむつもりなどありません。ただ羊に代えただけなのです。」
孟子は続けて言った。「それは何ら悪いことではありません。それこそ仁の行いです。王は牛を見て羊を見なかったのです。君子たちは生きているものを見るとその死を忍びず、声を聞くとその肉を食べることを忍びません。だからこそ君子たちは厨房から遠ざかるのです。」
王說曰:《詩》云:『他人有心,予忖度之。』夫子之謂也。夫我乃行之,反而求之,不得吾心。夫子言之,於我心有戚戚焉。此心之所以合於王者,何也?」 曰:「有復於王者曰:『吾力足以舉百鈞,而不足以舉一羽;明足以察秋毫之末,而不見輿薪。』則王許之乎?」 曰:「否。」 「今恩足以及禽獸,而功不至於百姓者,獨何與?然則一羽之不舉,爲不用力焉;輿薪之不見,爲不用明焉;百姓之不見保,爲不用恩焉。故王之不王,不爲也,非不能也。」 曰:「不爲者與不能者之形何以異?」 曰:「挾太山以超北海,語人曰,『我不能。』是誠不能也。爲長者折枝,語人曰,『我不能。』是不爲也,非不能也。故王之不王,非挾太山以超北海之類也;王之不王,是折枝之類也。 「老吾老,以及人之老;幼吾幼,以及人之幼,天下可運於掌。《詩》云:『刑於寡妻,至於兄弟,以御於家邦。』言舉斯心加諸彼而已。故推恩足以保四海,不推恩無以保妻子。古之人所以大過人者,無他焉,善推其所爲而已矣。今恩足以及禽獸,而功不至於百姓者,獨何與?」「權,然後知輕重;度,然後知長短。物皆然,心爲甚。王請度之!」
王說んで曰く、詩に云ふ、他人心有り、予之を忖度すとは、夫子の謂ひなり。夫れ我乃ち之を行ひ、反つて之を求めて、吾が心に得ず。夫子之を言ひ、我が心に於て戚戚焉たるあり。此心の王に合ふ所以の者は何ぞや。曰く、王に復す者有り。曰く、吾が力以て百鈞を舉るに足る、而して以て一羽を舉ぐるに足らず、明は以て秋毫の末を察するに足る、而して輿薪を見ずと。則ち王之を許さんか。曰く、否。今恩は以て禽獸に及ぶに足り、而して功は百姓に至らざるは、獨り何ぞや。然らば則ち一羽の舉らざるは、力を用ひざるが爲めなり。輿薪の見えざるは、明を用ひざるが爲めなり。百姓の保んぜられざるは,恩を用ひざるが爲めなり。故に王の王たらざるは爲さざるなり。能はざるに非ざるなり。曰く、爲さざる者と能はざる者との形は、何を以て異なる。曰く、太山を挾み以て北海を超えんと。人に語りて曰く、我能はずと。是れ誠に能はざるなり。長者の爲めに枝を折す。人に語りて曰く、我能はずと。是れ爲さざるなり。能はざるに非ざるなり。故に王の王たらざるは、太山を挾みて以て北海を超ゆるの類に非ざるなり。王の王たらざるは、是れ枝を折するの類なり。 吾が老を老として、以て人の老に及ぼし、吾が幼を幼として、以て人の幼に及ぼさば、天下は掌に運す可し。詩に云ふ、寡妻を刑し、兄弟に至り、以て家邦を御すと。言ふは斯の心を舉げて、諸を彼に加ふるのみ。故に恩を推せば、以て四海を保んずるに足り、恩を推さざれば、以て妻子を保んずるなし。古の人、大いに人に過ぐる所以の者他なし。善く其の爲す所を推すのみ。今恩は以て禽獸に及ぶに足り、而して功は百姓に至らざるは、獨り何ぞや。權ありて然る後に輕重を知り、度ありて然る後に長短を知る。物皆然り。心を甚しと爲す。王請ふ之を度れ。
孟子の言葉に王は喜び、言った。「《詩経》に『他人の心を自ら測る』とありますが、まさに先生のおっしゃる通りです。私は行動してその後、自分の心を探りましたが、理由がわかりませんでした。先生のお言葉で私の心に共鳴するものがありました。これはどうして王者の心と一致するのでしょうか?」
孟子は答えた。
「もし王にこう言う者がいたらどうでしょう。『私は百鈞を持ち上げる力があるが、一羽の羽を持ち上げることはできない』『秋の虫の細かな毛を見分ける視力があるが、薪の山を見ることはできない』。王はこれを認めますか?」
王は答えた。「それは認めません。」
孟子は続けた。「では、恩恵を禽獣にまで及ぼしながら、百姓には届かないのはなぜでしょう。一羽を持ち上げられないのは力を使わないからであり、薪の山が見えないのは視力を使わないからです。同様に、百姓に恩恵が届かないのは、恩を施していないからです。つまり、王が天下を治められないのは、為さないからであり、為す能力がないわけではありません。」
王は尋ねた。「為さないことと為せないことの違いは何ですか?」
孟子は答えた。「泰山を担いで北海を超えることをできないと言うなら、それは本当にできないということです。しかし、年長者のために木の枝を折ることをできないと言うなら、それは為さないだけであり、為せないのではありません。したがって、王が天下を治めないのは泰山を担ぐことと同じではなく、木の枝を折ることと同じです。」
「年老いた者を尊び、その恩恵を他人の年老いた者にまで及ぼし、幼い者を慈しみ、その恩恵を他人の幼い者にまで及ぼせば、天下は掌中に収まるでしょう。《詩経》に『家庭から始めて、それを国家に広げる』とあるのは、この心を他者にも広げるという意味です。恩恵を広げれば四海を保つことができ、広げなければ家族さえ守ることはできません。古の人々が他を凌駕して大成したのは、ただその行いを善く推し広げたからに他なりません。」
「今、王の恩は禽獣にまで及びながら、百姓には届いていません。その理由は何でしょう。計量して軽重を知り、測量して長短を知るのが物の道理です。心においては、なおさらそのように計らうべきです。王、どうぞその心を測り直してください。あるいは兵を興し、臣下を危険に晒し、諸侯に怨みを買うことで心を満たすおつもりですか?」
「抑王興甲兵,危士臣,構怨於諸侯,然後快於心與?」 王曰:「否!吾何快於是?將以求吾所大欲也。」 曰:「王之所大欲,可得聞與?」 王笑而不言。 曰:「爲肥甘不足於口與,輕暖不足於體與?抑爲采色不足視於目與?聲音不足聽於耳與?便嬖不足使令於前與?王之諸臣,皆足以供之,而王豈爲是哉?」 曰:「否!吾不爲是也。」 曰:「然則王之大欲可知已,欲闢土地,朝秦楚,蒞中國而撫四夷也。以若所爲,求若所欲,猶緣木而求魚也。」 王曰:「若是其甚與?」 曰:「殆有甚焉。緣木求魚,雖不得魚,無後災;以若所爲,求若所欲,盡心力而爲之,後必有災。」 曰:「可得聞與?」 曰:「鄒人與楚人戰,則王以爲孰勝?」 曰:「楚人勝。」 曰:「然則小固不可以敵大,寡固不可以敵衆,弱固不可以敵强。海內之地方千里者九,齊集有其一。以一服八,何以異於鄒敵楚哉?蓋亦反其本矣。 」
抑〻王甲兵を興し、士臣を危くし、怨を諸侯に構へ、然る後、心に快きか。王曰く、否、吾何ぞ是を快しとせん。將に以て吾が大いに欲する所を求めんとするなり。曰く、王の大いに欲する所は、聞くを得べきか。王笑ひて言はず。 曰く、肥甘の口に足らざるが爲めか、輕暖體に足らざるか、抑〻采色目に視るに足らざるが爲めか 聲音耳に聽くに足らざるか、便嬖前に使令するに足らざるか、王の諸臣皆以て之を供するに足れり。而して王豈に是が爲ならんや。曰く、否。吾是れが爲めならざるなり。曰く、然らば則ち王の大いに欲する所知る可きのみ。土地を闢き、秦楚を朝し、中國に蒞みて四夷を撫せんと欲するなり。若く爲す所を以て、若く欲する所を求めば、猶ほ木に緣りて魚を求むるがごときなり。王曰く、是の若く其れ甚しきか。曰く、殆んど焉より甚しき有り。木に緣りて魚を求むるは、魚を得ずと雖も、後災なし、若く爲す所を以て、若く欲する所を求めば、心力を盡して、之を爲すも、後必ず災あらん。曰く、聞くを得べきか。曰く、鄒人と楚人と戰へば、則ち王以て孰れか勝と爲す、曰く、楚人勝たん。曰く、然らば則ち小は固より以て大に敵す可からず。寡は固より衆に敵す可からず。弱は固より以て强に敵す可からず。海內の地、方千里なる者九、齊は集めて其一を有つ。一を以て八を服するは,何を以て鄒の楚に敵するに異ならんや。蓋ぞ亦其本に反らざる。
王は答えた。「いいえ。それで心が満たされることはありません。ただ、私の大きな望みを叶えたいのです。」
孟子は尋ねた。「では、王の大きな望みとは何でしょうか?」
王は笑って答えなかった。
孟子は言った。「もし王の望みが、土地を広げ、秦や楚を従え、中原を統治し、四方の蛮族を治めることであるなら、それを現在のやり方で求めるのは、木に登って魚を探すようなものです。」
王は驚いて尋ねた。「そんなに無謀なことなのですか?」
孟子は答えた。「それ以上に無謀です。木に登って魚を探しても、魚を得られないだけで災いはありません。しかし、今のようなやり方で王の望みを求めれば、心血を尽くした末に必ず災いが生じます。」
王は言った。「その理由を聞かせてください。」
孟子は続けた。「例えば、鄒の人が楚の人と戦ったら、王はどちらが勝つと思いますか?」
王は答えた。「楚の人が勝つでしょう。」
孟子は言った。「その通りです。小国は大国に敵わず、少数は多数に敵わず、弱者は強者に敵いません。海内には千里四方の土地を持つ国が九つあり、斉がそのうちの一つを占めています。斉が八つを従えるのは、鄒が楚と戦うのと変わりません。これを改めてその本に立ち返るべきです。」
「今王發政施仁,使天下仕者皆欲立於王之朝,耕者皆欲耕於王之野,商賈皆欲藏於王之市,行旅皆欲出於王之途,天下之欲疾其君者皆欲赴愬於王。其若是,孰能御之?」 王曰:「吾惛,不能進於是矣。願夫子輔吾志,明以敎我。我雖不敏,請嘗試之。」 曰:「無恆產而有恆心者,惟士爲能。若民,則無恆產,因無恆心。苟無恆心,放辟邪侈無不爲已。及陷於罪,然後從而刑之,是罔民也。焉有仁人在位罔民而可爲也?是故明君制民之產,必使仰足以事父母,俯足以畜妻子,樂歲終身飽,凶年免於死亡;然後驅而之善,故民之從之也輕。 」「今之制民之產,仰不足以事父母,俯不足以畜妻子;樂歲終身苦,凶年不免於死亡。此惟救死而恐不贍,奚暇治禮義哉? 」「王欲行之,則盍反其本矣:五畝之宅,樹之以桑,五十者可以衣帛矣。雞豚狗彘之畜,無失其時,七十者可以食肉矣。百畝之田,勿奪其時,八口之家可以無饑矣。謹庠序之敎,申之以孝悌之義,頒白者不負戴於道路矣。老者衣帛食肉,黎民不饑不寒,然而不王者,未之有也。」
今王政を發し仁を施さば、天下の仕ふる者をして皆王の朝に立たんと欲せしめ,耕す者をして皆王の野に耕さんと欲せしめ、商賈をして皆王の市に藏めんと欲せしめ,行旅をして皆王の途に出でんと欲せしめ、天下の其君を疾まんと欲する者をして、皆王に赴き愬へんと欲せしむ。其れ是の若くば、孰れか能く之を御めん。王曰く、吾惛くして是に進むこと能はず。願くは夫子吾が志を輔け、明かに以て我を敎へよ。我不敏と雖も、請ふ之を嘗試せん。曰く、恆產無くして恆心有る者は、惟士のみ能くするを爲す。民の若きは則ち恆產無ければ、因て恆心無し、苟も恆心無ければ、放辟邪侈、爲さざる無きのみ。罪に陷るに及び、然る後從うて之を刑す,是れ民を罔するなり。焉ぞ仁人位に在る有り、民を罔するを而も爲す可けんや。是の故に明君は民の產を制し、必ず仰いで以て父母に事ふるに足り、俯して以て妻子を畜ふに足り、樂歲には終身飽き、凶年には死亡に免れしめ、然る後驅りて善に之かしむ。故に民の之に從ふや輕し。 今や民の產を制し、仰いで以て父母に事ふるに足らず、俯して以て妻子を畜ふに足らず。樂歲にも終身苦み、凶年には死亡に免れず。此れ惟死を救うて贍らざるを恐る。奚ぞ禮義を治むるに暇あらんや。王之を行はんと欲せば、則ち盍ぞ其本に反らざる。五畝の宅之に樹うるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。雞豚狗彘の畜、其時を失ふ無くば、七十の者以て肉を食ふ可し。百畝の田、其時を奪ふ勿くば、八口の家以て饑うる無かる可し。庠序の敎を謹み、之に申ぬるに孝悌の義を以てせば、頒白の者道路に負戴せず。老者は帛を衣肉を食ひ、黎民饑ゑず寒えず。然り而して王たらざる者は未だ之れ有らざるなり。
「今、王が仁政を施し、以下のように改革を行えばどうなるでしょうか。天下の役人は皆、王の宮廷で働きたいと思い、農民は王の領地で耕作したいと思い、商人は王の市場で取引したいと思い、旅人は王の道を通りたいと思い、国君に不満を持つ者は皆、王のもとに駆け寄って訴えたいと思うでしょう。このようになれば、誰が王の天下統一を阻むことができるでしょうか?」
王は答えた。「私は愚鈍で、これを進めることができません。どうか先生、私の志を助け、明確に教えてください。私は鈍くとも、試してみたいと思います。」
孟子は言った。
「恒産(安定した生業)がなくても恒心(一定した道徳心)を保てるのは、士(有徳の者)のみです。民衆には恒産がなければ恒心を保つことができません。恒心を失えば、放蕩や邪道、贅沢、悪行を行うようになり、それが罪となった時に罰を与えるのでは、民を罠にかけているのと同じです。仁者が民を治める時に、民を罠にかけることなど許されるでしょうか?」
「ですから、明君は民の生業を整えることに努めます。民が親を養い、妻子を育てるのに十分な収入を得られるようにし、豊年には十分に暮らし、凶年でも死を免れるようにします。その上で、善行を奨励すれば、民は容易に従います。しかし今、民の生業が整えられておらず、親を養うにも、妻子を育てるにも不足しているため、豊年でも苦しい生活を送り、凶年には死を免れることができません。そのような状況で、どうして礼儀や道義を学ぶ暇があるでしょうか?」
「王がこれを実現しようと望まれるのであれば、その本に立ち返るべきです。五畝の宅地を与え、桑を植えさせれば五十歳以上の者が絹を着られるようになります。鶏や豚、犬、猪などを適切な時期に育てれば、七十歳以上の者が肉を食べられるようになります。百畝の田を与え、農繁期を奪わなければ八口の家族が飢えを免れるようになります。庠(学校)や序(地方の学問所)で教育を行い、孝行や弟の道を教えれば、高齢者が道端で重荷を背負うこともなくなります。」
「高齢者が絹を着て肉を食べられるようになり、庶民が飢えも寒さも感じずに暮らせるようになれば、それで天下の王になれない者などいません。」
莊暴見孟子,曰:「暴見於王,王語暴以好樂,暴未有以對也。」曰:「好樂何如?」孟子曰:「王之好樂甚,則齊國其庶幾乎!」他日,見於王曰:「王嘗語莊子以好樂,有諸?」王變乎色,曰:「寡人非能好先王之樂也,直好世俗之樂耳。」曰:「王之好樂甚,則國其庶幾乎,今之樂猶古之樂也。」曰:「可得聞與?」曰:「獨樂樂,與人樂樂,孰樂?」曰:「不若與人。」曰:「與少樂樂,與衆樂樂,孰樂?」曰:「不若與衆。」「臣請爲王言樂。今王鼓樂於此,百姓聞王鐘鼓之聲,管龠之音,舉疾首蹙額而相吿曰:『吾王之好鼓樂,夫何使我至於此極也?父子不相見,兄弟妻子離散。』今王田獵於此,百姓聞王車馬之音,見羽旄之美,舉疾首蹙額而相吿曰:『吾王之好田獵,夫何使我至於此極也?父子不相見,兄弟妻子離散。』此無他,不與民同樂也。「今王鼓樂於此,百姓聞王鐘鼓之聲,管龠之音,舉欣欣然有喜色而相吿曰:『吾王庶幾無疾病與,何以能鼓樂也?』今王田獵於此,百姓聞王車馬之音,見羽旄之美,舉欣欣然有喜色而相吿曰:『吾王庶幾無疾病與,何以能田獵也?』此無他,與民同樂也。今王與百姓同樂,則王矣。」
莊暴、孟子に見えて曰く、暴、王に見ゆ。王、暴に語るに樂を好むを以てす。暴未だ以て對ふる有らざるなり。曰く、樂を好む何如。孟子曰く、王の樂を好むこと甚しければ、則ち齊國其れ庶幾からんか。他日王に見えて、曰く、王嘗て莊子に語るに樂を好むを以てす。諸れ有るか。王、色を變じて、曰く、寡人能く先王の樂を好むに非ざるなり。直世俗の樂を好むのみ。曰く、王の樂を好むこと甚しければ、則ち齊國其れ庶幾からんか。今の樂は猶ほ古の樂のごときなり。曰く、聞くを得可きか。曰く、獨り樂して樂むと、人と樂して樂むと、孰れか樂しき。曰く、人と與にするに若かず。曰く、少と與に樂して樂むと、衆と與に樂して樂むと、孰れか樂しき。曰く、衆と與にするに若かざるなり。臣請ふ王の爲めに樂を言はん。今王此に鼓樂せん,百姓王の鐘鼓の聲、管龠の音を聞き、舉な首を疾ましめ頞を蹙めて相吿げて曰く、吾が王の鼓樂を好む、夫れ何ぞ我をして此極に至らしむるや。父子相見ず、兄弟妻子離散すと。今王此に田獵せん。百姓王の車馬の音を聞き、羽旄の美を見て、舉な首を疾ましめ頞を蹙めて相吿げて曰く、吾が王の田獵を好む、夫れ何ぞ我をして此極に至らしむるや。父子相見ず、兄弟妻子離散すと。此れ他無し。民と與に樂を同じくせざるなり。今王此に鼓樂せん,百姓王の鐘鼓の聲、管龠の音を聞き、舉な欣欣然として喜色有り。而して相吿げて曰く、吾が王庶幾くは疾病無きか、何ぞ以て能く鼓樂するや。今王此に田獵せん。百姓王の車馬の音を聞き、羽旄の美を見て、舉な欣欣然として喜色有り。而して相吿げて曰く、吾が王庶幾くは疾病無きか、何を以て能く田獵するや。此れ他無し。民と與に樂みを同じくすればなり。今王百姓と與に樂みを同じくせば、則ち王たらん。
庄暴が孟子を訪ねて言った。「私は王にお目にかかりましたが、王は私に音楽を好むことについて語られました。私は何もお答えできませんでした。」
孟子は答えた。「王が音楽を大いに好まれるなら、斉の国もきっと繁栄に近づくでしょう。」
後日、庄暴は王にお目にかかり言った。「王がかつて私に音楽を好むとおっしゃいましたが、それは事実ですか?」
王は顔色を変え言った。「私は必ずしも先王の音楽を好むわけではありません。ただ、世俗の音楽を好むだけです。」
孟子は言った。「王が音楽を大いに好まれるなら、斉の国もきっと繁栄に近づくでしょう。今の音楽も昔の音楽と変わりありません。」
王が尋ねた。「その音楽について聞くことはできますか?」
孟子は答えた。「一人で楽しむ音楽と、他人と共に楽しむ音楽、どちらが楽しいでしょうか?」
王は答えた。「他人と共に楽しむほうが良いです。」
孟子は尋ねた。「少人数で楽しむ音楽と、多くの人と共に楽しむ音楽、どちらが楽しいでしょうか?」
王は答えた。「多くの人と共に楽しむほうが良いです。」
孟子は言った。「それでは、臣が王に音楽についてお話ししましょう。今、王がここで音楽を奏でると、百姓たちは王の鐘や鼓の音、管や笛の音を聞き、皆が眉をひそめ、不満げに顔をしかめて互いに言うでしょう。『我々の王は鼓楽を好むと言うが、なぜ私たちをこれほどまで苦しめるのか。父と子が顔を合わせることもできず、兄弟や妻子が離散してしまっている。』
今、王がここで狩りを行うと、百姓たちは王の車馬の音を聞き、羽飾りの美しさを見て、同じように眉をひそめ、不満げに顔をしかめて互いに言うでしょう。『我々の王は狩りを好むと言うが、なぜ私たちをこれほどまで苦しめるのか。父と子が顔を合わせることもできず、兄弟や妻子が離散してしまっている。』
これらは他でもありません。民と楽しみを共有していないからです。」
孟子は続けた。「もし今、王がここで音楽を奏でると、百姓たちは王の鐘や鼓の音、管や笛の音を聞き、皆が喜びの表情を浮かべて互いに言うでしょう。『我々の王に何も病気がないのだろうか。どうしてこれほど楽しげに音楽を奏でられるのか。』
もし王がここで狩りを行うと、百姓たちは王の車馬の音を聞き、羽飾りの美しさを見て、同じように喜びの表情を浮かべて互いに言うでしょう。『我々の王に何も病気がないのだろうか。どうしてこれほど楽しげに狩りを行えるのか。』
これも他でもありません。民と楽しみを共有しているからです。今、王が百姓たちと楽しみを共有されるならば、それこそ真の王と言えるでしょう。」
齊宣王問曰:「文王之囿方七十里,有諸?」孟子對曰:「於傳有之。」曰:「若是其大乎?」曰:「民猶以爲小也。」曰:「寡人之囿方四十里,民猶以爲大,何也?」曰:「文王之囿方七十里,芻蕘者往焉,雉兔者往焉,與民同之。民以爲小,不亦宜乎?臣始至於境,問國之大禁,然後敢入。臣聞郊關之內有囿方四十里,殺其麋鹿者如殺人之罪,則是方四十里爲阱於國中。民以爲大,不亦宜乎?」
齊の宣王問うて曰く、文王の囿は、方七十里と。諸有るか。孟子對へて曰く、傳に於て之れ有り。曰く、是の若く其れ大なるか。曰く、民は猶ほ以て小と爲すなり。曰く、寡人の囿は、方四十里、民は猶ほ以て大と爲すは、何ぞや。曰く、文王の囿は方七十里、芻蕘の者往き、雉兔の者往く、民と與に之を同じくす。民以て小と爲すも、亦宜ならずや。臣始めて境に至り、國の大禁を問うて、然る後敢へて入る。臣聞く、郊關の內に囿方四十里有り。其麋鹿を殺す者は、人を殺すの罪の如しと、則ち是れ方四十里にして、阱を國中に爲るなり。民以て大と爲すも、亦宜ならずや。
斉の宣王が尋ねた。「文王の苑は七十里四方あったと聞くが、これは本当か?」
孟子は答えた。「伝えによればその通りです。」
王が尋ねた。「そんなに広いのか?」
孟子は答えた。「民はそれを小さいと考えていました。」
王は言った。「私の苑は四十里四方ですが、民はそれを大きいと考えています。なぜでしょうか?」
孟子は答えた。「文王の苑は七十里四方ありましたが、薪を取る者も、草を刈る者も、鳥や兎を捕らえる者も自由に入ることができ、民と共有されていました。民がそれを小さいと考えたのは当然のことです。
私はこの国に初めて来たとき、まず国の大きな禁令を尋ね、それから中に入る許しを求めました。私は郊外と市街地の境界の内側に四十里四方の苑があり、そこでは鹿を殺すことが人を殺すのと同じ罪に問われると聞きました。そうであれば、その四十里四方の土地は国の中で一つの大きな落とし穴となっています。民がそれを大きいと考えるのも当然ではないでしょうか?」
齊宣王問曰:「交鄰國有道乎?」孟子對曰:「有。惟仁者爲能以大事小,是故湯事葛,文王事昆夷。惟智者爲能以小事大,故太王整事獯鬻,勾踐事吳。以大事小者,樂天者也;以小事大者,畏天者也。樂天者保天下,畏天者保其國。《詩》云:『畏天之威,於時保之。』」王曰:「大哉言矣!寡人有疾,寡人好勇。」對曰:「王請無好小勇。夫撫劍疾視曰,『彼惡敢當我哉!』此匹夫之勇,敵一人者也。王請大之!「詩云:『王赫斯怒,爰整其旅,以遏徂莒,以篤周祜,以對於天下。』此文王之勇也。文王一怒而安天下之民。「書曰:『天降下民,作之君,作之師,惟曰其助上帝寵之。四方有罪無罪惟我在,天下曷敢有越厥志?』一人衡行於天下,武王恥之。此武王之勇也。而武王亦一怒而安天下之民。今王亦一怒而安天下之民,民惟恐王之不好勇也。」
齊の宣王問うて曰く、鄰國に交るに道あるか。孟子對へて曰く、有り。惟仁者のみ能く大を以て小に事ふるを爲す。是の故に湯は葛に事へ、文王は昆夷に事ふ。惟智者のみ能く小を以て大に事ふるを爲す。故に太王は獯鬻に事へ、勾踐は吳に事ふ。大を以て小に事ふる者は、天を樂む者なり。小を以て大に事ふる者は、天を畏るゝ者なり。天を樂む者は天下を保つ。天を畏るゝ者は其國を保つ。詩に云ふ、天の威を畏れ、時に於いて之を保つ。王曰く、大なるかな言、寡人疾有り、寡人勇を好む。對へて曰く、王請ふ小勇を好む無れ。夫の劍を撫で疾み視て、曰く、彼れ惡んぞ敢て我に當らんやと、此れ匹夫の勇にして、一人に敵する者なり。王請ふ之を大にせよ。詩に云ふ、王赫として斯に怒り、爰に其旅を整へ、以て莒に徂くを遏め、以て周の祜を篤くし、以て天下に對す。此れ文王の勇なり。文王一たび怒りて天下の民を安んず。書に曰く、天、下民を降し、之が君と作し、之が師と作す、惟れ其の上帝を助くるを曰うて、之を四方に寵す。罪有る罪無き惟我れ在り。天下曷ぞ敢へて厥の志を越す有らん。一人天下に衡行するは、武王之を恥づ。此れ武王の勇なり。而して武王亦一たび怒りて而して天下の民を安んず。今王亦一たび怒りて而うして天下の民を安んぜば、民惟王の勇を好まざるを恐るゝなり。
斉の宣王が尋ねた。「隣国と交わるには道があるのか?」
孟子は答えた。「あります。仁徳のある者だけが、大国として小国に仕えることができます。したがって、湯王は葛に仕え、文王は昆夷に仕えました。また、知恵のある者だけが、小国として大国に仕えることができます。したがって、大王は獯鬻に仕え、句践は呉に仕えました。
大国が小国に仕えるのは、天命を喜んで受け入れる者の行動であり、小国が大国に仕えるのは、天命を畏れる者の行動です。天命を喜ぶ者は天下を守り、天命を畏れる者はその国を守ります。『詩経』には『天の威を畏れ、それを守る』とあります。」
王は言った。「なんと深遠な言葉だ!しかし、私は一つの欠点があります。それは、私は勇を好むことです。」
孟子は答えた。「王よ、どうか小さな勇を好むことはおやめください。剣を握り、目を怒らせて『誰が私に立ち向かえるだろうか!』と叫ぶようなものは、匹夫の勇であり、ただ一人に敵対するだけのものです。どうかその勇を大きなものになさってください!
『詩経』にはこうあります。『王が怒り、その軍を整え、侵攻してきた莒を食い止め、周の福祉を深め、天下に応じた』と。これは文王の勇です。文王は一度の怒りによって天下の民を安定させました。
『書経』にはこうあります。『天は下民を降ろし、君主を作り、師を作った。それは天の助けを受け、四方を慈しむためである。有罪か無罪かにかかわらず、それは私たちの責任であり、天下の者がその意志を越えることはない』と。一人の悪者が天下を歩き回ることを、武王は恥じました。これが武王の勇です。武王もまた、一度の怒りによって天下の民を安定させました。
今、王もまた、一度の怒りによって天下の民を安定させてください。民はただ、王が勇を好まれないのではないかと恐れるだけです。」
齊宣王見孟子於雪宮。王曰:「賢者亦有此樂乎?」孟子對曰:「有。人不得,則非其上矣。不得而非其上者,非也;爲民上而不與民同樂者,亦非也。樂民之樂者,民亦樂其樂;憂民之憂者,民亦憂其憂。樂以天下,憂以天下,然而不王者,未之有也。「昔者齊景公問於晏子曰:『吾欲觀於轉附朝舞,遵海而南,放於琅邪,吾何修而可以比於先王觀也?』「晏子對曰:『善哉問也!天子適諸侯曰巡狩。巡狩者,巡所守也。諸侯朝於天子曰述職。述職者,述所職也。無非事者。春省耕而補不足,秋省斂而助不給。夏諺曰:『吾王不游,吾何以休?吾王不豫,吾何以助?一遊一豫,爲諸侯度。』今也不然:師行而糧食,饑者弗食,勞者弗息。睊睊胥讒,民乃作慝。方命虐民,飮食若流。流連荒亡,爲諸侯憂。從流下而忘反謂之流,從流上而忘反謂之連,從獸無厭謂之荒,樂酒無厭謂之亡。先王無流連之樂,荒亡之行。惟君所行也。』「景公說,大戒於國,出捨於郊。於是始興發補不足。召大師曰:『爲我作君臣相說之樂!』蓋征招角招是也。其詩曰,『畜君何尤?』畜君者,好君也。」
齊の宣王孟子を雪宮に見る。王曰く、賢者も亦此樂み有るか。孟子對へて曰く、有り、人得ざれば則ち其上を非る。得ずして而して其上を非る者は非なり。民の上と爲り而して民と樂みを同じくせざる者も亦非なり。民の樂みを樂む者は、民も亦其樂みを樂む。民の憂を憂ふる者は、民も亦其憂を憂ふ。樂むに天下を以てし、憂ふるに天下を以てす。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。昔者齊の景公、晏子に問うて、曰く、吾轉附朝舞を觀て、海に遵ひ而うして南琅邪に放らんと欲す。吾何を修めて而して以て先王の觀に比す可き。晏子對へて曰く、善きかな問や。天子諸侯に適くを巡狩と曰ふ。巡狩とは守る所を巡るなり。諸侯天子に朝するを述職と曰ふ。述職とは職とする所を述ぶるなり。事に非る者なし。春は耕を省みて而うして足らざるを補ひ、秋は斂るを省みて而うして給らざるを助く。夏の諺に曰く、吾が王游ばずんば、吾れ何を以て休せん。吾が王豫せずんば、吾れ何を以て助からん。一遊一豫、諸侯の度と爲ると。今や然らず。師行いて而して糧食す。饑者は食はず、勞者は息はず。睊睊として胥ひ讒り、民乃ち慝を作す。命を方し民を虐す。飮食流るゝが如く、流連荒亡、諸侯の憂となる。流に從ひ下りて而して反るを忘る、之を流と謂ふ。流に從ひ上り而して反るを忘る、之を連と謂ふ。獸に從ひ厭くなき、之を荒と謂ふ。酒を樂み厭くなき、之を亡と謂ふ。先王は流連の樂み荒亡の行なし。惟君の行ふ所なり。景公說び、大いに國に戒め、出でて郊に捨し、是に於て始めて興發し足らざるを補ふ。大師を召して曰く、我が爲めに君臣相說ぶの樂を作れと。蓋し徴招・角招是れなり。其詩に曰く、君を畜する何ぞ尤めん。君を畜するとは、君を好するなり。
斉の宣王が雪宮で孟子に会い、言った。「賢者もこのような楽しみを持つことがあるのか?」
孟子は答えた。「あります。人が楽しみを得られないときには、その上に立つ者を非難するものです。しかし、楽しみを得られないからといって上を非難するのは正しくありません。また、民の上に立つ者が民と楽しみを共有しないのも正しくありません。民の楽しみを共に喜ぶ者には、民もその楽しみを喜び、民の苦しみを共に憂える者には、民もその苦しみを憂えます。天下の楽しみを共にし、天下の憂いを共にする者が、王になれないことはこれまで一度もありませんでした。
昔、斉の景公が晏子に尋ねました。『私は転附や朝儛(古代の舞踊)を見物し、海沿いを南に下り、琅邪で遊びたいと思う。それを先王の行幸に匹敵するものにするには、どうすればよいだろうか?』
晏子は答えました。『素晴らしいご質問です。天子が諸侯を訪れるのは「巡狩」と呼ばれます。「巡狩」とは、その守るべきことを巡って確認するものです。諸侯が天子を訪れて報告を行うのは「述職」と呼ばれます。「述職」とは、その職務を述べるものです。いずれも無駄な行いではありません。
春には耕作を視察して不足を補い、秋には収穫を確認して不足を助けます。夏の諺にはこうあります。「我が王が遊ばなければ、我々はどうやって休むことができるのか。我が王が楽しみを取らなければ、我々はどうやって助けを得られるのか。一つの遊びや一つの楽しみが諸侯の基準となるのだ」と。しかし今ではそうではありません。軍隊を動かしても糧食が足りず、飢える者は食べられず、労働者は休めません。不平不満が生まれ、民は悪事を働きます。
命令は民を苦しめるものであり、飲食は川のように流れています。流連(遊びに没頭し過ぎること)し、荒亡(遊興にふけり堕落すること)することは、諸侯の憂いの種となります。川の流れに乗って下り、戻ることを忘れるのを「流」と言い、川の流れに乗って上り、戻ることを忘れるのを「連」と言います。獣のように欲を満たすことを「荒」と言い、酒を楽しむことに飽きないのを「亡」と言います。先王には流連の楽しみや荒亡の行動はありませんでした。これは全て君の行動にかかっています。』
景公はこの言葉を喜び、大いに国に戒めを布告しました。そして郊外に移り住み、不足の補填を始めました。大師を呼び、『君臣が共に楽しめる音楽を作ってくれ!』と命じました。このとき作られたのが「徵招角招」と呼ばれる楽曲です。その詩にはこうあります。『君を慕うことに何の不満があろうか』と。この「君を慕う」というのは、君を愛することを意味します。」
齊宣王問曰:「人皆謂我毀明堂,毀諸?已乎?」孟子對曰:「夫明堂者,王者之堂也。王欲行王政,則勿毀之矣。」王曰:「王政可得聞與?」對曰:「昔者文王之治岐也,耕者九一,仕者世祿,關市譏而不征,澤梁無禁,罪人不孥。老而無妻曰鰥,老而無夫曰寡,老而無子曰獨,幼而無父曰孤。此四者,天下之窮民而無吿者。文王發政施仁,必先斯四者。詩云,『哿矣富人,哀此煢獨。』」王曰:「善哉言乎!」曰:「王如善之,則何爲不行?」王曰:「寡人有疾,寡人好貨。」對曰:「昔者公劉好貨,詩云:『乃積乃倉,乃裹餱糧,於橐於囊。思戢用光。弓矢斯張,干戈戚揚,爰方啟行。』故居者有積倉,行者有裹囊也,然後可以爰方啟行。王如好貨,與百姓同之,於王何有?」王曰:「寡人有疾,寡人好色。」對曰:「昔者大王好色,愛厥妃。詩云:『古公亶父,來朝走馬;率西水滸,至於岐下;爰及姜女,聿來胥宇。』當是時也,內無怨女,外無曠夫;王如好色,與百姓同之,於王何有!」
齊の宣王問うて、曰く、人皆我に明堂を毀てと謂ふ。諸を毀たんか、已めんか。孟子對へて曰く、夫れ明堂は、王者の堂なり。王、王政を行はんと欲せば則ち之を毀つ勿かれ。王曰く、王政聞くことを得べきか。對へて曰く、昔者文王の岐を治むるや、耕す者九が一、仕ふる者祿を世〻にす。關市は譏して征せず、澤梁は禁無く、人を罪すれど孥せず。老いて妻なきを鰥と曰ひ、老いて夫なきを寡と曰ひ、老いて子なきを獨と曰ひ、幼にして父なきを孤と曰ふ。此四者は、天下の窮民にして、而して吿ぐるなき者なり。文王政を發し仁を施す、必ず斯の四者を先にす。詩に云ふ、哿なり富める人、哀む此煢獨をと。王曰く、善いかな言や。曰く、王如し之を善しとせば、則ち何爲れぞ行はざる。王曰く、寡人疾有り。寡人貨を好む。對へて曰く、昔者公劉貨を好む。詩に云ふ、乃ち積し乃つ倉し、乃ち餱糧を裹む、橐に囊に、戢めて用て光いにせんことを思ふ。弓矢斯に張り、干戈戚揚、爰に方めて行を啟くと。故に居る者は積倉あり、行く者は裹糧あるなり。然る後以て爰に方めて行を啟く可し。王如し貨を好まば、百姓と之を同じくせば、王たるに於て何か有らん。王曰く、寡人疾有り。寡人色を好む。對へて曰く、昔者大王色を好み、厥の妃を愛す。詩に云ふ、古公亶父、來りて朝に馬を走らせ、西水の滸に率ひ、岐下に至り、爰に姜女と、聿に來り宇を胥ると。是の時に當つて、內に怨女無く、外に曠夫無し。王如し色を好みて、百姓と之を同じくせば、王たるに於て何か有らん。
斉の宣王が尋ねた。「皆が私を非難して明堂を壊そうとしていると言っている。壊すべきだろうか?それともやめるべきだろうか?」
孟子は答えた。「明堂とは、王者の堂です。王が王道政治を行おうと思われるのであれば、それを壊してはなりません。」
王は言った。「王道政治について聞かせてくれるか?」
孟子は答えた。「昔、文王が岐を治めたとき、耕作者は収穫の九分を取り、一分を貢納しました。官僚は世襲で俸禄を受け取りました。関所や市場では不当な利益を戒めましたが、課税はありませんでした。池や川での漁猟は自由でした。犯罪者がいても、その家族に連座させることはありませんでした。
妻のない老年男性を『鰥』と呼び、夫のない老年女性を『寡』と呼び、子供のいない老年者を『独』と呼び、父親のいない子供を『孤』と呼びます。この四者は、天下でも最も困窮し、助ける者のいない人々です。文王は政治を施し仁政を行う際、必ずこれら四者を最初に助けました。『詩経』にもこうあります。『富める者を喜び、この孤独な人々を哀れむ』と。」
王は言った。「なんと素晴らしい言葉だ!」
孟子は言った。「王がそれを素晴らしいとお考えなら、なぜ行わないのですか?」
王は答えた。「私には一つの欠点がある。それは、私は財貨を好むことだ。」
孟子は答えた。「昔、周の公劉もまた財貨を好みました。『詩経』にはこうあります。『倉を積み、袋に糧を詰め、弓矢を準備し、盾や戈を整えて、行動の備えをした』と。このように、住む者には倉があり、旅する者には携行食がある状態を作り出したのです。それによって初めて、遠方への移住が可能になりました。王が財貨を好むなら、それを民と共有してください。それで王に何の問題があるでしょうか?」
王は言った。「私にはもう一つの欠点がある。それは、私は色欲を好むことだ。」
孟子は答えた。「昔、周の大王もまた色欲を好み、その妃を深く愛しました。『詩経』にはこうあります。『古公亶甫は馬を走らせ、西の水辺を率い、岐山の麓に至った。そこで姜氏の女性を娶り、共に家を営んだ』と。このとき、国内には怨みを抱く女性はおらず、外には結婚できない男性もいませんでした。王が色欲を好むなら、それを民と共有してください。それで王に何の問題があるでしょうか?」
孟子謂齊宣王,曰:「王之臣有托其妻子於其友而之楚游者,比其反也,則凍餒其妻子,則如之何?」王曰:「棄之。」曰:「士師不能治士,則如之何?」王曰:「已之。」曰:「四境之內不治,則如之何?」王顧左右而言他。
孟子齊の宣王に謂ひて曰く、王の臣、其妻子を其友に托して而して楚に之き游ぶ者あらん。其の反るに比びて、則ち其妻子を凍餒せしめば、則ち之を如何せん。王曰く、之を棄てん。曰く、士師士を治むる能はずんば、則ち之を如何せん。王曰く、之を已めん。曰く、四境の內治まらずんば、則ち之を如何せん。王左右を顧みて他を言ふ。
孟子は斉の宣王に言った。「王の臣下が、自分の妻子を友人に託し、楚へ遊びに行ったとします。その後、帰ってきたところ、妻子は寒さに凍え、飢えていたとしたら、どうしますか?」
王は答えた。「その友人を見捨てます。」
孟子は尋ねた。「士師(司法官)が士(民)を適切に治められなかった場合はどうしますか?」
王は答えた。「その者を解任します。」
孟子は続けた。「では、四境(国の領域)内が治められていない場合はどうしますか?」
王は左右を見回し、話題をそらしました。
孟子見齊宣王,曰:「所謂故國者,非謂有喬木之謂也,有世臣之謂也。王無親臣矣,昔者所進,今日不知其亡也。」王曰:「吾何以識其不才而捨之?」曰:「國君進賢,如不得已,將使卑逾尊,疏逾戚,可不愼與?左右皆曰賢,未可也;諸大夫皆曰賢,未可也;國人皆曰賢,然後察之;見賢焉,然後用之。左右皆曰不可,勿聽;諸大夫皆曰不可,勿聽;國人皆曰不可,然後察之;見不可焉,然後去之。左右皆曰可殺,勿聽;諸大夫皆曰可殺,勿聽;國人皆曰可殺,然後察之,見可殺焉,然後殺之。故曰,國人殺之也。如此,然後可以爲民父母。」
孟子齊の宣王に見えて曰く、所謂故國とは、喬木あるの謂を謂ふに非ざるなり。世臣あるの謂なり。王は親臣無し。昔者進むる所、今日は其亡を知らざるなり。王曰く、吾何を以て其不才を識りて而して之を舎てん。曰く、國君賢を進むる已むを得ざるが如くす。將に卑をして尊に逾え疏をして戚に逾えしめんとす。愼まざる可けんや。左右皆曰ふ、賢と。未だ可ならざるなり。諸大夫皆曰ふ、賢と。未だ可ならざるなり。國人皆曰ふ、賢と。然る後之を察し、賢なるを見て、然る後に之を用ふ。左右皆曰ふ、不可と。聽く勿れ。諸大夫皆曰ふ、不可と。聽く勿れ。國人皆曰ふ、不可と。然る後之を察し、不可なるを見て、然る後之を去る。左右皆曰ふ、殺す可しと。聽く勿れ。諸大夫皆曰ふ、殺す可しと。聽く勿れ。國人皆曰ふ、殺す可しと。然る後之を察し、殺す可きを見て、然る後之を殺す。故に曰ふ、國人之を殺すと。此の如くして、然る後以て民の父母たる可し。
孟子は斉の宣王に言った。「『故国』と言われるものは、大きな木があるという意味ではありません。代々の忠臣がいるという意味です。王には親しい忠臣がいないようです。かつて登用した者たちの中で、今その消息がわからない者もいるのではありませんか?」
王は言った。「彼らの無能さをどうやって見極めて追放すればよいのだろうか?」
孟子は答えた。「国君が賢者を登用する場合、それが避けられないときであっても、低い地位の者が高い地位の者を超え、疎遠な者が親しい者を超えることを避けねばなりません。それゆえ、慎重であるべきです。
まず側近が皆賢者だと言っても、それだけではまだ採用してはなりません。次に、大夫たちが皆賢者だと言っても、それだけではまだ採用してはなりません。国全体の人々が皆賢者だと言ったときに初めて調査し、賢者であることが確認できたなら登用するのです。
また、側近が皆「不適格だ」と言っても、それだけで退けてはなりません。大夫たちが皆「不適格だ」と言っても、それだけで退けてはなりません。国全体の人々が皆「不適格だ」と言ったときに初めて調査し、不適格であることが確認できたなら解任するのです。
、側近が皆「殺すべきだ」と言っても、それだけで殺してはなりません。大夫たちが皆「殺すべきだ」と言っても、それだけで殺してはなりません。国全体の人々が皆「殺すべきだ」と言ったときに初めて調査し、殺すべきであることが確認できたなら処罰するのです。この場合、それを『国の人々がその者を殺した』と言うのです。このようにして初めて、王は民の父母となることができるのです。」
齊宣王問曰:「湯放桀,武王伐紂,有諸?」孟子對曰:「於傳有之。」曰:「臣弒其君,可乎?」曰:「賊仁者謂之『賊』,賊義者謂之『殘』。殘賊之人謂之『一夫』。聞誅一夫紂矣,未聞弒君也。」
齊の宣王問うて、曰く、湯桀を放ち、武王紂を伐つ、諸れ有るか。孟子對へて曰く、傳に於て之有り。曰く、臣にして其君を弒す、可なるか。曰く、仁を賊ふ者之を賊と謂ひ、義を賊ふ者之を殘と謂ふ。殘賊の人は之を一夫と謂ふ。一夫の紂を誅するを聞けり。未だ君を弒するを聞かざるなり。
斉の宣王が尋ねた。「湯王が桀を追放し、武王が紂を討ったという話は本当か?」
孟子は答えた。「伝えによれば、それは本当です。」
王は尋ねた。「臣下が君主を殺すことは許されるのか?」
孟子は答えた。「仁を損なう者を『賊』と呼び、義を損なう者を『残』と呼びます。そのような残虐非道な者を『一人の悪人』とみなします。私は『一人の悪人である紂を討った』とは聞きましたが、『君主を殺した』とは聞いていません。」
孟子見齊宣王,曰:「爲巨室,則必使工師求大木。工師得大木,則王喜,以爲能勝其任也。匠人斫而小之,則王怒,以爲不勝其任矣。夫人幼而學之,壯而欲行之,王曰:『姑捨女所學而從我』,則何如?今有璞玉於此,雖萬鎰,必使玉人雕琢之。至於治國家,則曰:『姑捨女所學而從我』,則何以異於敎玉人雕琢玉哉?」
孟子齊の宣王に謂ひて曰く、巨室を爲くらば、則ち必ず工師をして大木を求めしむ。工師大木を得ば、則ち王喜んで以て其任に勝ふと爲さん。匠人斫りて而して之を小にせば、則ち王怒りて以て其任に勝へずと爲さん。夫れ人幼にして之を學び、壯にして之を行はんと欲す。王曰く、姑く女が學ぶ所を舍き我に從へと。則ち何如。今此に璞玉あらば、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を雕琢せしめん。國家を治むるに至りては、則ち曰く、姑く女が學ぶ所を舍て而して我に從へと。則ち何を以て玉人に玉を雕琢するを敎ふるに異ならんや。
孟子は斉の宣王に言った。
「大きな建物を建てるときには、必ず大工に大木を探させます。大工が大木を見つけると、王はそれを喜び、それが建築に耐えられると考えます。しかし、もし匠人がその木を削って小さくしてしまえば、王は怒り、それが建築に耐えられないと考えるでしょう。
人もまた同じです。幼少のころから学び、大人になればそれを実践しようとします。それにもかかわらず、王が『その学んだことをひとまず置いておけ、私に従え』と言えば、どうなるでしょうか?
たとえばここに璞玉(未加工の玉)があったとします。その価値がたとえ一万鎰に及ぶとしても、必ず玉職人に彫琢させるでしょう。しかし、国を治めることになると、『その学んだことをひとまず置いておけ、私に従え』と言うのは、玉職人に彫琢を教えようとすることと何が違うのでしょうか?」
齊人伐燕,勝之。宣王問曰:「或謂寡人勿取,或謂寡人取之。以萬乘之國伐萬乘之國,五旬而舉之,人力不至於此。不取,必有天殃。取之,何如?」孟子對曰:「取之而燕民悅,則取之。古之人有行之者,武王是也。取之而燕民不悅,則勿取,古之人有行之者,文王是也。以萬乘之國伐萬乘之國,簞食壺漿以迎王師,豈有他哉?避水火也。如水益深,如火益熱,亦運而已矣。」
齊人燕を伐ち之に勝つ。宣王問うて曰く、或ひとは寡人に取る勿れと謂ふ。或ひとは寡人に之を取れと謂ふ。萬乘の國を以て萬乘の國を伐つ、五旬にして而して之を舉ぐ。人力は此に至らず。取らずんば必ず天殃有らん。之を取る何如。孟子對へて曰く、之を取りて燕の民悅ばば、則ち之を取れ。古の人之を行ふ者有り。武王是れなり。之を取りて而して燕の民悅ばずんば、則ち取る勿れ。古の人之を行ふ者有り。文王是れなり。萬乘の國を以て萬乘の國を伐つ、簞食壺漿して、以て王師を迎ふるは,豈に他あらんや、水火を避けんとすればなり、水の益〻深きが如く、火の益〻熱きが如くならば、亦運らんのみ。
斉の人々が燕を討伐し、勝利を収めた。宣王が尋ねた。
「ある者は私に『取るべきではない』と言い、ある者は『取るべきだ』と言います。万乗の国が万乗の国を討伐し、わずか五十日でその国を落としました。これは人の力ではありません。もし取らなければ、必ず天罰があるでしょう。取るべきでしょうか?」
孟子は答えた。
「もし取って燕の民が喜ぶなら、取るべきです。昔の人でそのようにした者がいます。武王がその例です。しかし、もし取って燕の民が喜ばないなら、取るべきではありません。これも昔の人でそのようにした者がいます。文王がその例です。
万乗の国が万乗の国を討伐し、民が簞に食を盛り、壺に飲み物を入れて王の軍隊を迎えたのは、他の理由ではありません。水火を避けるためです。もし水が深くなり、火が熱くなれば、国民は自ずとその国を運び去るだけです。」
齊人伐燕,取之。諸侯將謀救燕。宣王曰:「諸侯多謀伐寡人者,何以待之?」孟子對曰:「臣聞七十里爲政於天下者,湯是也。未聞以千里畏人者也。書曰:『湯一征,自葛始。」天下信之,東面而征,西夷怨;南面而征,北狄怨曰:『奚爲後我?』民望之,若大旱之望雲霓也。歸市者不止,耕者不變。誅其君而弔其民,若時雨降。民大悅。書曰:『徯我后,后來其蘇。』今燕虐其民,王往而征之,民以爲將拯己於水火之中也,簞食壺漿以迎王師。若殺其兄父,係累其子弟,毀其宗廟,遷其重器,如之何其可也?天下固畏齊之强也,今又倍地而不行仁政,是動天下之兵也。王速出令,反其旄倪,止其重器,謀於燕衆,置君而後去之,則猶可及止也。」
齊人燕を伐ち之を取る。諸侯將に燕を救ふことを謀らんとす。宣王曰く、諸侯寡人を伐つを謀る者多し。何を以て之を待たん。孟子對へて曰く、臣聞く、七十里にして政を天下に爲す者は、湯是れなり。未だ千里を以て人を畏るゝ者を聞かざるなり。書に曰く、湯一めて征する葛より始む。天下之を信ず。東面して征すれば、西夷怨み、南面して征すれば、北狄怨む。曰く、奚爲れぞ我を後にすと。民之を望むこと大旱の雲霓を望むが若きなり。市に歸する者止まず、耕す者變ぜず、其君を誅し、而して其民を弔し、時雨の降るが若く、民大いに悅ぶ。書に曰く、我が后を徯つ。后來らば其れ蘇せんと。』今燕其民を虐す。王往きて之を征す。民以て將に己を水火の中に拯はんとすと爲すや、簞食壺漿して以て王師を迎へん。若し其父兄を殺し、其子弟を係累し、其宗廟を毀ち、其重器を遷さば、之を如何ぞ其れ可ならん。天下固より齊の强を畏るゝなり。今又地を倍して而して仁政を行はずんば、是れ天下の兵を動かさん。王速に令を出し、其旄倪を反し、其重器を止め、燕の衆に謀り、君を置きて而して後に之を去らば、則ち猶ほ止むに及ぶ可きなり。
斉の軍が燕を攻め取りました。諸侯たちは燕を救うために謀議を始めようとしました。宣王は言いました:「諸侯たちの多くが我が国を討つ相談をしているようだ。どうやって対処すればよいか?」
孟子は答えました:「臣は、七十里四方の土地を治めて天下を制したのは湯王だけだと聞いております。しかし、千里の大国で他国を恐れたという話は聞いたことがありません。『書経』にはこう記されています:『湯が遠征を始めたのは葛の地からだった』と。天下の人々は彼を信じました。『東を征伐すれば西の異民族が怨み、南を征伐すれば北の蛮族が怨む。なぜ我々より後に来るのだろうか?』と。民衆は湯王を待ち望み、ちょうど大干ばつのときに雨雲を待つようなものでした。市場に出る者は活動を止めることなく、農民たちも作業を中断しませんでした。彼は暴虐な君主を討ち、民を慰め、まるで適時の雨が降り注ぐように、民衆は大いに喜びました。『書経』にこうあります:『我らの君主を待ち望む、その君主が来れば我々は救われるだろう』と。
今、燕は民を虐げていました。王が出征すれば、民は自分たちを水火の苦しみから救ってくれると思い、食べ物や飲み物を持って王の軍を迎えました。しかし、もし王がその父兄を殺し、その子弟を縛り、宗廟を破壊し、重要な財産を奪っていったならば、どうしてそれが許されましょうか?天下の人々はすでに斉の強大さを恐れています。今また燕の土地を倍に広げながら仁政を行わなければ、天下の兵を動かすことになってしまいます。王よ、速やかに命令を発し、奪った土地を返し、重要な財産を返還し、燕の民衆と相談して、適当な君主を置いてから去るべきです。そうすれば、まだ事態を収めることが可能です。」
鄒與魯鬨。穆公問曰:「吾有司死者三十三人,而民莫之死也。誅之,則不可勝誅;不誅,則疾視其長上之死而不救,如之何則可也?」孟子對曰:「凶年饑歲,君之民老弱轉乎溝壑,壯者散而之四方者,幾千人矣;而君之倉廩實,府庫充,有司莫以吿,是上慢而殘下也。曾子曰:『戒之戒之!出乎爾者,反乎爾者也。』夫民今而後得反之也。君無尤焉!君行仁政,斯民親其上,死其長矣。」
鄒、魯と鬨ふ。穆公問うて曰く、吾が有司死する者三十三人,而して民之に死する莫きなり。之を誅せば勝げて誅す可からず。誅せざれば則ち其長上の死を疾視して、而して救はず。之を如何せば則ち可ならん。孟子對へて曰く、凶年饑歲には、君の民、老弱溝壑に轉じ、壯者は散じて四方に之く者、幾千人。而して君の倉廩は實ち、府庫は充つ。有司以て吿ぐる莫し。是上慢にして而して下を殘するなり。曾子曰く、之を戒めよ、之を戒めよ、爾に出づる者は爾に反るなり。夫れ民今にして而して後之を反すを得たるなり。君尤むること無れ、君仁政を行はば、斯に民其上に親み、其長に死せん。
鄒と魯が争った。穆公が尋ねた。
「私の役人が三十三人も死んだが、民の中で彼らを守って死んだ者はいなかった。彼らを罰しようにも罰しきれず、罰しなければ、民が上役の死をただ見て助けなかったということになる。この状況をどうすればよいだろうか?」
孟子は答えた。
「凶作の年や飢饉の時、君の民の中で老弱者が溝や谷に倒れ、壮年者が四方に散っていった者は、数千人にも及びます。その一方で、君の倉庫は満ち、金庫は充実しており、役人たちはこれを君に報告していませんでした。これは君主が民を怠り、下々を虐げている証拠です。
曾子はこう言いました。『警戒せよ、警戒せよ!お前から出たものは、結局お前に戻ってくるものだ。』今こそ民がその結果を返しているのです。君が民を責めるべきではありません。君が仁政を行えば、この民はその上に親しみを抱き、上役のために命を捧げるようになるでしょう。」
滕文公問曰:「滕,小國也,間於齊、楚。事齊乎?事楚乎?」孟子對曰:「是謀非吾所能及也。無已,則有一焉:鑿斯池也,築斯城也,與民守之,效死而民弗去,則是可爲也。」
滕の文公問うて曰く、滕は小國なり。齊楚に間す。齊に事へんか、楚に事へんか。孟子對へて曰く、是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば則ち一あり。斯の池を鑿ち、斯の城を築きて民と與に之を守り、死を效すも民去らずんば、則ち是れ爲す可きなり。
滕の文公が尋ねた。
「滕は小国であり、斉と楚の間に挟まれています。斉に仕えるべきでしょうか、それとも楚に仕えるべきでしょうか?」
孟子は答えた。
「そのような策略は、私には及ぶものではありません。しかし、どうしても選ばねばならないなら、一つの方法があります。この池を掘り、この城を築き、民と共にこれを守り、死をも恐れず民が去らないようにする。それが可能ならば、それが正しい道でしょう。」
滕文公問曰:「齊人將築薛,吾甚恐,如之何則可?」孟子對曰:「昔者大王居邠,狄人侵之,去之岐山之下居焉。非擇而取之,不得已也。苟爲善,後世子孫必有王者矣。君子創業垂統,爲可繼也。若夫成功,則天也。君如彼何哉?强爲善而已矣。」
滕の文公問うて曰く、齊人將に薛に築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何にせば則ち可ならん。孟子對へて曰く、昔者大王邠に居る。狄人之を侵す。去りて岐山の下に之き居る。擇びて之を取るに非ず、已を得ざるなり。苟も善を爲さば、後世子孫、必ず王者有らん。君子業を創め統を垂る、繼ぐ可きを爲す。夫の成功の若きは則ち天なり。君彼を如何せんや。强めて善を爲さんのみ。
滕の文公が尋ねた。
「斉の人々が薛を築こうとしています。私は非常に恐れています。どうすればよいでしょうか?」
孟子は答えた。
「昔、大王が邠に住んでいたとき、狄人に侵略され、やむを得ず邠を去って岐山のふもとに移り住みました。それは選んで取ったのではなく、やむを得ない決断でした。しかし、大王が善政を行ったため、その後の子孫には王者となる者が現れました。
君子が事業を起こして統治を伝えるのは、それが後に続く者にとって価値のあるものであるからです。成功するかどうかは天命にかかっています。君が斉にどうこうする必要はありません。ただひたすら善を行い続けるだけです。」
滕文公問曰:「滕,小國也;竭力以事大國,則不得免焉,如之何則可?」孟子對曰:「昔者大王居邠,狄人侵之。事之以皮幣,不得免焉;事之以犬馬,不得免焉;事之以珠玉,不得免焉。乃屬其耆老而吿之曰:『狄人之所欲者,吾土地也。吾聞之也:君子不以其所以養人者害人。二三子何患乎無君?我將去之。』去邠,逾梁山,邑於岐山之下居焉。邠人曰:『仁人也,不可失也。』從之者如歸市。「或曰:『世守也,非身之所能爲也。效死勿去。』「君請擇於斯二者。」
滕の文公問うて曰く、滕は小國なり。力を竭して以て大國に事ふとも、則ち免るゝを得ず、之を如何にせば則ち可ならん。孟子對へて曰く、昔者大王邠に居る。狄人之を侵す。之に事ふるに皮幣を以てすれども、免るゝを得ず。之に事ふるに犬馬を以てすれども、免るゝを得ず。之に事ふるに珠玉を以てすれども、免るゝを得ず。乃ち其耆老を屬めて之に吿げて曰く、狄人の欲する所の者は、吾が土地なり。吾之を聞く、君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せずと。二三子何ぞ君無きを患へん。我之を去らんとすと。邠を去り梁山を逾え、岐山の下に邑し、居る。邠人曰く、仁人なり、失ふ可からずと。之に從ふ者市に歸するが如し。或ひと曰く、世の守なり。身の能く爲す所に非ざるなり。死を效すも去る勿れと。君請ふ斯の二者に擇べ。
滕の文公が尋ねた。
「滕は小国です。全力を尽くして大国に仕えたとしても、免れることはできません。どうすればよいでしょうか?」
孟子は答えた。
「昔、大王が邠に住んでいたとき、狄人に侵略されました。大王は皮革でできた贈り物を差し出して仕えましたが、それでも免れることはできませんでした。犬や馬を贈っても、珠玉を贈っても、同じく免れることはできませんでした。
そこで大王は耆老を集めて言いました。『狄人が欲しているのは我々の土地である。私は聞いたことがあります。君子は人を養う手段をもって人を害することをしない、と。諸君、君主がいないことを恐れる必要はない。私はこの地を去ることにする。』
大王は邠を去り、梁山を越え、岐山のふもとに邑を築き、そこに住みました。邠の人々は言いました。『この方は仁徳の人だ。この人を失うわけにはいかない。』彼らは市場に帰るようにして大王に従いました。
ある人々は言いました。『世代を通じて守るのだ。これは一人の力でできることではない。命を懸けて離れずに戦うべきだ。』
君主よ、この二つの選択肢の中からお選びください。」
魯平公將出,嬖人臧倉者請曰:「他日君出,則必命有司所之。今乘輿已駕矣,有司未知所之,敢請。」公曰:「將見孟子。」曰:「何哉,君所爲輕身以先於匹夫者?以爲賢乎?禮義由賢者出;而孟子之後喪逾前喪。君無見焉!」公曰:「諾。」樂正子入見,曰:「君奚爲不見孟軻也?」曰:「或吿寡人曰,『孟子之後喪逾前喪』,是以不往見也。」曰:「何哉,君所謂逾者?前以士,後以大夫;前以三鼎,而後以五鼎與?」曰:「否,謂棺槨衣衾之美也。」曰:「非所謂逾也,貧富不同也。」樂正子見孟子,曰:「克吿於君,君爲來見也。嬖人有臧倉者沮君,君是以不果來也。」曰:「行或使之;止或尼之。行止,非人所能也。吾之不遇魯侯,天也。臧氏之子焉能使予不遇哉?」
魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、他日君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今乘輿已に駕せり。有司未だ之く所を知らず。敢て請ふ。公曰く、將に孟子を見んとす。曰く、何ぞや、君身を輕くして以て匹夫に先だつを爲す所の者は、以て賢と爲すか。禮義は賢者より出づ。而して孟子の後の喪は前の喪に逾ゆ。君見る無れ。公曰く、諾。樂正子入り見えて、曰く、君奚爲れぞ孟軻を見ざる。曰く、或ひと寡人に吿げて曰く、孟子の後の喪は前の喪に逾ゆ。是を以て往きて見ざるなり。曰く、何ぞや、君の所謂逾ゆとは、前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、而して後には五鼎を以てするか。曰く、否、棺槨衣衾の美を謂ふなり。曰く、所謂逾ゆるに非ざるなり。貧富同じからざればなりと。樂正子孟子に見えて、曰く、克、君に吿ぐ、君來り見んと爲せり。嬖人臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來るを果さざるなり。曰く、行くは或は之をせしむ。止まるは或は之を尼む。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇はざるは天なり。臧氏の子、焉んぞ能く予をして遇はざらしめんや。
魯の平公が外出しようとしていた。寵愛されている臧倉が進み出て言った。
「以前、君主が外出される際には、必ず役人たちに行き先を知らせておられました。しかし、今日はすでに馬車が準備されていますが、役人たちはどこへ行くのか知りません。恐れながらお伺いします。」
平公は答えた。「孟子に会いに行くのだ。」
臧倉は言った。「どうしてでしょうか?君主がご自身を軽んじて、庶民よりも先に行動される理由は、孟子を賢者とお考えだからでしょうか?礼儀と正義は賢者から始まるものです。しかし、孟子は後の葬儀が前の葬儀を越えて立派であったと言われています。そのような人物に会われるべきではありません!」
平公は言った。「分かった。」
楽正子が進み出て孟子に言った。「君主はどうして孟子にお会いにならないのですか?」
平公は答えた。「ある者が私にこう言いました。『孟子の後の葬儀は前の葬儀を越えて立派であった』と。それゆえ、行くのをやめたのだ。」
楽正子は尋ねた。「君主が越えたと言われる理由は何でしょうか?前の葬儀では士の礼で行い、後の葬儀では大夫の礼で行った、ということでしょうか?それとも前は三鼎、後は五鼎を用いたということでしょうか?」
平公は答えた。「いや、棺や棺桶、衣服や敷布の質が前よりも立派であったという意味だ。」
楽正子は言った。「それは『越えた』ということではありません。貧しいときと裕福なときの違いです。」
その後、楽正子が孟子に会い、こう言った。「私は君主にお伝えしましたが、君主はお見えになりませんでした。寵臣の臧倉という者が君主を妨げたのです。そのため、君主は来られませんでした。」
孟子は言った。「進む者もあれば、妨げる者もある。進むか止まるかは、人間の力ではどうにもならないものだ。私が魯の君主と縁がないのは天命だ。臧氏の息子がどうして私を魯の君主に会わせないことができるだろうか?」
公孫丑問曰:「夫子當路於齊,管仲、晏子之功,可復許乎!」孟子曰:「子誠齊人也,知管仲、晏子而已矣。或問乎曾西曰:『吾子與子路孰賢?』曾西蹴然曰:『吾先子之所畏也。』曰:『然則吾子與管仲孰賢?』曾西艴然不悅曰:『爾何曾比予於管仲?管仲得君如彼其專也,行乎國政如彼其久也,功烈如彼其卑也。爾何曾比予於是!』」曰:「管仲,曾西之所不爲也,而子爲我愿之乎?」曰:「管仲以其君霸,晏子以其君顯,管仲、晏子猶不足爲與?」曰:「以齊王由反手也。」曰:「若是,則弟子之惑滋甚。且以文王之德,百年而後崩,猶未洽於天下;武王、周公繼之,然後大行。今言王若易然,則文王不足法與?」曰:「文王何可當也?由湯至於武丁,賢聖之君六七作。天下歸殷久矣;久則難變也。武丁朝諸侯有天下,猶運之掌也。紂之去武丁未久也,其故家遺俗、流風善政,猶有存者;又有微子、微仲、王子比干、箕子、膠鬲,皆賢人也,相與輔相之,故久而後失之也。尺地莫非其有也,一民莫非其臣也;然而文王猶方百里起,是以難也。齊人有言曰:『雖有智慧,不如乘勢;雖有镃基,不如待時。』今時則易然也。夏后、殷、周之盛,地未有過千里者也,而齊有其地矣;雞鳴狗吠相聞,而達乎四境,而齊有其民矣。地不改辟矣,民不改聚矣,行仁政而王,莫之能御也。且王者之不作,未有疏於此時者也;民之憔悴於虐政,未有甚於此時者也。饑者易爲食,渴者易爲飮。孔子曰:『德之流行,速於置郵而傳命。』當今之時,萬乘之國行仁政,民之悅之,猶解倒懸也。故事半古之人功必倍之,惟此時爲然。」
公孫丑問うて曰く、夫子路に齊に當らば、管仲・晏子の功復た許す可きか。孟子曰く、子は誠に齊人なり。管仲・晏子を知るのみ。或ひと曾西に問うて曰く、吾子と子路と孰れか賢れると。曾西蹙然として曰く、吾が先子の畏るゝ所なり。曰く、然らば則ち吾子と管仲と孰れか賢れる。曾西艴然として悅ばずして曰く、爾何ぞ曾ち予を管仲に比する、管仲は君を得ること、彼が如く其れ專たるなり、國政を行ふこと、彼が如く其れ久しきなり、功烈は彼が如く其れ卑しきなり。爾何ぞ曾ち予を是れに比する。曰く、管仲は曾西の爲さざる所なり、而るを子、我が爲めに之を愿ふか。曰く、管仲は其君を以て霸たらしめ、晏子は其君を以て顯はれしむ。管仲・晏子は猶ほ爲すに足らざるか。曰く、齊を以て王たるは、由ほ手を反すがごときなり。曰く、是の若くんば、則ち弟子の惑滋〻甚し。且文王の德、百年にして而る後崩ずるを以てしてすら、猶ほ未だ天下に洽からず。武王・周公之に繼ぎ、然る後に大いに行はる。今王たるを言ふこと、然し易きが若し。則ち文王は法るに足らざるか。曰く、文王は何ぞ當る可けん。湯より武丁に至るまで、賢聖の君六七作り、天下殷に歸する久し。久しければ則ち變じ難きなり。武丁諸侯を朝し、天下を有つ、猶ほ之を掌に運らすがごとし。紂の武丁を去る未だ久しからざるなり。其故家遺俗流風善政、猶ほ存る者あり、又微子・微仲・王子比干・箕子・膠鬲あり、皆賢人なり。相與に之を輔相す。故に久しうして而る後に之を失ふなり。尺地も其有に非ざる莫きなり。一民も其臣に非ざる莫きなり。然り而して文王は猶ほ方百里にして起る。是を以て難きなり。齊人言へる有り。曰く、智慧有りと雖も、勢に乘ずるに如かず。镃基有りと雖も、時を待つに如かず。今の時は則ち然し易きなり。夏后殷周の盛なる、地未だ千里に過ぐる者あらざるなり、而して齊其地を有てり。雞鳴狗吠相聞えて四境に達す。而して齊其民を有てり。地改め辟かず。民改め聚めず、仁政を行うて王たらば、之を能く御むる莫きなり。且つ王者の作らざるは、未だ此時より疏き者有らざるなり。民の虐政に憔悴するは、未だ此時より甚しき者有らざるなり。饑者は食を爲し易く、渴者は飮を爲し易し。孔子曰く、德の流行する。置郵して命を傳ふるより速なり。今の時に當り、萬乘の國仁政を行はば民の之を悅ぶこと、猶ほ倒懸を解くがごとし。故に事は古の人に半にして、功は必ず之に倍せん。惟此時を然りと爲す。
公孫丑が尋ねた:
「先生が斉で権力を握ったならば、管仲や晏子のような功績を再び得ることは可能でしょうか?」
孟子は答えた:
「君は確かに斉の人だね。管仲と晏子のことしか知らないようだ。ある人が曾西にこう尋ねた:『あなたと子路ではどちらが優れていますか?』すると曾西は驚き、答えた:『私は師である孔子が恐れ敬う人を先に立てます。』そこでまた問われた:『では、あなたと管仲ではどちらが優れていますか?』曾西は不快な表情で言った:『どうして私と管仲を比べるのだ?管仲は君主を得て、あれほど専制的であり、国政を行ってあれほど長期にわたり、その功績はあれほど卑俗であった。それとどうして私を比べるのか?』と。管仲は曾西が為さないことを為したのだが、君は私がそれを望むとでも思うのか?」
公孫丑は再び尋ねた:
「管仲は君主を助けて覇業を成し、晏子は君主を助けて名声を高めた。それでも管仲と晏子は不足なのでしょうか?」
孟子は答えた:
「斉の王を善政へ導くことは、掌を返すほど簡単だ。」
公孫丑が問う:
「もしそれが本当なら、私の混乱はますます深まります。文王のような徳の高い人物でさえ、百年経ってようやく世を去り、その後も天下に徳を広めることが十分ではありませんでした。武王や周公がそれを引き継いでようやく大成しました。ところが今、王道を行うことが簡単だとおっしゃるならば、文王は手本として足りないということでしょうか?」
孟子は答えた:
「文王をどうして比較できるだろうか?湯王から武丁に至るまで、賢明な聖君が六、七人現れた。殷の天下が久しく続いたが、長く続くと変えるのは難しいものだ。武丁の時代には諸侯が朝貢し、天下を掌握することは容易だった。しかし紂王の時代は武丁の治世からそれほど遠くなく、旧家の風習や善政がまだ存続していた。微子、微仲、王子比干、箕子、膠鬲といった賢人たちが協力して補佐していたので、時間がかかって初めて失敗したのだ。殷の領土はどこも彼らのものであり、人民もまたすべてその臣民だった。それでも文王はわずか百里の領土から始めたのだから、困難だったのだ。斉の人が言うように、『いかに智恵があっても勢いに乗るには及ばない。どれほど基盤があっても時機を待つには及ばない』と。」
孟子は続けた:
「今の時代は簡単だ。夏、殷、周の全盛期においても、その領土は千里を超えることはなかった。しかし斉はその地を有している。鶏鳴犬吠が聞こえ合う範囲に至るまで、四方の境界にわたる土地と人民を持っている。土地を新たに開拓する必要もなく、人民を新たに集める必要もない。仁政を行い王道を行うなら、誰もこれを阻むことはできない。、王者が現れないことは、今の時代ほど条件が整っていない時はなかった。民が虐政に苦しみ憔悴していることも、これほど甚だしい時代はなかった。飢えた者には食を与えやすく、渇いた者には水を与えやすいのだ。孔子は言った:『徳の広がりは、駅伝の速さよりも速い』と。今の時代において、万乗の国が仁政を行えば、民がこれを喜ぶのは、まるで縄から逆さに吊るされている者が解放されるようなものだ。だから、今の時代の人々が成し遂げる功績は古代の半分の努力で倍の成果を得られる。この時代がそうなのだ。」
公孫丑問曰:「夫子加齊之卿相,得行道焉,雖由此霸王不異矣。如此則動心否乎?」孟子曰:「否,我四十不動心。」曰:「若是則夫子過孟賁遠矣。」曰:「是不難。吿子先我不動心。」曰:「不動心有道乎?」曰:「有。北宮黝之養勇也,不膚橈,不目逃。思以一豪挫於人,若撻之於市朝。不受於褐寬博,亦不受於萬乘之君。視刺萬乘之君若刺褐夫。無嚴諸侯。惡聲至,必反之。孟施舍之所養勇也,曰:『視不勝猶勝也。量敵而後進,慮勝而後會,是畏三軍者也。舍豈能爲必勝哉?能無懼而已矣。』孟施舍似曾子,北宮黝似子夏。夫二子之勇,未知其孰賢,然而孟施舍守約也。昔者曾子謂子襄曰:『子好勇乎?吾嘗聞大勇於夫子矣:自反而不縮,雖褐寬博,吾不惴焉;自反而縮,雖千萬人吾往矣。』孟施舍之守氣,又不如曾子之守約也。」曰:「敢問夫子之不動心與吿子之不動心,可得聞與?」「吿子曰:『不得於言,勿求於心;不得於心,勿求於氣。』不得於心,勿求於氣,可;不得於言,勿求於心,不可。
公孫丑問うて曰く、夫子に齊の卿相を加へ、道を行ふを得ば、此に由りて霸王たりと雖も、異まず。此の如くなれば、則ち心を動かすや否や。孟子曰く、否、我四十にして心を動かさず。曰く、是の若くんば則ち夫子は孟賁に過ぐること遠し。曰く、是れ難からず。吿子我に先だちて心を動かさず。曰く、心を動かさざるに道あるか。曰く、有り。北宮黝の勇を養ふや、膚橈せず、目逃せず、一豪を以て人に挫るゝを思ふこと、之を市朝に撻るゝが若し。褐寬博にも受けず、亦萬乘の君にも受けず。萬乘の君を刺すを視ること、褐夫を刺すが若し。諸侯を嚴るゝ無く、惡聲至れば、必ず之を反へす。孟施舍の勇を養ふ所や、曰く、勝たざるを視る猶ほ勝つがごときなり。敵を量りて後に進み、勝を慮りて後に會す。是れ三軍を畏るゝ者なり。舍は豈に能く必ずしも勝つを爲さんや。能く懼るゝなきのみ。孟施舍は曾子に似たり。北宮黝は子夏に似たり。夫の二子の勇は、未だ其孰れか賢れるを知らず。然り而して孟施舍は守約なり。昔者曾子、子襄に謂うて曰く、子勇を好むか、吾嘗て大勇を夫子に聞けり。自ら反して縮からずんば、褐寬博と雖も吾惴れざらんや。自ら反して縮ければ、千萬人と雖も吾往かん。孟施舍の氣を守るは、又曾子の守の約なるに如かざるなり。曰く、敢て問ふ。夫子の心を動さざると、吿子の心を動さざると、聞くを得べきか。吿子曰く、言に得ざれば、心に求むる勿れ、心に得ざれば、氣に求むる勿れと。心に得れば氣に求むる勿れとは可なり。言に得ざれば心に求むる勿れとは不可なり。
公孫丑が尋ねた。
「先生が斉の宰相となり、道を実践することができれば、そのまま覇王の道を歩むことになるでしょう。そのような状況になったとしても、心が動揺することはないのでしょうか?」
孟子が答えた。
「ない。私は四十歳のときから、心が動じることはなくなった。」
公孫丑が言った。
「それならば、先生は勇士の孟賁をはるかに超えていることになりますね。」
孟子が答えた。
「それは難しいことではない。実際、お前のほうが私より先に『心を動かさない』境地に至っているのではないか。」
公孫丑が尋ねた。
「心を動じなくする方法があるのですか?」
孟子が答えた。
「ある。北宮黝が勇気を養う方法はこうだった。
彼は、どんなに恐ろしい状況でも、皮膚が震えず、目が泳ぐこともなかった。ほんのわずかでも人に屈することを、市場で鞭打たれることのように恥ずかしいと考えた。彼は、身分の低い者からも侮辱を受け入れず、万乗の君主(大国の王)からも侮辱を受け入れなかった。彼にとって、万乗の君主を刺すことは、身分の低い者を刺すことと変わらなかった。彼は諸侯を恐れず、悪評が立てば必ず反論した。
孟施舍の勇気の養い方はこうだった。
『たとえ相手に勝てないとしても、勝てるかのように振る舞う。敵の強さを測り、勝算を計算したうえで戦いに臨む。これこそが、三軍を率いる者の心得だ。孟施舍は、必ず勝とうと考えたのではない。ただ、恐れないことができるだけだ。』
孟施舍の勇気は曾子に似ており、北宮黝の勇気は子夏に似ている。この二人の勇気がどちらが優れているかは分からない。しかし、孟施舍は「節度を守る勇気」を持っていた。
かつて曾子が子襄に言った。
『お前は勇気を好むか?私はかつて先生(孔子)から「真の勇気」について聞いたことがある。それは、自らを省みて正しければ、たとえ粗末な服を着た者の前でも恐れない。しかし、自らを省みて正しくなければ、たとえ千万人の敵がいようとも私は進んで行く。』
孟施舍の「気を保つ勇気」は、曾子の「節度を保つ勇気」には及ばない。」
公孫丑が尋ねた。「先生の『心を動じない』境地と、私が求めている『心を動じない』境地について、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
孟子が答えた。「お前はこう言った。『言葉で理解できなければ、心に求めるな。心で理解できなければ、気に求めるな。』
『心で理解できなければ、気に求めるな』というのは正しい。しかし、『言葉で理解できなければ、心に求めるな』というのは間違いだ。」
夫志,氣之帥也;氣,體之充也。夫志至焉,氣次焉。故曰:持其志,無暴其氣。」「既曰『志至焉,氣次焉』,又曰『持其志,無暴其氣』者,何也?」曰:「志壹則動氣;氣壹則動志也。今夫蹶者趨者是氣也而反動其心。」「敢問夫子惡乎長?」曰:「我知言,我善養吾浩然之氣。」「敢問何謂浩然之氣?」曰:「難言也。其爲氣也至大至剛,以直養而無害,則塞于天地之間。其爲氣也配義與道,無是餒也。是集義所生者,非義襲而取之也。行有不慊於心則餒矣。我故曰:吿子未嘗知義。以其外之也。必有事焉而勿正,心勿忘,勿助長也。無若宋人然。宋人有閔其苗之不長而揠之者,芒芒然歸,謂其人曰:『今日病矣!予助苗長矣!』其子趨而往視之,苗則槁矣!天下之不助苗長者寡矣。以爲無益而舍之者,不耘苗者也。助之長者,揠苗者也,非徒無益,而又害之。」「何謂知言?」曰:「詖辭知其所蔽,淫辭知其所陷,邪辭知其所離,遁辭知其所窮。生於其心,害於其政;發於其政,害於其事。聖人復起,必從吾言矣。」
夫れ志は氣の帥なり。氣は體の充なり。夫れ志至り、氣は次ぐ。故に曰く、其志を持し、其氣を暴する無れ。既に曰く、志至り、氣は次ぐと。又曰く、其志を持し、其氣を暴する無れとは何ぞや。曰く、志壹なれば則ち氣を動かす。氣壹なれば則ち志を動かす。今夫れ蹶く者趨る者は是れ氣なり。而して反つて其心を動かす。敢て問ふ、夫子惡くにか長ぜる。曰く、我れ言を知る。我れ善く吾が浩然の氣を養ふ。敢て問ふ、何をか浩然の氣を謂ふ。曰く言ひ難きなり。其氣たるや、至大至剛、直を以て養ひて害するなければ、則ち天地の間に塞がる。其氣たるや、義と道とに配す。是れなければ餒うるなり。是れ集義の生ずる所の者にして、義襲ひて之を取るに非ざるなり。行ひ心に慊からざる有れば、則ち餒う。我れ故に曰く、吿子は未だ嘗て義を知らずと。其之を外にするを以てなり。必ず事とする有れ。正めする勿れ。心に忘るゝ勿れ。助けて長ずる勿れ。宋人の若く然かする無れ。宋人其苗の長ぜざるを閔へて、而して之を揠く者あり、芒芒然として歸り、其人に謂つて曰く、今日病る。予れ苗を助けて長ぜしむと。其子趨りて往きて之を視れば、苗則ち槁る。天下の苗を助けて長ぜしめざるもの寡し。以て益なしと爲して之を舍つる者は、苗を耘らざる者なり。之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益なきのみに非らず、而して又之を害す。何をか言を知ると謂ふ。曰く、詖辭は其蔽はるゝ所を知る。淫辭は其陷る所を知る。邪辭は其離るゝ所を知る。遁辭は其窮する所を知る。其心に生ずれば、其政を害し、其政に發すれば、其事を害す。聖人復起るも必ず吾が言に從はん。
孟子が言った。「志は、気の主であり、気は体の内に満ちるものである。志が定まれば、気もそれに従う。だからこそ、『志をしっかり保ち、気を乱してはならない』と言うのだ。」
公孫丑が尋ねた。「『志が第一であり、気がそれに従う』と言いながら、また『志を持ち、気を乱してはならない』とも言われています。それはどういう意味ですか?」
孟子が答えた。「志が一つに定まれば、気を動かす。逆に、気が一つに偏れば、志を動かしてしまう。例えば、転んだり急いで走ったりするのは、気の働きによるものだが、それがかえって心を乱すこともあるのだ。」
公孫丑が尋ねた。「先生は、どのような点に優れておられるのですか?」
孟子が答えた。「私は言葉を理解することができる。そして、私は『浩然の気』をよく養うことができる。」
公孫丑が尋ねた。「『浩然の気』とは、どのようなものですか?」
孟子が答えた。「説明するのは難しい。しかし、それは非常に大きく、非常に剛直なものであり、正しく養い、害することがなければ、天地の間に満ちる。
この気は、義と道に合致しており、それがなければ飢えてしまう。これは、義を積み重ねることによって生まれるものであり、義を一時的に真似たり、無理に手に入れようとして得られるものではない。もし行いが心の中で納得のいくものでなければ、この気は枯れてしまう。だから私は言うのだ。『公孫丑よ、お前はまだ義を本当に理解していない。なぜなら、お前は義を外面的なものと考えているからだ。』
人は、ただ目の前のことに専念し、それを無理に正そうとしてはならない。心から忘れず、しかし無理に成長を促そうとしないことが大切だ。宋の国の人々のようであってはならない。
宋の人に、苗が成長しないのを心配し、手で引っ張って伸ばそうとした者がいた。彼は一日中疲れ果てて帰宅し、家族にこう言った。
『今日はとても疲れたよ!私は苗がよく成長するよう手伝ってやったんだ!』
しかし、彼の息子が畑を見に行くと、苗はすでに枯れてしまっていた。
世の中で苗を『助けて成長させよう』としない人は少ない。しかし、それが無益だと思って放置する者は、草取りもしない怠け者である。一方で、無理に成長を促そうとする者は、苗を引っ張る者と同じである。これは単に無益であるだけでなく、かえって害をもたらすのだ。」
公孫丑が尋ねた。「『言葉を理解する』とは、具体的にどういうことですか?」
孟子が答えた。「詖辞については、その偏りを見抜く。淫辞については、その誤りを見抜く。邪辞については、その正道からの逸脱を見抜く。遁辞については、その行き詰まりを見抜く。これらの言葉が心に生じれば、それは政治を害する。これらの言葉が政治に表れれば、それは国家の事業を害する。もし聖人が再びこの世に現れるならば、必ず私の言葉に従うことだろう。」
「宰我、子貢善爲說辭,冉牛、閔子、顏淵善言德行;孔子兼之,曰:『我於辭命,則不能也。』然則夫子既聖矣乎?」曰:「惡!是何言也!昔者子貢問於孔子曰:『夫子聖矣乎?』孔子曰:『聖則吾不能,我學不厭而敎不倦也。』子貢曰:『學不厭,智也;敎不倦,仁也。仁且智,夫子既聖矣。』夫聖,孔子不居,是何言也!」「昔者竊聞之:子夏、子游、子張皆有聖人之一體,冉牛、閔子、顏淵則具體而微,敢問所安。」曰:「姑舍是。」曰:「伯夷、伊尹何如?」曰:「不同道。非其君不事,非其民不使,治則進,亂則退,伯夷也。何事非君?何使非民?治亦進,亂亦進,伊尹也。可以仕則仕,可以止則止,可以久則久,可以速則速,孔子也。皆古聖人也。吾未能有行焉,乃所愿,則學孔子也。」「伯夷、伊尹於孔子,若是班乎?」曰:「否,自有生民以來,未有孔子也。」「然則有同與?」曰:「有,得百里之地而君之,皆能以朝諸侯有天下;行一不義、殺一不辜而得天下,皆不爲也。是則同。」曰:「敢問其所以異。」曰:「宰我、子貢、有若,智足以知聖人,污不至阿其所好。宰我曰:『以予觀於夫子,賢於堯舜遠矣。』子貢曰:『見其禮而知其政,聞其樂而知其德。由百世之後,等百世之王,莫之能違也。自生民以來,未有夫子也。』有若曰:『豈惟民哉!麒麟之於走獸,鳳凰之於飛鳥,泰山之於丘垤,河海之於行潦,類也。聖人之於民,亦類也。出於其類,拔乎其萃。自生民以來,未有盛於孔子也。』」
宰我・子貢は善く說辭を爲し、冉牛・閔子・顏淵は善く德行を言ふ。孔子之を兼ぬ。曰く、我れ辭命に於ては則ち能はざるなりと。然らば則ち夫子既に聖なるか。曰く、惡是れ何の言ぞや。昔者子貢、孔子に問ひて曰く、夫子は聖なるかと。孔子曰く、聖は則ち吾れ能はず。我は學んで厭はず、敎へて倦まざるなり。子貢曰く、學んで厭はざるは、智なり。敎へて倦まざるは、仁なり。仁にして且つ智なり。夫子既に聖なりと。夫れ聖は孔子すら居らず。是れ何の言ぞや。昔者竊かに之を聞けり。子夏・子游・子張、皆聖人の一體あり。冉牛・閔子・顏淵は、則ち體を具へて微なりと。敢て安んずる所を問ふ。曰く、姑く是を舍け。曰く、伯夷・伊尹は何如。曰く、道を同じうせず。其君にあらざれば事へず、其民にあらざれば使はず。治まれば則ち進み、亂るれば則ち退くは、伯夷なり。何れに事ふるも君にあらざらん。何れを使ふも民にあらざらん。治まるも亦進み、亂るゝも亦進むは、伊尹なり。以て仕ふ可くんば則ち仕へ、以て止む可くんば則ち止み、以て久しうす可くんば則ち久しうし以て速かにす可くんば則ち速かにするは、孔子なり。皆古の聖人なり。吾未だ行ふ有る能はず。乃ち愿ふ所は則ち孔子を學ばん。伯夷・伊尹の孔子に於けるは、是の若く班たる乎。曰く、否。生民ありてより以來、未だ孔子あらざるなり。曰く、然らば則ち同じきこと有るか。曰く、有り。百里の地を得て而して之に君たらば、皆能く以て諸侯を朝し天下を有たん。一の不義を行ひ、一の不辜を殺して、而して天下を得るは、皆爲さざるなり。是れ則ち同じ。曰く、敢て其異なる所以を問ふ。曰く、宰我・子貢・有若は、智は以て聖人を知るに足る。污なるも其好む所に阿ねるに至らず。宰我曰く、予を以て夫子を觀れば、堯舜に賢ること遠し。子貢曰く、其禮を見て、而して其政を知り、其樂を聞いて、而して其德を知る。百世の後由り、百世の王を等するに、之に能く違ふこと莫きなり。生民より以來、未だ夫子あらざるなり。有若曰く、豈に惟だ民のみならんや。麒麟の走獸に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、泰山の丘垤に於ける、河海の行潦に於ける、類なり。聖人の民に於けるも亦類なり。其類より出で、其萃を拔く。生民より以來、未だ孔子より盛なる有らざるなり。
公孫丑が尋ねた。
「宰我や子貢は弁論に優れ、冉牛、閔子騫、顔淵は徳と行いに優れていました。しかし孔子はそのすべてを兼ね備えていました。それにもかかわらず、孔子はこう言いました。
『私は言葉を飾ることには長けていない。』そうすると、先生はすでに聖人であるといえるのでしょうか?」
孟子が答えた。「なんと愚かなことを言うのか!
昔、子貢が孔子に尋ねた。『先生は聖人なのですか?』
すると孔子は答えた。『聖人にはなれない。私はただ、学ぶことを飽きず、教えることを倦まずに続けているだけだ。』
子貢はさらに言った。『学ぶことを飽きないのは智であり、教えることを倦まないのは仁です。智と仁を兼ね備えた先生は、すでに聖人ではありませんか?』
しかし孔子は「聖人」と自ら名乗ることはなかった。だから、そのような言い方は誤りである!」
公孫丑が言った。「私は以前、こう聞いたことがあります。
子夏、子游、子張は、いずれも聖人の特質の一部を持っており、冉牛、閔子騫、顔淵は、聖人の資質を完全に備えつつも、わずかに及ばない程度であったと。では、彼らの立場について、どうお考えですか?」
孟子が答えた。「まずはこの話題を脇に置こう。」
公孫丑がさらに尋ねた。「では、伯夷と伊尹はどうでしょうか?」
孟子が答えた。「彼らは異なる道を歩んでいた。伯夷は、正しい君主でなければ仕えず、正しい民でなければ使わない。国が治まれば進み、乱れれば退く。それが伯夷の道だ。一方、伊尹は、どのような君主であっても、どのような民であっても、すべてを治めるべきものと考えた。国が治まれば進み、乱れてもなお進む。それが伊尹の道だ。孔子はどうか。孔子は、仕えるべき時には仕え、止まるべき時には止まり、長く留まるべき時には留まり、素早く去るべき時には去る。この三者は皆、古の聖人である。しかし、私はまだ彼らの道を実践できていない。ただ、私が最も学びたいと願うのは、孔子の道である。」
公孫丑が尋ねた。「それでは、伯夷や伊尹と孔子は、別の格にあるということですか?」
孟子が答えた。「そうだ。人類が生まれて以来、孔子ほどの人物は未だかつて存在しない。」
公孫丑がさらに尋ねた。「では、孔子と彼らの間には共通点はあるのでしょうか?」
孟子が答えた。「ある。もし百里の土地を領有し、君主となれば、誰もが諸侯を朝廷に従わせ、天下を治めることができる。しかし、『たとえ天下を手に入れられるとしても、一つの不義を行ったり、一人の罪なき者を殺したりすることは決してしない』という点において、彼らは共通している。」
公孫丑が尋ねた。「では、孔子と彼らが異なる点は何ですか?」
孟子が答えた。「宰我、子貢、有若は、聖人を理解するほどの知恵を持っており、決して自分の好みに迎合するようなことはしなかった。宰我は言った。『私の見るところ、先生は堯や舜をはるかに超えている。』
子貢は言った。『先生の礼を見れば、彼の政治が分かる。先生の音楽を聞けば、彼の徳が分かる。百世の後でも、百世の王が彼に学ばないことはない。人類が生まれて以来、先生ほどの人物はいなかった。』
有若は言った。『それは人間に限った話ではない。麒麟は走獣の中で際立っており、鳳凰は飛禽の中で際立っている。泰山は丘や小さな土山とは比べものにならず、河や海は溝や水たまりとは比べものにならない。同じ種類の中にあって、彼らは圧倒的に際立っている。聖人と民との関係も同様である。人々の中で、聖人は特別に卓越している。彼は類の中から抜きん出ており、その集まりからも飛び出している。人類が生まれて以来、孔子ほど偉大な人物はいなかった。』」
孟子曰:「以力假仁者霸,霸必有大國;以德行仁者王,王不待大,湯以七十里,文王以百里。以力服人者,非心服也,力不贍也;以德服人者,中心悅而誠服也,如七十子之服孔子也。《詩》云:『自西自東,自南自北,無思不服。』此之謂也。」
孟子曰く、力を以て仁を假る者は霸たり。霸は必ず大國を有つ。德を以て仁を行ふ者は王たり。王は大を待たず、湯は七十里を以てし、文王は百里を以てす。力を以て人を服する者は、心服に非ざるなり。力贍らざるなり。德を以て人を服する者は、中心悅びて而して誠に服するなり。七十子の孔子に服するが如きなり。詩に云ふ、西より東より、南より北より、思うて服せざるなしと。此れ之れの謂ひなり。
孟子が言った。
「武力によって一時的に仁を装う者は覇者となる。だが、覇者となるには必ず大国でなければならない。
一方、徳によって真に仁を行う者は王となる。王となるために大国である必要はない。
湯王は七十里の小国から天下を治め、文王は百里の領土で王道を行った。
武力によって人を服従させる場合、それは心からの服従ではなく、単に力に屈しているだけである。しかし、力はいずれ衰える。
一方、徳によって人を服従させる場合、人々は心から喜び、誠実に従う。それは、孔子の弟子たちが孔子に心から従ったのと同じである。
『詩経』にもこうある。『西からも東からも、南からも北からも、心から服従しない者はいない。』
これこそが、徳によって天下を治めることの意味である。」
孟子曰:「仁則榮,不仁則辱。今惡辱而居不仁,是猶惡濕而居下也。如惡之,莫如貴德而尊士。賢者在位,能者在職;國家閑暇,及是時明其政刑,雖大國,必畏之矣。《詩》云:『迨天之未陰雨,徹彼桑土,綢繆牖戶。今此下民,或敢侮予?』孔子曰:『爲此詩者,其知道乎!能治其國家,誰敢侮之?』今國家閑暇,及是時般樂怠敖,是自求禍也。禍福無不自己求之者。《詩》云:『永言配命,自求多福。』《太甲》曰:『天作孽,猶可違;自作孽,不可活』,此之謂也。」
孟子曰く、仁なれば則ち榮え、不仁なれば則ち辱らる。今辱らるゝを惡んで、而して不仁に居るは、是れ猶ほ濕を惡んで下に居るが如し。如之を惡まば、德を貴んで而して士を尊むに如くは莫し。賢者は位に在り。能者は職に在り。國家閑暇是の時に及んで、其政刑を明にせば、大國と雖も必ず之を畏れん。詩に云ふ、天の未だ陰雨せざるに迨んで、彼の桑土を徹り、牖戶を綢繆す。今此下民、敢て予を侮るあらんや。孔子曰く、此詩を爲る者は、其れ道を知るかと。能く其國家を治めば、誰か敢へて之を侮らん。今國家閑暇、是の時に及んで般樂怠敖せば、是れ自ら禍を求むるなり。禍福己れより之を求めざる者なし。詩に云ふ、永く言命に配し、自ら多福を求むと。太甲に曰く、天の作せる孽は猶ほ違く可し。自ら作せる孽は活く可からずとは、此れ之れの謂ひなり。
孟子が言った。「仁を行えば栄え、不仁であれば辱めを受ける。
今、不名誉を嫌いながらも、不仁の道に留まるのは、湿気を嫌いながら低地に住むようなものだ。もし本当に不名誉を避けたいのなら、最善の方法は徳を重んじ、士(有能な人材)を尊ぶことである。
賢者を高い地位に置き、有能な者を適材適所に任用する。そうすれば、国家は安定し、余裕が生まれる。この時こそ、政治と法を明確にしなければならない。そうすれば、大国であっても、必ずその威光を恐れるようになる。
『詩経』にはこうある。『天がまだ陰り、雨を降らせぬうちに、桑の木の根を取り除き、窓や扉をしっかり補強する。今この地の民は、どうして私を侮ることができようか?』
孔子はこの詩を評して言った。『この詩を作った者は、きっと道を知っていたのだろう。国をしっかりと治めることができる者を、一体誰が侮ることができようか?』
今、国家に余裕があるのに、この機を利用せず、享楽にふけり、怠惰になれば、それは自ら災いを招くことになる。
幸福も災禍も、すべて自分自身の行いによって生じるものである。
『詩経』にはこうある。『永く天命に従い、多くの幸福を自ら求めよ。』
また、『太甲』にはこうある。『天のもたらす災いは、まだ避けることができる。しかし、自ら招いた災いは、生き延びることができない。』
まさにこのことを言うのである。」
孟子曰:「尊賢使能,俊杰在位,則天下之士皆悅而愿立於其朝矣。市,廛而不征,法而不廛,則天下之商皆悅而愿藏於其市矣。關,譏而不征,則天下之旅皆悅而愿出於其路矣。耕者,助而不稅,則天下之農皆悅而愿耕於其野矣。廛,無夫里之布,則天下之民皆悅而愿爲之氓矣。信能行此五者,則鄰國之民仰之若父母矣。率其子弟攻其父母,自有生民以來未有能濟者也。如此則無敵於天下。無敵於天下者,天吏也。然而不王者,未之有也。」
孟子曰く、賢を尊び能を使ひ、俊杰位に在れば、則ち天下の士は皆悅んで而して其朝に立たんことを愿はん。市は廛して征せず、法して廛せずんば、則ち天下の商は、皆悅んで、而して其市に藏めんことを愿はん。關は譏して征せずんば、則ち天下の旅皆悅んで、而して其路に出でんことを愿ふ。耕者は助して稅せずんば、則ち天下の農は皆悅んで、而して其野に耕さんことを愿はん、廛に夫里の布なければ、則ち天下の民皆悅んで、而し之れが氓たらんことを愿はん。信に能く此五者を行はば、則ち鄰國の民は之を仰ぐこと父母の若けん。其子弟を率ゐて、其父母を攻むるは、生民有りてより以來、未だ能く濟す者あらざるなり。此の如くんば、則ち天下に敵なし。天下に敵なき者は天吏なり。然して王たらざる者は未だ之れ有らざるなり。
孟子が言った。
「賢者を尊び、有能な者を登用し、優れた人材を高い地位につければ、天下の士(知識人・官吏)は皆喜び、その朝廷で仕えたいと願うようになる。
市場においては、店舗を持つ者には税を課さず、移動販売する者にも規制を設けなければ、天下の商人は皆喜び、その市場で商売をしたいと願うようになる。
関所においては、検査をしても税を取らなければ、天下の旅人は皆喜び、その国の道を通行したいと願うようになる。
農民には耕作を助ける制度を設け、収穫に対する税を免除すれば、天下の農民は皆喜び、その国の田畑を耕したいと願うようになる。
都市に住む庶民には、夫里(軍役や労役)を免除すれば、天下の人民は皆喜び、その国の民になりたいと願うようになる。
もしこの五つの政策を実行できるならば、隣国の人民はその国を父母のように仰ぎ見るようになるだろう。
それなのに、その民を率いて攻め込もうとすれば、それはまるで子供たちが自分の親を攻撃するようなものだ。人類が生まれて以来、そのような戦争が成功した例はない。
このような政治を行えば、天下に敵なしとなる。天下に敵なしとなる者は、まさに天が任命した統治者である。
それでもなお王とならなかった例は、未だかつてない。」
孟子曰:「人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心,斯有不忍人之政矣。以不忍人之心,行不忍人之政,治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者,今人乍見孺子將入於井,皆有怵惕惻隱之心;非所以內交於孺子之父母也,非所以要譽於鄉黨朋友也,非惡其聲而然也。由是觀之,無惻隱之心,非人也。無羞惡之心,非人也。無辭讓之心,非人也。無是非之心,非人也。惻隱之心,仁之端也;羞惡之心,義之端也;辭讓之心,禮之端也;是非之心,智之端也。人之有是四端也,猶其有四體也。有是四端而自謂不能者,自賊者也;謂其君不能者,賊其君者也。凡有四端於我者,知皆擴而充之矣,若火之始然、泉之始達。茍能充之,足以保四海;茍不充之,不足以事父母。」
孟子曰く、人皆人に忍びざるの心あり。先王人に忍びざるの心ありて、斯に人に忍びざるの政あり。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行へば、天下を治むること、之を掌上に運らす可し。人皆人に忍びざるの心ありと謂ふ所以は、今人乍ち孺子の井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心あらん。交を孺子の父母に內るゝ所以に非らざるなり。譽を鄉黨朋友に要むる所以に非るなり。其聲を惡んで然るに非るなり。是に由つて之を觀れば、惻隱の心なきは人に非るなり。羞惡の心なきは、人に非るなり。辭讓の心なきは、人に非るなり。是非の心なきは、人に非るなり。惻隱の心は仁の端なり、羞惡の心は義の端なり、辭讓の心は禮の端なり、是非の心は智の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其四體あるが如きなり。是四端ありて、而して自ら能はずと謂ふ者は自ら賊する者なり。其君能はずと謂ふ者は、其君を賊する者なり。凡そ我に四端ある者は、皆擴めて之を充たすを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。茍も能く之を充てば、以て四海を保んずるに足り、茍も之を充たさざれば、以て父母に事ふるに足らず。
孟子が言った。「人は皆、他者を哀れむ心を持っている。かつての聖王たちは、この『人に忍びざる心』、すなわち、他者を見捨てられない心を持っていた。だからこそ、『人に忍びざる政』、すなわち、仁のある政治を行ったのである。この『不忍人之心』をもって仁政を行えば、天下を治めることは、手のひらの上で物を転がすようにたやすい。
なぜ、人は皆『人に忍びざる心』を持っていると言えるのか?
例えば、誰かが突然、幼子が井戸に落ちそうになる場面を目にしたとしよう。そのとき、人は皆、本能的に驚き、恐れ、そして哀れむ心を抱くものである。
その心は、幼子の両親に気に入られようとして生まれるものではない。その心は、世間の評判を得ようとして生まれるものでもない。その心は、幼子の悲鳴を聞きたくないから生まれるものでもない。
このように考えれば、『惻隠の心(そくいんのこころ)=他者を哀れむ心』を持たない者は、人とは呼べない。
『羞悪の心(しゅうおのこころ)=恥を知り、悪を憎む心』を持たない者は、人とは呼べない。
『辞譲の心(じじょうのこころ)=謙遜し、譲る心』を持たない者は、人とは呼べない。
『是非の心(ぜひのこころ)=善悪を判断する心』を持たない者は、人とは呼べない。
惻隠の心 は、仁の始まりである。
羞悪の心 は、義の始まりである。
辞譲の心 は、礼の始まりである。
是非の心 は、智の始まりである。
人がこの四つの心を持っているのは、まるで四肢を持っているのと同じようなものである。
この四つの心を持ちながら、それを育てず、『自分にはできない』と思う者は、自らを傷つける者である。
また、君主がこれをできないと思う者は、君主を傷つける者である。
この四つの心が自分の中にあると知ったなら、それを広げ、満たしていくべきである。それは、まるで火が燃え広がるように、または泉が湧き出るように、自然と発展していくものである。
もし、この四つの心を十分に育てることができれば、天下を守ることさえできる。しかし、もしこれを育てることができなければ、親に仕えることすらままならない。」
孟子曰:「矢人豈不仁於函人哉?矢人惟恐不傷人,函人惟恐傷人。巫匠亦然。故術不可不愼也。孔子曰:『里仁爲美。擇不處仁,焉得智?』夫仁,天之尊爵也,人之安宅也。莫之御而不仁,是不智也。不仁不智,無禮無義,人役也。人役而恥爲役,由弓人而恥爲弓、矢人而恥爲矢也。如恥之,莫如爲仁。仁者如射:射者正己而後發;發而不中,不怨勝己者,反求諸己而已矣。」
孟子曰く、矢人は豈に函人より不仁ならんや。矢人は惟人を傷けざらんことを恐れ、函人は惟人を傷けんことを恐る。巫匠も亦然り。故に術は愼まざるべからざるなり。孔子曰く、仁に里るを美と爲す。擇んで仁に處らずんば、焉んぞ智を得ん。夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり。之を禦むること莫くして、不仁なるは、是れ不智なり。不仁不智、無禮無義は、人の役なり。人の役にして役を爲すを恥づるは、弓人にして弓を爲るを恥ぢ、矢人にして矢を爲るを恥づるがごときなり。如し之を恥ぢば、仁を爲すに如くは莫し。仁者は射の如し。射る者は己を正しくして然る後に發す。發して中らずとも、己に勝つ者を怨みず、諸を己に反求するのみ。
孟子が言った。「弓矢職人は、棺を作る職人よりも不仁というわけではない。
しかし、矢職人は『人を傷つけることができるか』を心配し、棺職人は『人を傷つけてしまうのではないか』を心配する。これは、占い師や職人も同じことである。
したがって、技術を身につける際には慎重でなければならない。
孔子はこう言っている。『仁を実践することこそが最も美しいことである。仁を選ばずして、どうして智を得られるだろうか?』
そもそも、仁とは、天が与えた最も尊い爵位(名誉)であり、人間にとって最も安らぎを得られる住処である。
それにもかかわらず、仁に従わないというのは、不智ということになる。
仁を欠き、知恵もなく、礼や義を持たない者は、もはや人としての道を外れ、ただの労役者にすぎない。
人が労役に従事しながら、それを恥じるのは、まるで弓職人が弓を作ることを恥じ、矢職人が矢を作ることを恥じるようなものである。
もし本当にそれを恥じるのなら、最も良い方法は、仁を実践することである。
仁を行う者は、弓を射ることと同じである。
弓を射る者は、まず自らの姿勢を正し、それから矢を放つ。
もし的を外しても、自分より優れた射手を恨むことはせず、ただ自分の技量を反省し、改善するだけである。」
孟子曰:「子路,人吿之以有過則喜。禹聞善言則拜。大舜有大焉,善與人同,舍己從人,樂取於人以爲善。自耕、稼、陶、漁,以至爲帝,無非取於人者。取諸人以爲善,是與人爲善者也。故君子莫大乎與人爲善。」
孟子曰く、子路は人之に吿ぐるに、過あるを以てすれば則ち喜ぶ。禹は善言を聞けば則ち拜す。大舜は焉より大なる有り。善は人と同じくす。己を舍てゝ人に從ふ。人に取りて以て善を爲すを樂む。耕稼陶漁より、以て帝と爲るに至るまで、人に取るに非る者無し。諸を人に取りて以て善を爲す。是れ人と善をなす者なり。故に君子は人と善を爲すより大なるは莫し。
孟子が言った。「子路は、人から自分の過ちを指摘されると、喜んで受け入れた。禹は、良い言葉を聞くと、感謝の意を表して拝礼した。
しかし、大舜はさらに偉大であった。彼は、善を人と共にすることを最も重んじ、自らの意見に固執せず、他者の意見を受け入れた。
善を学ぶことを楽しみ、他人の善を積極的に取り入れて自らの善としたのである。
舜は、農耕を学び、種をまき、陶器を作り、漁業を営むことから始め、ついには帝となった。その過程において、彼の学んだものはすべて、人々から得たものだった。
人々から善を学び、それを自らの善とすることこそ、人と共に善を行うことである。
だからこそ、君子にとって最も大切なことは、人と共に善を行うことに他ならない。」
孟子曰:「伯夷非其君不事,非其友不友。不立於惡人之朝,不與惡人言;立於惡人之朝,與惡人言,如以朝衣朝冠坐於涂炭。推惡惡之心,思與鄉人立,其冠不正,望望然去之,若將浼焉。是故諸侯雖有善其辭命而至者,不受也。不受也者,是亦不屑就已。柳下惠不羞污君,不卑小官。進不隱賢,必以其道。遺佚而不怨,厄窮而不憫。故曰:『爾爲爾,我爲我;雖袒裼裸裎於我側,爾焉能浼我哉!』故由由然與之偕而不自失焉,援而止之而止。援而止之而止者,是亦不屑去已。」孟子曰:「伯夷隘,柳下惠不恭。隘與不恭,君子不由也。」
孟子曰く、伯夷は其君に非れば事へず。其友に非れば友とせず。惡人の朝に立たず、惡人と言はず。惡人の朝に立ち、惡人と言ふは、朝衣朝冠を以て涂炭に坐するが如し。惡を惡むの心思を推すに、鄉人と立ち、其冠正からざれば、望望然として之を去る、浼されんとするが若し。是故に諸侯其辭命を善くして而して至る者ありと雖も、受けざるなり。受けざる者は、是れ亦就くを屑しとせざるのみ。柳下惠は污君を羞ぢず、小官を卑しとせず、進で賢を隱さず、必ず其道を以てす。遺佚して怨みず、厄窮して憫へず。故に曰く、爾は爾を爲せ、我は我を爲さん。我が側に袒裼裸裎すと雖も、爾焉んぞ能く我を浼さんやと。故に由由然として之と偕にして、而して自ら失はず。援きて而して之を止むれば止る。援きて而して之を止むれば止る者は、是れ亦去るを屑しとせざるのみ。孟子曰く、伯夷は隘、柳下惠は不恭、隘と不恭とは、君子由らざるなり。
孟子が言った。「伯夷は、自分が認めた君主でなければ仕えず、自分が認めた友でなければ交わらなかった。
彼は、悪人の朝廷には立たず、悪人とは言葉を交わさなかった。
もし悪人の朝廷に立ち、悪人と話をすることがあれば、それは朝服を着て泥の中に座るようなものだと考えた。
伯夷は、悪を憎む心が強く、郷里の人々と一緒にいるときも、誰かの冠が少しでも乱れているのを見ると、遠く離れてしまう。まるで、自分がその汚れに染まってしまうかのように感じた。
そのため、諸侯がどれほど丁寧な言葉で彼を招いたとしても、彼は決して受け入れなかった。
そして、彼がそれを受け入れなかったのは、単に辞退したのではなく、彼自身がそのような招きを「取るに足らないもの」と見なしていたからである。
一方で、柳下恵は、不正な君主に仕えることを恥とせず、低い官職をも軽んじなかった。
彼は、世に出るときは賢者を隠すことなく、必ず正しい道をもって仕えた。
彼は職を失っても怨まず、苦境にあっても自らを憐れむことはなかった。
彼はこう言った。『お前はお前、私は私。たとえお前が裸で私のそばにいたとしても、お前は私を汚すことはできない!』
だから、柳下恵はどんな人とでも一緒に過ごしながらも、自分を見失うことがなかった。
もし道を踏み外した者がいれば、手を差し伸べて正しい道に導き、彼らが正しくなればそれでよしとした。
そして、彼がそうしたのは、単に悪を許したのではなく、「悪から離れること」を取るに足らないことと考えたからである。」
孟子曰:「天時不如地利,地利不如人和。三里之城,七里之郭,環而攻之而不勝;夫環而攻之,必有得天時者矣,然而不勝者,是天時不如地利也。城非不高也,池非不深也,兵革非不堅利也,米粟非不多也,委而去之,是地利不如人和也。故曰:域民不以封疆之界,固國不以山溪之險,威天下不以兵革之利。得道者多助,失道者寡助。寡助之至,親戚畔之;多助之至,天下順之。以天下之所順,攻親戚之所畔,故君子有不戰,戰必勝矣。」
孟子曰く、天の時は地の利に如かざるなり。地の利は人の和に如かざるなり。三里の城、七里の郭、環りて之を攻めて、而して勝たず。夫れ環りて之を攻むれば、必ず天の時を得る者あり。然り而して勝たざる者は、是れ天の時、地の利に如かざるなり。城高からざるに非ざるなり。池深からざるに非ざるなり。兵革堅利なるに非ざるなり。米粟多からざるに非ざるなり。委して之を去るは、是れ地の利は人の和に如かざるなり。故に曰く、民を域るに封疆の界を以てせず、國を固むるに山溪の險を以てせず、天下を威すに兵革の利を以てせず、道を得る者は助け多く、道を失ふ者は助け寡し。助け寡きの至りは、親戚之に畔く。助け多きの至りは、天下之に順ふ。天下の順ふ所を以て、親戚の畔く所を攻む。故に君子は戰はざるあり、戰へば必ず勝つ。
孟子が言った。「天の時(天候やタイミング)は地の利(土地の有利さ)には及ばず、地の利は人の和(人々の調和と協力)には及ばない。三里四方の城壁と七里四方の外郭がある城を、周囲から攻め立てても勝てない場合がある。そのような攻撃をする者が必ず天の時を得ていることがあったとしても、それでも勝てないのは、天の時が地の利に及ばないからである。
城壁が高くないわけではない。堀が深くないわけでもない。武器や防具が堅固で鋭利でないわけでもない。米や粟が十分でないわけでもない。それでも最終的にその地を捨てて撤退することになるのは、地の利が人の和に及ばないからである。
だからこう言うのだ。民を治めるのに国境の線引きに頼るべきではない。国を固めるのに山や川といった自然の険しさに頼るべきではない。天下を威圧するのに兵器や防具の鋭利さに頼るべきではない。道を得る者(正しい道を行う者)は多くの助けを得るが、道を失う者(道理に背く者)は助けが少ない。助けが少ないことが極限に達すれば、親族さえも離反する。一方、助けが多いことが極限に達すれば、天下の人々が従うようになる。天下の支持を得て、親族の離反を受けている者を攻めるのである。だから君子はむやみに戦いを挑むことはせず、戦うからには必ず勝つのである。」
孟子將朝王。王使人來曰:「寡人如就見者也,有寒疾,不可以風;朝將視朝,不識可使寡人得見乎?」對曰:「不幸而有疾,不能造朝。」明日出弔於東郭氏。公孙丑曰:「昔者辭以病,今日弔,或者不可乎?」曰:「昔者疾,今日愈,如之何不弔?」王使人問疾,醫來。孟仲子對曰:「昔者有王命,有采薪之憂,不能造朝。今病小愈,趨造於朝;我不識能至否乎?」使數人要於路曰:「請必無歸,而造於朝。」不得已而之景丑氏宿焉。景子曰:「內則父子,外則君臣,人之大倫也。父子主恩,君臣主敬。丑見王之敬子也,未見所以敬王也。」曰:「惡!是何言也!齊人無以仁義與王言者,豈以仁義爲不美也?其心曰『是何足與言仁義也』云爾,則不敬莫大乎是。我非堯舜之道不敢以陳於王前,故齊人莫如我敬王也。」景子曰:「否,非此之謂也。《禮》曰:『父召無諾;君命召,不俟駕。』固將朝也,聞王命而遂不果,宜與夫禮若不相似然。」曰:「豈謂是與?曾子曰:『晉楚之富,不可及也。彼以其富,我以吾仁;彼以其爵,我以吾義,吾何慊乎哉?』夫豈不義而曾子言之?是或一道也。天下有達尊三:爵一,齒一,德一。朝廷莫如爵,鄉黨莫如齒,輔世長民莫如德。惡得有其一,以慢其二哉?故將大有爲之君,必有所不召之臣;欲有謀焉則就之。其尊德樂道,不如是不足以有爲也。故湯之於伊尹,學焉而後臣之,故不勞而王;桓公之於管仲,學焉而後臣之,故不勞而霸;今天下地醜德齊,莫能相尙。無他,好臣其所敎,而不好臣其所受敎。湯之於伊尹,桓公之於管仲,則不敢召;管仲且猶不可召,而況不爲管仲者乎?」
孟子將に王に朝せんとす。王、人をして來らしめて、曰く、寡人如ち就き見んとせる者なり。寒疾有り、以て風す可からず。朝すれば將に朝に視んとす。識らず寡人をして見るを得しむべきか。對へて曰く、不幸にして疾あり、朝に造る能はずと。明日出でて、東郭氏に弔す。公孫丑曰く、昔者辭するに病を以てし、今日弔す。或は不可ならんか。曰く、昔者疾み、今日愈ゆ。之を如何ぞ弔せざらん。王、人をして疾を問ひ、醫をして來らしむ。孟仲子對へて曰く、昔者王命あり。采薪の憂あり、朝に造ること能はず。今病小しく愈ゆ。趨りて朝に造りぬ。我れ識らず、能く至るや否や。數人をして路に要せしむ。曰く、請ふ必ず歸る無くして、而して朝に造れと。已むを得ずして景丑氏に之き宿す。景子曰く、內は則ち父子、外は則ち君臣、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす。丑王の子を敬するを見る、未だ王を敬する所以を見ざるなり。曰く、惡是れ何の言ぞや。齊人仁義を以て王と言ふ者無し。豈に仁義を以て美ならずと爲さん。其心に曰く、是れ何ぞ與に仁義を言ふに足らんやと、云爾、則ち不敬是より大なるは莫し。我れ堯舜の道に非ざれば、敢へて以て王の前に陳せず。故に齊人は我が王を敬するに如く莫きなり。景子曰く、否、此の謂に非ざるなり。禮に曰く、父召せば諾する無し。君命じて召せば、駕するを俟たずと。固より將に朝せんとするなり。王命を聞き、而して遂に果さず。宜しく夫の禮と相似ざるが若く然るべし。曰く、豈に是を謂ふか。曾子曰く、晉楚の富は、及ぶ可からざるなり。彼は其富を以てし、我は吾が仁を以てす。彼は其爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾れ何ぞ慊せんやと。夫れ豈に不義にして而して曾子之を言はん。是れ或は一道なり。天下に達尊三有り。爵一、齒一、德一。朝廷は爵に如くは莫し。鄉黨は齒に如くは莫し。世を輔け民に長たるは德に如くは莫し。惡ぞ其一を有し以て其二を慢するを得んや。故に將に大いに爲す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣あり。謀る有らんと欲せば、則ち之に就く。其の德を尊び道を樂むこと是の如くならずんば、與に爲す有るに足らざるなり。故に湯の伊尹に於ける、學びて而して後之を臣とす。故に勞せずして王たり。桓公の管仲に於ける、學びて而して後之を臣とす。故に勞せずして霸たり。今天下の地醜し德齊し、能く相尙ふる莫きは、他なし、其の敎ふる所を臣とするを好み、而して其の敎を受くる所を臣とするを好まざればなり。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於ける、則ち敢て召さず。管仲すら且つ猶ほ召す可からず、而るを況や管仲を爲さざる者をや。
孟子が王に謁見しようとしたところ、王が使者を送りこう告げた。「私が先生にお目にかかりたいと思っているのですが、寒さに弱く風にあたれません。朝廷での謁見を希望していますが、そこでお会いすることは可能でしょうか?」孟子は答えた。「あいにく病を患っており、朝廷に伺うことができません。」
翌日、孟子は東郭氏の家に弔問に出かけた。これを見た公孫丑が言った。「昨日は病気を理由に辞退されたのに、今日弔問に出向かれるのは、いささか不適切ではないでしょうか。」孟子は答えた。「昨日は病気でしたが、今日は癒えました。どうして弔問に行かない理由があるでしょうか?」
王は再び使者を送り、孟子の病状を見舞う医師を派遣した。孟仲子はこれに対しこう答えた。「先日、王の命を受けながらも、薪を集めるような小事に忙殺され、朝廷に伺えませんでした。今は病が少し良くなったので朝廷に伺おうと思いますが、行くことができるかどうかはわかりません。」
その後、孟子の道中には数人の者が現れ、こう告げた。「どうか必ず朝廷に伺い、途中で帰らないようお願いします!」
やむを得ず孟子は景丑氏の家に宿泊することとなった。景子が言った。「家庭内では父と子、社会外では君主と臣下、これが人間社会の大原則です。父と子は恩愛を主とし、君主と臣下は敬意を主とします。私は王が先生を敬っているのを見ましたが、先生が王を敬う姿を見ていません。」
孟子は答えた。「なんだ、それはどういうことですか!斉国の人々が仁義をもって王に話さないのは、仁義が美しくないからですか?それとも、斉国の人々が『この王とは仁義を語るに足らない』と心の中で思っているからですか?そうであるなら、これ以上に大きな不敬はありません。私は堯舜の道に反することは、王の前で述べることができません。それゆえ、斉国の中で私ほど王を敬っている者はいないのです。」
景子は言った。「いいえ、その意味ではありません。礼にこうあります。『父に呼ばれたら、ためらわずに応じよ。君主に命じられたら、馬車を待たずに出向け。』あなたは朝廷に伺おうとしていましたが、王の命を聞きながら結局行かれませんでした。それは礼に適っていないように思います。」
孟子は答えた。「そのことを言っておられるのですか?曾子がこう言っています。『晋や楚のような富貴は得られないが、彼らはその富を誇り、私は私の仁を誇る。彼らは爵位を誇り、私は私の義を誇る。私に何の不足があるというのか?』これは不義ではなく、曾子が述べたことです。これも一つの道理です。
天下には尊ぶべき三つのものがあります。一つは爵位、一つは年齢、一つは徳です。朝廷では爵位を重んじ、郷里では年齢を重んじ、天下を助け人々を治めるには徳を重んじます。この三つのうち一つを得て、他の二つを軽んじることがあってはなりません。だから、大事を成す君主には、必ず召し出さない臣下がいます。もし相談したいことがあれば、その者のもとに出向くのです。そのように尊徳と道を楽しむ者でなければ、大事を共にするに値しないのです。
ゆえに、湯王が伊尹に対しては彼に学び、そして臣下としたため、労せずして王者となりました。桓公が管仲に対しては彼に学び、そして臣下としたため、労せずして覇者となりました。
今の天下は土地も人材も平凡で、誰も抜きん出る者はいません。その理由はただ一つ、教えを施す者を臣下にすることは好むが、自ら教えを受ける者を臣下にすることを好まないからです。湯王が伊尹を、桓公が管仲を召し出さなかったのは、その価値を知っていたからです。管仲でさえ召し出さなかったのです。まして管仲ほどの人物でない者に対してなおさらではないでしょうか?」
陳臻問曰:「前日於齊,王饋兼金一百而不受;於宋,饋七十鎰而受;於薛,饋五十鎰而受。前日之不受是,則今日之受非也;今日之受是,則前日之不受非也;夫子必居一於此矣。」孟子曰:「皆是也。當在宋也,予將有遠行;行者必以贐,辭曰『饋贐』,予何爲不受?當在薛也,予有戒心,辭曰『聞戒故爲兵饋之』,予何爲不受?若於齊則未有處也。無處而饋之,是貨之也;焉有君子而可以貨取乎?」
陳臻問うて曰く、前日齊に於て、王に兼金一百を饋らる。而して受けず。宋に於て七十鎰を饋らる。而して受く。薛に於て五十鎰を饋らる。而して受く。前日の受けざる是ならば、則ち今日の受くる非なり。今日の受くる是ならば、則ち前日の受けざる非なり。夫子必ず一に此に居らん。孟子曰く、皆是なり。宋に在るに當つては、予將に遠行あらんとす。行者は必ず贐を以てす。辭に曰く、贐を饋ると。予何爲れぞ受けざらん。薛に在るに當りては、予戒心あり。辭に曰く、戒を聞く、故に兵の爲に之を饋ると。予何爲れぞ受けざらん。齊に於けるが若きは、則ち未だ處する有らざるなり。處するなくして之を饋る、是れ之を貨にするなり。焉ぞ君子にして貨を以て取らる可き有らんや。
陳臻が質問した。「先日、先生が斉におられたとき、王が一百兼金を贈られましたが、それを受け取りませんでした。一方、宋では七十鎰を、薛では五十鎰を受け取られました。先日の受け取らなかった判断が正しいのであれば、今日受け取られたことは間違いになります。また、今日受け取られた判断が正しいのであれば、先日の受け取らなかったことが間違いとなります。先生はこの二つのうち、どちらかに決めなければならないのではないでしょうか。」
孟子は答えた。「どちらも正しいのです。宋にいたとき、私は遠方に旅立つ予定がありました。旅をする者には見送りの贈り物をいただくのが通例です。彼らは『これは餞別です』と言って贈ってくれました。どうして私は受け取らない理由があるでしょうか。薛にいたときは、私は戒備を必要としていました。彼らは『これは戒備のためです』と言って兵を伴わせる贈り物をくれました。これもどうして受け取らない理由があるでしょうか。しかし斉にいたときは、私はまだ定住先が決まっていませんでした。定住先もないまま贈り物を受け取るのは、財物として贈られたと考えられます。君子が財物をもって取引されることなど、どうしてあってよいでしょうか。」
孟子之平陸,謂其大夫曰:「子之持戟之士,一日而三失伍,則去之否乎?」曰:「不待三。」「然則子之失伍也亦多矣。兇年饑歲,子之民老羸轉於溝壑,壯者散而之四方者幾千人矣。」曰:「此非距心之所得爲也。」曰:「今有受人之牛羊而爲之牧之者,則必爲之求牧與芻矣。求牧與芻而不得,則反諸其人乎?抑亦立而視其死與?」曰:「此則距心之罪也。」他日見於王曰:「王之爲都者,臣知五人焉。知其罪者,惟孔距心。爲王誦之。」王曰:「此則寡人之罪也。」
孟子平陸に之き、其大夫に謂ひて曰く、子の持戟の士、一日にして三たび伍を失はば、則ち之を去るや否や、曰く、三を待たず。然らば則ち子の伍を失ふ、亦多し。兇年饑歲、子の民は、老羸は溝壑に轉じ、壯者は散じて四方に之く者幾千人なり。曰く、此れ距心の爲すを得る所に非ざるなりと。曰く、今人の牛羊を受けて之が爲に之を牧する者あらん。則ち必ず之が爲めに牧と芻とを求めん。牧と芻とを求めて得ざれば、則ち諸を其人に反さんか。抑亦立ちて其死を視んか。曰く、此れ則ち距心の罪なりと。他日王に見えて、曰く、王の都を爲さむる者、臣五人を知れり。其罪を知る者は惟孔距心のみと。王の爲めに之を誦す。王曰く、此れ則ち寡人の罪なり。
和文
孟子謂蚔蛙曰:「子之辭靈丘而請士師,似也,爲其可以言也。今既數月矣,未可以言與?」蚔蛙諫於王而不用,致爲臣而去。齊人曰:「所以爲蚔蛙,則善矣;所以自爲,則吾不知也。」公都子以告。曰:「吾聞之也:有官守者,不得其職則去;有言責者,不得其言則去。我無官守,我無言責也,則吾進退豈不綽綽然有餘裕哉?」
孟子蚔蛙に謂つて、曰く、子の靈丘を辭して、而して士師を請ふは、似たるなり。其以て言ふ可きが爲なり。今既に數月なり。未だ以て言ふ可からざるか。蚔蛙王を諫めて用ひられず。臣爲るを致して去る。齊人曰く、蚔蛙の爲にする所以は、則ち善し。自ら爲にする所以は、則ち吾知らざるなり。公都子を以て告ぐ。曰く、吾之を聞く、官守有る者は、其職を得ざれば則ち去る。言責ある者は、其言を得ざれば則ち去る。我は官守なし。我は言責なし。則ち吾が進退は、豈に綽綽然として餘裕あらざらんや。
孟子は蚔鼃に言った。「あなたが霊丘の役職を辞して士師(司法官)の職を求めたのは、適切な行動でした。なぜなら、それは言葉によって意見を述べることができる職務だからです。しかし、数か月が経過しました。いまだに意見を述べることができないのですか?」
蚔鼃は王に諫言をしたが受け入れられず、ついに臣下の地位を辞して去った。これに対して斉国の人々はこう評した。「蚔鼃が王に対して尽くしたことは立派だ。しかし、自らの身の振り方については、私たちには理解できない。」
このことを公都子が孟子に報告した。孟子は答えた。「私はこう聞いている。『職務を担う者は、その職務を全うできなければ辞するべきである。言葉で責任を果たす者は、その言葉が通じなければ辞するべきである。』私には官職もなければ、言葉で責任を負う立場でもない。だから、私の進退はどうであれ、余裕をもって対処できるのではないだろうか。」
孟子爲卿於齊,出弔於滕,王使蓋大夫王驩爲輔行。王驩朝暮見,反齊、滕之路,未嘗與之言行事也。公孫丑曰:「齊卿之位,不爲小矣;齊、滕之路,不爲近矣。反之而未嘗與言行事,何也?」曰:「夫既或治之,予何言哉?」
孟子齊に卿たり。出でて滕に弔す。王蓋の大夫王驩をして輔行たらしむ。王驩朝暮に見ゆ。齊滕の路を反し、未だ嘗て之と行事を言はざるなり。公孫丑曰く、齊卿の位は、小と爲さず。齊滕の路は、近しと爲さず。之を反し、未だ嘗てともに行事を言はざるは何ぞや。曰く、夫れ既に之を治むるあり。予何を言はんや。
孟子が斉国で卿(高官)を務めていた際、滕国へ弔問に出かけた。その際、斉王は蓋大夫の王驩を随行させ、補佐役とした。王驩は朝夕孟子に顔を合わせたが、斉と滕を往復する道中、一度も行事や業務について孟子と話すことはなかった。
公孫丑が尋ねた。「斉の卿という地位は小さいものではありませんし、斉から滕への道のりも近くはありません。それなのに、帰るまで一度も行事や業務について話をしなかったのはなぜですか?」
孟子は答えた。「すでに他の誰かがそれを取り仕切っているのなら、私が何を言う必要があるでしょうか?」
孟子自齊葬於魯。反於齊,止於嬴。充虞請曰:「前日不知虞之不肖,使虞敦匠事;嚴,虞不敢請。今愿竊有請也:木若以美然。」曰:「古者棺槨無度,中古棺七寸、槨稱之,自天子達於庶人。非直爲觀美也,然後盡於人心。不得,不可以爲悅;無財,不可以爲悅。得之爲有財。古之人皆用之,吾何爲獨不然?且比化者,無使土親膚,於人心獨無恔乎?吾聞之君子:不以天下儉其親。」
孟子齊より魯に葬る。齊に反り、嬴に止る。充虞請ひて曰く、前日虞の不肖を知らず。虞をして匠を敦うせしむ。事嚴なり。虞敢て請はざりき。今愿くは竊かに請ふ有らん。木以だ美なるが若く然り。曰く、古者は棺槨度なし。中古は棺七寸、槨之に稱ふ。天子より庶人に達す。直に觀の美を爲すに非ず。然して後に人心を盡す。得ざれば、以て悅を爲す可からず。財なければ、以て悅を爲す可からず。之を得て財ありと爲さば、古の人皆之を用ふ。吾何爲れぞ獨り然らざらん。且つ化する比までに、土をして膚に親しからしむるなくば、人心に於て獨恔き無らんや。吾之を聞く、君子は天下を以て其親に儉せずと。
孟子は斉国を離れて魯国で葬儀を行い、再び斉に戻る途中で嬴に立ち寄った。
その際、充虞が孟子に申し出た。「以前、私の不肖さを知らず、私に棺材の工事を任せてくださいました。その任務を遂行するにあたり、恐れ多くてお願いを申し上げることができませんでした。しかし、今どうしても一つお願いしたいことがあります。この木材はとても美しいように思います。」
孟子は答えた。「古代の葬儀では、棺や槨(外棺)の大きさに特定の基準はありませんでした。中世になると、棺は厚さ七寸となり、槨もそれに応じて作られるようになりました。これは天子から庶民に至るまで同じです。美しさを見せるためだけではなく、人々の心を満たすためのものです。それが叶わなければ、満足することはできません。財がなければ満足できないのと同じです。財があってこそ満足が得られるのです。古代の人々は皆それを用いました。では、なぜ私だけがそれを用いない理由があるでしょうか。
さらに、亡くなった者が土に直接触れることがないようにするのが適切です。それをしないのは、亡き者に対する人の心に安らぎがないからです。私は君子の教えを聞いたことがあります。『天下を理由にして親に対して倹約をすることはしない』と。」
沈同以其私問曰:「燕可伐與?」孟子曰:「可。子噲不得與人燕,子之不得受燕於子噲。有仕於此,而子悅之,不告於王,而私與之吾子之祿爵;夫士也,亦無王命而私受之於子,則可乎?何以異於是?」齊人伐燕。或問曰:「勸齊伐燕,有諸?」曰:「未也。沈同問:『燕可伐與?』吾應之曰:『可。』彼然而伐之也。彼如曰:『孰可以伐之?』則將應之曰:『爲天吏則可以伐之。』今有殺人者,或問之曰:『人可殺與?』則將應之曰:『可。』彼如曰:『孰可以殺之?』則將應之曰:『爲士師則可以殺之。』今以燕伐燕,何爲勸之哉?」
沈同其私を以て問うて、曰く、燕伐つべきか。孟子曰く、可なり。子噲人に燕を與へるを得ず。子之燕を子噲に受くるを得ず。此に仕ふる有らん。而して子之を悅び、王に告げず、而して私かに吾子の祿爵を與ふ。夫の士や、亦王命なくして、而して私かに之を子に受けば、則ち可ならんか。何を以て是れに異ならん。齊人燕を伐つ。或ひと問ひて曰く、齊に勸めて燕を伐たしむと。諸れ有るか。曰く、未し。沈同問ふ。燕伐つべきか。吾之に應へて曰く、可なりと。彼然り而して之を伐つなり。彼如し孰れか以て之を伐つ可きと曰はば、則ち將に之に應へて天吏爲らば則ち以て之を伐つ可しと曰はんとす。今人を殺す者あらん。或ひと之を問ひて曰く、人殺す可きか。則ち將に之に應へて可と曰はんとす。彼如し孰れか以て之を殺す可きと曰はば、則ち將に之に應へて士師爲らば則ち以て之を殺す可しと曰はんとす。今燕を以て燕を伐つ。何爲れぞ之を勸めんや。
沈同が孟子に私的に尋ねた。「燕を討つべきでしょうか?」
孟子は答えた。「討つべきです。子噲が燕を他者に譲ることができないのと同じく、あなたも子噲から燕を受け取る資格はありません。もしここに仕える者がいて、あなたが彼を気に入ったとして、王に告げずにあなたの禄や爵位を私的に与えたとしたらどうでしょう。その者がまた王の命を受けずにあなたからそれを私的に受け取ったら、それは許されることでしょうか?それと何が異なるのでしょうか?」
斉人が燕を討ったとき、ある人が孟子に尋ねた。「あなたが斉に燕を討つことを勧めたというのは本当ですか?」
孟子は答えた。「いいえ、それは違います。沈同が私に『燕を討つべきか』と尋ねたので、私は『討つべきだ』と答えました。それを聞いて彼らが討ったのです。もし彼が『誰が討つべきか』と尋ねたならば、私は『天の役人として討つべきである』と答えたでしょう。例えば、人を殺した者がいたとして、誰かが『その人を殺すべきか』と尋ねた場合、私は『殺すべきだ』と答えます。しかし、もし『誰が殺すべきか』と尋ねられたなら、『司法官として殺すべきだ』と答えるでしょう。今、燕を討つのに燕を討つ資格のある者で行われていないのに、どうして私がそれを勧めたと言えるのでしょうか?」
燕人畔,王曰:「吾甚慚於孟子。」陳賈曰:「王無患焉,王自以爲與周公,孰仁且智?」王曰:「惡!是何言也!」曰:「周公使管叔監殷,管叔以殷畔。知而使之,是不仁也;不知而使之,是不智也。仁智,周公未之盡也,而況於王乎?賈請見而解之。」見孟子問曰:「周公何人也?」曰:「古聖人也。」曰:「使管叔監殷,管叔以殷畔也,有諸?」曰:「然。」曰:「周公知其將畔而使之與?」曰:「不知也。」「然則聖人且有過與?」曰:「周公,弟也;管叔,兄也。周公之過,不亦宜乎?且古之君子,過則改之;今之君子,過則順之。古之君子,其過也如日月之食,民皆見之;及其更也,民皆仰之。今之君子,豈徒順之?又從爲之辭。」
燕人畔く、王曰く、吾甚だ孟子に慚づ。陳賈曰く、王患ふる無かれ。王自ら以て周公と孰れか仁且つ智なりと爲す。王曰く、惡是れ何の言ぞ。曰く、周公管叔をして殷を監せしむ。管叔殷を以て畔く。知つて之を使むれば、是れ不仁なり。知らずして之を使むれば、是れ不智なり。仁智は周公も未だ之を盡さざるなり。而るを況んや王に於てをや。賈請ひ見て之を解かん。孟子に見えて問うて曰く、周公は何人ぞや。曰く、古の聖人なり。曰く、管叔をして殷を監せしむ。管叔、殷を以て畔くと。諸れ有るか。曰く、然り。曰く、周公は其の畔かんとするを知りて之を使むるか。曰く、知らざるなり。然らば則ち聖人、且つ過有るか。曰く、周公は弟なり、管叔は兄なり。周公の過、亦宜ならずや。且つ古の君子は、過てば則ち之を改む。今の君子は、過てば則ち之に順ふ。古の君子は、其過や日月の食の如し。民皆之を見る。其更むるに及んでや、民皆之を仰ぐ。今の君子は、豈に徒に之に順ふのみならんや。又從つて之が辭を爲す。
燕人が反乱を起こした。これを聞いた斉王は言った。「私は孟子に対して非常に恥ずかしい思いをしている。」
陳賈が言った。「王よ、そのことについて悩む必要はありません。王ご自身は、周公と比べて、どちらが仁者であり智者だと思われますか?」
王は驚いて言った。「なんだ、そのようなことを言うのか!」
陳賈は答えた。「周公は管叔を殷の監督に任命しましたが、管叔は殷で反乱を起こしました。もし周公が管叔が反乱を起こすことを知っていながら任命したのであれば、それは仁者ではありません。もし知らずに任命したのであれば、それは智者ではありません。仁と智を備えた周公でさえ完全ではありませんでした。それなのに、ましてや王が完璧であると誰が言えるでしょうか。私に孟子に会って、このことを説明させてください。」
陳賈は孟子に会い、尋ねた。「周公とはどのような人物ですか?」
孟子は答えた。「古代の聖人です。」
陳賈はさらに尋ねた。「周公が管叔を殷の監督に任命し、管叔が殷で反乱を起こしたという話は本当ですか?」
孟子は答えた。「その通りです。」
陳賈はまた尋ねた。「周公は管叔が反乱を起こすと知っていて任命したのですか?」
孟子は答えた。「知りませんでした。」
陳賈は言った。「それでは、聖人であっても過ちを犯すことがあるのですか?」
孟子は答えた。「周公は弟であり、管叔は兄でした。周公が過ちを犯したとしても、それは当然のことではないでしょうか。さらに、古代の君子は過ちを犯した場合、それを改めました。しかし、現代の君子は過ちを犯しても、それを正すことなくそのままにしてしまいます。古代の君子の過ちは、日食や月食のようなもので、人々は皆それを目撃しました。そして、それが改められると、人々はそれを仰ぎ見て称賛しました。現代の君子はどうでしょうか。過ちを正さないだけでなく、それを弁護する言葉をつけ加える始末です。」
孟子致爲臣而歸,王就見孟子曰:「前日愿見而不可得,得侍同朝甚喜。今又棄寡人而歸,不識可以繼此而得見乎?」對曰:「不敢請耳,固所愿也。」他日王謂時子曰:「我欲中國而授孟子室,養弟子以萬鐘,使諸大夫國人皆有所矜式。子盍爲我言之?」時子因陳子而以告孟子;陳子以時子之言告孟子。孟子曰:「然。夫時子惡知其不可也?如使予欲富,辭十萬而受萬,是爲欲富乎?季孫曰:『異哉子叔疑!使己爲政,不用,則亦已矣,又使其子弟爲卿。人亦孰不欲富貴?而獨於富貴之中有私龍斷焉。』古之爲市也,以其所有易其所無者,有司者治之耳。有賤丈夫焉,必求龍斷而登之,以左右望而罔市利。人皆以爲賤,故從而征之。征商自此賤丈夫始矣。」
孟子臣たるを致して歸る。王就いて孟子を見て曰く、前日見るを愿ひて得べからず。同朝に侍するを得て甚だ喜ぶ。今又寡人を棄てて歸る。識らず以て此に繼ぎて見るを得べきか。對へて曰く、敢へて請はざるのみ。固より愿ふ所なり。他日王、時子に謂つて曰く、我中國にして孟子に室を授け、弟子を養ふに萬鐘を以てし、諸大夫國人皆矜式する所あらしめんと欲す。子盍ぞ我が爲めに之を言はざる。時子、陳子に因りて以て孟子に告げしむ。陳子、時子の言を以て孟子に告ぐ。孟子曰く、然り。夫の時子惡ぞ其不可なるを知らん。如し予をして富を欲せしめば、十萬を辭して萬を受く、是れ富を欲すると爲さんや。季孫曰く、異なるかな子叔疑。己をして政を爲さしめ、用ひざれば則ち亦已まん。又其子弟をして卿たらしむと。人亦孰れか富貴を欲せざらん。而して獨り富貴の中に於て、龍斷を私する有り。古の市を爲す、其有る所を以て其無き所に易ふるは、有司は之を治むるのみ。賤丈夫有り。必ず龍斷を求めて之に登り、以て左右に望んで市利を罔す。人皆以て賤と爲す。故に從うて之を征す。商を征するは此賤丈夫より始まる。
孟子が臣下としての任を終え帰郷することになった。斉王が孟子に会いに来て言った。「以前、お会いしたくても叶いませんでした。しかし同じ朝廷で仕えることができ、とても喜んでいました。それなのに今、また私を捨てて帰られるのですか。これからまたお会いすることができるでしょうか?」
孟子は答えた。「お会いできることは願っていることです。ただ、自分からお願いすることは恐れ多いのです。」
後日、斉王が時子に言った。「私は中国(中央の地)を孟子に与え、彼の弟子たちを万鍾(多額の俸禄)で養い、大夫や国人たちがみな彼を模範とするようにしたいと思っている。あなたから彼にこのことを伝えてくれませんか?」
時子はこの話を陳子に伝え、陳子がさらに孟子に伝えた。孟子はこれを聞き言った。「そうだな。しかし、時子がその実現の難しさをどうして知ることができるだろうか?もし私が富を望んでいるのなら、十万(多額の富)を辞退しておきながら、一万(少額の富)を受け取るということがあり得るだろうか?季孫はこう言った。『なんと不思議なことか、子叔疑は!自ら政を取らないばかりか、自分の子弟を卿(高官)にした。人は誰しも富貴を望むものだが、その中で一人だけが私的な専断を行っているのだ。』
古代の市場では、人々は自分が持っているものを交換し、自分が持たないものを得るための場であり、それを管理する役人がいただけだ。しかし、ある身分の低い男が市場を自分の利益のために私的に支配しようとし、登場して周囲を見渡して市場の利益を横取りしようとした。この行為を人々は卑しいと考え、役人は彼に課税を行った。このようにして商人への課税は、この卑しい男から始まったのだ。」
孟子去齊,宿於晝。有欲爲王留行者,坐而言。不應,隱几而臥。客不悅曰:「弟子齊宿而後敢言;夫子臥而不聽;請勿復敢見矣。」曰:「坐。我明語子:昔者魯繆公無人乎子思之側,則不能安子思;泄柳、申詳無人乎繆公之側,則不能安其身。子爲長者慮,而不及子思。子絕長者乎?長者絕子乎?」
孟子齊を去り、晝に宿す。王の爲めに行を留めんと欲する者あり。坐して言ふ。應へず。几に隱りて臥す。客悅ばずして曰く、弟子齊宿して而る後に敢て言ふ。夫子臥して聽かず。請ふ復敢て見る勿らん。曰く、坐せよ。我明に子に語げん。昔者魯の繆公、子思の側に人無くんば、則ち子思に安ずる能はず。泄柳・申詳、繆公の側に人なくんば、則ち其身を安ずる能はず。子長者の爲めに慮りて子思に及ばず。子長者を絕つか、長者子を絕つか。
孟子が斉を去る際、途中で昼という場所に宿泊した。
そこに、斉王に孟子を引き留めるために派遣された者がやって来て、座って話し始めた。しかし、孟子は答えず、机に寄りかかって横になった。その者は不満を表して言った。「私たちは斉での宿泊を済ませてからようやく話をする機会を得ましたが、先生は横になって私の話を聞いてくださいません。これでは二度と先生にお会いするつもりはありません。」
孟子は答えた。「座りなさい。私が明確にお話ししましょう。かつて魯の繆公は、子思のそばに適切な人がいなければ子思を安心させることができませんでした。同様に、泄柳や申詳も、繆公のそばに適切な人がいなければ自分たちを安心させることができなかったのです。あなたは長者のためを思って考えているのでしょうが、その考えは子思にも及びません。それなのに、どうしてあなたは長者(孟子)を断絶しようとするのですか?それとも長者があなたを断絶しようとしているのですか?」
孟子去齊,尹士語人曰:「不識王之不可以爲湯、武,則是不明也;識其不可然且至,則是干澤也。千里而見王,不遇故去;三宿而後出晝,是何濡滯也!士則茲不悅。」高子以告。曰:「夫尹士惡知予哉?千里而見王,是予所欲也。不遇故去,豈予所欲哉?予不得已也。予三宿而出晝,於予心猶以爲速。王庶幾改之!王如改諸,則必反予。夫出晝而王不予追也,予然後浩然有歸志。予雖然,豈舍王哉?王由足用爲善;王如用予,則豈徒齊民安?天下之民舉安。王庶幾改之!予日望之!予豈若是小丈夫然哉!諫於其君而不受,則怒,悻悻然見於其面,去則窮日之力而後宿哉?」尹士聞之,曰:「士誠小人也。」
孟子齊を去る。尹士人に語りて曰く、王の以て湯武たる可からざるを識らざれば、則ち是れ不明なり。其不可なるを識り然して且つ至るは、則ち是れ澤を干むるなり。千里にして王を見、遇はざる故に去る。三宿して而る後に晝を出づ、是れ何ぞ濡滯なる。士は則ち茲に悅ばずと。高子以て告ぐ。曰く、夫の尹士は惡ぞ予を知らんや。千里にして王を見る、是れ予が欲する所なり。遇はざる故に去る、豈に予が欲する所ならんや。予已むを得ざるなり。予三宿して晝を出づるも、予が心に於ては猶ほ以て速なりと爲す。王庶幾くは之を改めよ。王如し諸れを改めば、則ち必ず予を反さん。夫れ晝を出で王予を追はざるや、予然る後、浩然として歸志あり。予然りと雖も豈に王を舍てんや。王由ほ用て善を爲すに足る。王如し予を用ひば、則ち豈に徒に齊の民安きのみならん、天下の民舉安からん。王庶幾くは之を改めよと。予日に之を望む。予豈に是の小丈夫の若く然らんや。其君を諫めて受けざれば則ち怒り、悻悻然として其面に見れ、去れば則ち日の力を窮めて而る後に宿せんや。尹士之を聞きて曰く、士は誠に小人なり。
孟子が斉を去った際、尹士が人々にこう語った。「斉王が湯王や武王のようになることができないと見抜けないのであれば、それは孟子が明らかにしていないことになる。もしその不可能性を理解していたのに、それでも斉まで行き、会えなかったからといって去ったのなら、それは目的を見失った行動だ。千里の道のりを経て王に会い、会えずに去る。そして三日間昼に滞在したとは、何とぐずついた行動だろう。これでは士としての立場も好ましくない。」
高子がこの話を孟子に伝えると、孟子は答えた。「尹士はどうして私の心情を理解できるだろうか?千里を旅して王に会うことは、私が望んでいたことだ。しかし、会えなかったから去ることになったのは、私が望んだことではない。これは仕方のないことだったのだ。昼に三日間滞在してから出発したが、私の心からすればそれでも速いほうだと思っている。
もし王が態度を改める見込みがあるなら、必ず私を呼び戻すだろう。私が昼を去った際に王が私を引き止めようとしなかったことで、ようやく私は自由な心で帰郷する決意を持つことができた。とはいえ、私は決して王を見捨てたわけではない。王には善を行う能力が十分にある。もし王が私を用いてくれたならば、斉国の民が安らかになるだけでなく、天下の民も皆安らかになるだろう。私は日々、王が改めることを期待しているのだ。
私は小さな男ではない。君主に諫言して受け入れられないとすぐに怒り、顔に不満を表すような人間ではない。また、去る際には力を尽くして旅を続け、その日のうちに宿泊地に急ぐような人間でもない。」
尹士はこの話を聞き、「私は本当に小人物であった。」と認めた。
孟子去齊,充虞路問曰:「夫子若有不豫色然。前日虞聞諸夫子曰:『君子不怨天,不尤人。』」曰:「彼一時,此一時也。五百年必有王者興,其間必有名世者。由周而來,七百有餘歲矣;以其數則過矣,以其時考之則可矣。夫天,未欲平治天下也,如欲平治天下,當今之世,舍我其誰也?吾何爲不豫哉?」
孟子齊を去る。充虞路に問ひて曰く、夫子不豫の色有るが若く然り。前日、虞、諸を夫子に聞けり。曰く、君子は天を怨みず、人を尤めず。曰く、彼も一時なり、此も一時也。五百年必ず王者興る有り。其間必ず世に名ある者有り。周よりこのかた、七百有餘歲、其數を以てせば則ち過ぎたり。其時を以てせば之を考ふるに則ち可なり。夫れ天未だ天下を平治せんと欲せざるなり。如し天下を平治せんと欲せば、今の世に當つて、我を舍てて其れ誰ぞ。吾何爲れぞ不豫せんや。
孟子が斉を去る際、充虞が道中で尋ねた。「先生、何か不満を抱いているようにお見受けします。以前、先生がこうおっしゃっていたのを聞いたことがあります。『君子は天を怨まず、人を咎めない』と。」
孟子は答えた。「それはその時のこと、その時の状況によるものだ。五百年ごとに必ず王者が現れると言われ、その間に必ず世に名を馳せる人物がいる。周の時代からすでに七百年以上が経っている。この計算では既にその時期は過ぎているが、時代の状況を考えると、今がその時期であるのは確かだ。
しかし、天はまだ天下を平治しようとはしていないのだ。もし天が天下を平治しようとしているのであれば、この時代において、私をおいて他に誰がそれを成し得ようか?それなのに、どうして私が不満を抱かないでいられるだろうか?」
孟子去齊居休。公孫丑問曰:「仕而不受祿,古之道乎?」曰:「非也。於崇,吾得見王;退而有去志,不欲變,故不受也。繼而有師命,不可以請。久於齊,非我志也。」
孟子齊を去りて休に居る。公孫丑問うて曰く、仕へて祿を受けざるは、古の道か。曰く、非なり。崇に於て吾王に見ゆるを得たり。退いて去志あり。變ずるを欲せず、故に受けざるなり。繼で師命あり。以て請ふ可からず。齊に久しきは、我が志に非ざるなり。
孟子が斉を去った後、休という地に滞在した際、公孫丑が尋ねた。「仕えても俸禄を受け取らないというのは、古人の道なのでしょうか?」
孟子は答えた。「そうではない。崇の地では、私は王に謁見する機会を得た。しかし、その後、斉を去る決意をしたため、志を変えたくなかったので俸禄を受け取らなかったのだ。その後、師としての命を受けることになり、それを断ることはできなかった。長く斉に留まったのは、私自身の志ではなかったのだ。」
滕文公爲世子,將之楚,過宋而見孟子。孟子道性善,言必稱堯舜。世子自楚反,復見孟子。孟子曰:「世子疑吾言乎?夫道一而已矣。成覸謂齊景公曰:『彼丈夫也,我丈夫也,吾何畏彼哉?』顏淵曰:『舜何人也?予何人也?有爲者亦若是。』公明儀曰:『文王我師也,周公豈欺我哉?』今滕絕長補短,將五十里也,猶可以爲善國。《書》曰:『若藥不瞑眩,厥疾不瘳。』」
滕の文公世子たり。將に楚に之かんとす。宋を過ぎ、而して孟子を見る。孟子性善を道ふ。言へば必ず堯舜を稱す。世子楚より反り、復孟子を見る。孟子曰く、世子吾が言を疑ふか。夫れ道は一つのみ。成覸齊の景公に謂つて曰く、彼も丈夫なり。我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや。顏淵曰く、舜は何人ぞ。予何人ぞと。爲す有る者は亦是の若し。公明儀曰く、文王は我が師なり。周公は豈に我を欺かんや。今滕長を絕ち短を補はば、將に五十里ならんとす。猶ほ以て善を爲す可き國なり。書に曰く、若し藥瞑眩せざれば、厥の疾瘳えずと。
滕の文公が世子(せいし、後継者)であった頃、楚へ赴く途中で宋を通り、孟子に会った。孟子は人の性は善であると説き、話すたびに堯や舜を引き合いに出して語った。
世子が楚から戻る際、再び孟子に会いに来た。孟子は言った。「世子は私の言葉に疑いを持っておられるのですか?道というものはただ一つに過ぎません。
成覸は斉の景公にこう言いました。『彼も丈夫であり、私も丈夫です。どうして彼を恐れる必要がありましょうか?』
顔淵はこう言いました。『舜はどのような人物で、私はどのような人物か。行う者にとっては、それもまたこのようなものです。』
公明儀はこう言いました。『文王は私の師である。周公が私を欺くことなどあり得るだろうか。』
今、滕国は、長所と短所を補い合い、その国土がわずか五十里であっても、善政を行うことができます。『尚書』にはこうあります。『薬が瞑眩(めまいがするほど強い苦味)を伴わなければ、病を治すことはできない。』」
滕定公薨,世子謂然友曰:「昔者孟子嘗與我言於宋,於心終不忘。今也不幸至於大故,吾欲使子問於孟子,然後行事。」然友之鄒,問於孟子。孟子曰:「不亦善乎!親喪固所自盡也。曾子曰:『生,事之以禮;死,葬之以禮,祭之以禮,可謂孝矣。』諸侯之禮,吾未之學也。雖然,吾嘗聞之矣:三年之喪,齋疏之服,飦粥之食,自天子達於庶人,三代共之。」然友反命,定爲三年之喪。父兄百官皆不欲也,故曰:「吾宗國魯先君莫之行,吾先君亦莫之行也;至於子之身而反之,不可。且《志》曰:『喪祭從先祖。』」曰:「吾有所受之也。」謂然友曰:「吾他日未嘗學問,好馳馬試劍。今也父兄百官不我足也;恐其不能盡於大事。子爲我問孟子。」然友復之鄒,問孟子。孟子曰:「然,不可以他求者也。孔子曰:『君薨,聽於冢宰,飦粥,面深墨,卽位而哭。百官有司,莫敢不哀,先之也。上有好者,下必有甚焉者矣。君子之德,風也;小人之德,草也。草上之風必偃。』。是在世子。」然友反命。世子曰:「然,是誠在我。」五月居廬,未有命戒。百官族人,可謂曰知。及至葬,四方來觀之。顏色之戚,哭泣之哀,弔者大悅。
滕の定公薨す。世子然友に謂ひて曰く、昔者孟子、嘗て我と宋に言へり。心に於て終に忘れず。今や不幸にして大故に至る。吾、子をして孟子に問はしめ、然る後に事を行はんと欲す。然友鄒に之き、孟子に問ふ。孟子曰く、亦善からずや。親の喪は固より自ら盡す所なり。曾子曰く、生るには之に事ふるに禮を以てし、死するには之を葬るに禮を以てし、之を祭るに禮を以てす。孝と謂ふ可し。諸侯の禮は、吾未だ之を學ばざるなり。然りと雖も吾嘗て之を聞けり。三年の喪、齋疏の服、飦粥の食は、天子より庶人に達す。三代之を共にす。然友反命し、定めて三年の喪を爲す。父兄百官皆欲せずして、曰く、吾が宗國魯の先君も之を行ふ莫し。吾が先君も亦之を行ふ莫きなり。子の身に至りて之に反するは不可なり。且つ志に曰く、喪祭は先祖に從ふと。曰く、吾之を受くる所有りと。然友に謂ひて曰く、吾他日未だ嘗て學問せず、好んで馬を馳せ劍を試む。今や父兄百官、我を足れりとせざるなり。其大事を盡す能はざるを恐る。子我が爲めに孟子に問へ。然友復鄒に之き孟子に問ふ。孟子曰く、然り、以て他に求む可からざる者なり。孔子曰く、君薨ずれば、冢宰に聽き、粥を飦り、面深墨、位に卽きて哭す。百官有司敢て哀まざる莫しと。之に先ずるなり。上、好む者有れば、下必ず焉れより甚しき者有り。君子の德は風なり。小人の德は草なり。草之に風を上うれば必ず偃す。是れ世子に在り。然友反命す。世子曰く、然り、是れ誠に我に在り。五月廬に居り、未だ命戒有らず。百官族人、可とし謂つて知と曰ふ。葬るに至るに及び、四方來り之を觀る。顏色の戚み、哭泣の哀み、弔者大いに悅ぶ。
滕の定公が薨去した。世子は然友に言った。「以前、孟子が宋で私に語ってくれたことが、心から離れません。今、このような不幸が起きました。私は孟子に意見を伺ってから事を進めたいと思います。」
然友は鄒に赴き、孟子に尋ねた。孟子は答えた。「何と善いことではありませんか!親の喪においては、心を尽くすべきです。曾子はこう言いました。『生きている間は礼をもって仕え、亡くなった後は礼をもって葬り、礼をもって祭る。これを孝という。』
諸侯の礼については、私も学んだことはありませんが、それでも聞いたことはあります。三年の喪、粗衣をまとい、粥を食べる。この礼は天子から庶人に至るまで、三代の間ずっと共通して守られてきたものです。」
然友がこの話を持ち帰り、三年の喪を行うことが決まった。しかし、父兄や百官たちは反対し、こう言った。「我々の宗国である魯の先君もこれを行わず、我々の先君も行わなかった。それなのに、あなたの代になってそれを変えるのは許されません。また、『喪や祭りは先祖の例にならうべきだ』とも言われています。」
世子は答えた。「私はこれを孟子から直接教えられたのです。」そして然友にこう言った。「私はこれまで学問をしたことがなく、馬を駆り剣を試すのが好きでした。今、父兄や百官は私を軽く見ています。このような大事を全うできないのではと恐れます。孟子にもう一度尋ねてきてください。」
然友は再び鄒に行き、孟子に尋ねた。孟子は答えた。「その通りです。他に求める方法はありません。孔子はこう言いました。『君主が薨去した際には、宰相の指示を仰ぐべきである。粥をすすり、顔には深い墨を塗る。そして即位後に哭し、百官や役人たちも皆これを見て哀しみを表す。』上にいる者がそのように振る舞えば、下にいる者はそれをさらに強く実践するものです。『君子の徳は風、小人の徳は草である。草は風に吹かれると必ず倒れる。』これが世子の役割です。」
然友はこの話を持ち帰った。世子は言った。「その通りだ。本当にこれは私にかかっています。」
世子は五月間廬に籠り、命令や指示を出すことはなかった。百官や一族の人々は、世子の真意を知ることとなった。葬儀の際には、四方から人々が見物に訪れた。世子の顔の哀しみ、哭泣の深さは人々を感動させ、弔問者たちは皆その誠実さに大いに喜んだ。
滕文公問爲國。孟子曰:「民事不可緩也。《詩》云:『晝爾于茅,宵爾索绹。亟其乘屋,其始播百穀。』民之爲道也,有恆產者有恆心,無恆產者無恆心。茍無恆心,放僻邪侈,無不爲已。及陷乎罪然後從而刑之,是罔民也。焉有仁人在位罔民而可爲也?是故賢君必恭儉禮下,取於民有制。陽虎曰:『爲富不仁矣;爲仁不富矣。』夏后氏五十而貢,殷人七十而助,周人百畝而徹。其實皆什一也。徹者徹也,助者藉也。龍子曰:『治地莫善於助,莫不善於貢。貢者校數歲之中以爲常。樂歲粒米狼戾,多取之而不爲虐,則寡取之;兇年糞其田而不足,則必取盈焉。爲民父母,使民盻盻然,將終歲勤動,不得以養其父母,又稱貸而益之,使老稚轉乎溝壑,惡在其爲民父母也?』夫世祿滕固行之矣。《詩》云:『雨我公田,遂及我私。』惟助爲有公田。由此觀之,雖周亦助也。設爲庠序學校以敎之。
滕の文公國を爲むるを問ふ。孟子曰く、民事は緩くすべからざるなり。詩に云ふ、晝は爾于きて茅れ、宵は爾索绹へよ、亟かに其れ屋に乘れ。其れ始めて百穀を播せんと。民の道たる、恆產ある者は、恆心あり。恆產無き者は、恆心無し。茍も恆心無ければ、放僻邪侈、爲さざる無きのみ。罪に陷るに及びて、然る後從ひて之を刑す。是れ民を罔するなり。焉ぞ仁人位に在る有り。民を罔するを爲すべけんや。是の故に賢君は必ず恭儉にして下を禮し、民に取る制有り。陽虎曰く、富を爲せば仁ならず。仁を爲せば富まず。夏后氏は五十にして貢し、殷人は七十にして助す、周人は百畝にして徹す、其實は皆什が一なり。徹は徹なり。助は藉なり。龍子曰く、地を治むるは助より善きは莫し。貢より善からざるは莫し。貢は數歲の中を校し、以て常と爲す。樂歲には粒米狼戾す。多く之を取れども、虐と爲さず。則ち寡く之を取る。兇年には其田に糞ひて足らず、則ち必ず取り盈つ。民の父母と爲り、民をして盻盻然として將に終歲勤動し、以て其父母を養ふを得ざらしむ。又貸を稱して之を益し、老稚をして溝壑に轉ぜしむ。惡ぞ其民の父母たるに在らん。夫れ世祿は滕固より之を行ふ。詩に云ふ。我が公田に雨り、遂に我が私に及べと。惟助に公田ありと爲す。此に由つて之を觀れば、周と雖も亦助するなり。
滕文公が国の統治について孟子に尋ねた。孟子は答えた。
「民の営みを怠らせてはなりません。『詩経』にこうあります。『昼は茅葺きをし、夜は縄を撚る。急いで家を建て、春に穀物を播く。』民が生活を成り立たせる道は、安定した生業があって初めて安定した心が生まれるものです。生業が安定しなければ、心も安定しません。心が安定しなければ、民は放縦、邪道、贅沢の限りを尽くし、あらゆる悪事を行うでしょう。そして罪を犯してから罰せられることになります。これは民を罠にかけることと同じです。仁者が統治者としてこのようなことをすることがあり得るでしょうか?
したがって、賢い君主は慎み深く倹約し、礼をもって民を扱い、民からの徴収には節度を保ちます。陽虎は言いました。『富めば仁を失い、仁を保てば富めない。』
夏王朝では五十畝につき貢税を課し、殷王朝では七十畝につき労役を課し、周王朝では百畝につき徴収しましたが、いずれも実際には十分の一の割合でありました。『徹』は徴収のことであり、『助』は労役のことです。龍子は言いました。『土地を治めるには労役が最善であり、貢税が最悪である。』貢税は数年の収穫を基に計算されます。豊作の年には多く取っても民を苦しめることはなく、凶作の年には田を肥やしても収穫が足りない場合には必ず補填が行われました。民の父母たる者が民を見捨て、年中忙しく働かせて親を養う余裕もなく、借金をさせる状況に追い込むようでは、どうして民の父母と言えるでしょうか?
滕ではすでに世襲禄が行われています。『詩経』にはこうあります。『公田に雨が降り、それが私田にも及ぶ。』これは公田があってこその労役です。このことから見ると、周もまた労役を用いていたのです。
設爲庠序學校以敎之。庠者養也,校者敎也,序者射也。夏曰校,殷曰序,周曰庠,學則三代共之,皆所以明人倫也。人倫明於上,小民親於下。有王者起,必來取法,是爲王者師也。《詩》云:『周雖舊邦,其命維新。』文王之謂也。子力行之,亦以新子之國。」使畢戰問井地。孟子曰:「子之君將行仁政,選擇而使子,子必勉之。夫仁政必自經界始。經界不正,井地不均,穀祿不平。是故暴君污吏必慢其經界。經界既正,分田制祿,可坐而定也。夫滕壤地褊小,將爲君子焉,將爲野人焉。無君子莫治野人,無野人莫養君子。請野九一而助,國中什一使自賦。卿以下必有圭田。圭田五十畝,餘夫二十五畝。死徙無出鄉,鄉田同井,出入相友,守望相助,疾病相扶持,則百姓親睦。方里而井;井九百畝,其中爲公田。八家皆私百畝,同養公田。公事畢,然後敢治私事,所以別野人也。此其大略也。若夫潤澤之,則在君與子矣。」
庠序、學校を設け爲し以て之を敎ふ。庠とは養なり。校とは敎なり。序とは射なり。夏に校と曰ひ、殷に序と曰ひ、周に庠と曰ふ。學は則ち三代之を共にす。皆人倫を明かにする所以なり。人倫上に明かに、小民下に親む。王者起る有れば、必ず來りて法を取らん。是れ王者の師と爲るなり。詩に云ふ、周は舊邦と雖も其命維れ新たなりと。文王の謂ひなり。子之を力行せば、亦以て子の國を新にせん。」畢戰をして井地を問はしむ。孟子曰く、子の君將に仁政を行はんとす。選擇して子を使しむ。子、必ず之を勉めよ。夫れ仁政は必ず經界より始る。經界正しからざれば、井地均しからず。穀祿平かならず。是の故に暴君污吏は、必ず其の經界を慢にす。經界既に正しければ、田を分ち祿を制すること、坐して定むべきなり。夫れ滕は壤地褊小なれども、將た君子たり。將た野人たり。君子無ければ、野人を治むる莫し。野人無ければ、君子を養ふなし。請ふ野は九が一にして助し、國中は什が一にして自ら賦せ使めん。卿以下には、必ず圭田あり。圭田は五十畝、餘夫は二十五畝、死徙鄉を出づるなし。鄉田は井を同じうす。出入相友とし、守望相助け、疾病相扶持すれば、則ち百姓親睦す。方里にして井す。井は九百畝、其中を公田と爲す。八家皆百畝を私し、同じく公田を養ふ。公事畢り、然る後敢て私事を治む。野人を別つ所以なり。此れ其大略なり。夫の之を潤澤するが若きは、則ち君と子とに在り。
さらに、庠・序・学校を設けて教育を行うべきです。庠は養育、校は教授、序は射術を教える場です。夏王朝では校、殷王朝では序、周王朝では庠と呼ばれました。教育は三代に共通し、人倫を明らかにするためのものでした。上が人倫を明らかにすれば、下の庶民は親しみを抱きます。王者が現れると、必ずこれを模範として学びます。それが王者の師であるのです。『詩経』にこうあります。『周は古い国でありながら、その命運は新しい。』これは文王を指しています。あなたも実践して、あなたの国を新しくしてください。」
孟子はさらに、畢戦に井田制について問わせた。孟子は答えた。
「あなたの君主は仁政を行おうとしています。そしてあなたを選んで任命しました。あなたは努力すべきです。仁政は土地の区分から始まります。土地の区分が正しくなければ、井田制も不均衡になり、収穫や俸禄も不平等になります。そのため、暴君や悪吏は土地の区分を曖昧にしてしまうのです。土地の区分が正しくなれば、田地の割り当てや俸禄の配分は簡単に決められます。
滕の土地は狭小であるため、君子を育てるべきか、野人を育てるべきかという選択を迫られます。君子がいなければ野人を治めることができず、野人がいなければ君子を養うこともできません。
地方では十分の一を徴収し、国中では十分の一を自ら申告させる制度にすべきです。卿以下の者には必ず五十畝の圭田を与え、それ以外の者には二五畝を与えます。死者が出たり移住したりしても郷里を出ることは許されず、郷里の土地は同じ井田制に属します。人々は互いに助け合い、見守り合い、病気の際は助け合うことで、百姓が親睦を深めるのです。
井田制では、方一里に井田があり、合計九百畝のうち中央が公田です。八家族がそれぞれ百畝の私田を耕し、公田を共同で養います。公の仕事が終わった後で初めて私事を処理することが許されます。これが野人と君子を区別する方法です。これが井田制の大略です。詳細については君主とあなたの裁量にかかっています。」
有爲神農之言者許行,自楚之滕,踵門而告文公,曰:「遠方之人,聞君行仁政,愿受一廛而爲氓。」文公與之處。其徒數十人,皆衣褐,捆屨、織席以爲食。陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕。曰:「聞君行聖人之政,是亦聖人也,愿爲聖人氓。」陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉。陳相見孟子,道許行之言曰:「滕君則誠賢君也;雖然,未聞道也。賢者與民并耕而食,饔飧而治。今也滕有倉廩府庫,則是厲民而以自養也,惡得賢?」孟子曰:「許子必種粟而後食乎?」曰:「然。」「許子必織布而後衣乎?」曰:「否,許子衣褐。」「許子冠乎?」曰:「冠。」曰:「奚冠?」曰:「冠素。」曰:「自織之與?」曰:「否,以粟易之。」曰:「許子奚爲不自織?」曰:「害於耕。」曰:「許子以釜甑爨、以鐵耕乎?」曰:「然。」「自爲之與?」曰:「否,以粟易之。」「以粟易械器者,不爲厲陶冶;陶冶亦以其械器易粟者,豈爲厲農夫哉?且許子何不爲陶冶,舍皆取諸其宮中而用之?何爲紛紛然與百工交易?何許子之不憚煩?」曰:「百工之事,固不可耕且爲也。」「然則治天下獨可耕且爲與?有大人之事,有小人之事。且一人之身,而百工之所爲備。如必自爲而後用之,是率天下而路也。故曰:或勞心,或勞力。勞心者治人,勞力者治於人。治於人者食人,治人者食於人──天下之通義也。「當堯之時,天下猶未平,洪水橫流,氾濫於天下;草木暢茂,禽獸繁殖;五穀不登,禽獸偪人;獸蹄鳥跡之道,交於中國。堯獨憂之,舉舜而敷治焉。舜使益掌火;益烈山澤而焚之,禽獸逃匿。禹疏九河,瀹濟、漯而注諸海;決汝、漢,排淮、泗,而注之江,然後中國可得而食也。當是時也,禹八年於外,三過其門而不入,雖欲耕,得乎?后稷敎民稼穡,樹藝五穀,五穀熟而民人育。
神農の言を爲す者許行あり。楚より滕に之き、門に踵りて文公に告げて、曰く、遠方の人、君の仁政を行ふを聞く、愿くは一廛を受けて氓たらんと。文公之に處を與ふ。其徒數十人、皆褐を衣、屨を捆ち席を織りて、以て食を爲す。陳良の徒陳相、其弟辛と耒耜を負うて、宋より滕に之き、曰く、君の聖人の政を行ふを聞く。是れ亦聖人なり。愿くは聖人の氓たらんと。陳相許行を見て、而して大に悅び、盡く其學を棄てて學ぶ。陳相孟子を見て、許行の言を道ひて、曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も、未だ道を聞かざるなり。賢者は民と并び耕して食ひ、饔飧して治む。今や滕に倉廩府庫あり。則ち是れ民を厲して以て自ら養ふなり。惡ぞ賢を得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種ゑて而る後に食ふか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠す。曰く、奚を冠す。曰く、素を冠す。曰く、自ら之を織るか。曰く、否、粟を以て之に易ふ。曰く、許子は奚爲れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之を爲すか。曰く、否、粟を以て之に易ふ。粟を以て械器に易ふる者、陶冶を厲すと爲さず、陶冶も亦其械器を以て粟に易ふる者、豈に農夫を厲すとなさんや。且つ許子は何ぞ陶冶を爲さざる。皆諸を其宮中に取りて之を用ふるを舍めて、何爲れぞ紛紛然として百工と交易する。何ぞ許子の煩を憚からざる。曰く、百工の事は、固より耕し且つ爲す可からざるなり。然らば則ち天下を治むること、獨り耕し且つ爲す可きか。大人の事あり。小人の事あり。且つ一人の身にして、而して百工の爲す所を備へ、如し必ず自ら爲して而る後に之を用ひば、是れ天下を率ゐて路するなり。故に曰く、或は心を勞し、或は力を勞す。心を勞する者は人を治め、力を勞する者は人に治めらる。人に治めらるゝ者は人を食ひ、人を治むる者は人に食はる。天下の通義なり。堯の時に當り、天下猶ほ未だ平かならず。洪水橫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖す。五穀登らず。禽獸人に偪る。獸蹄鳥跡の道、中國に交はる。堯獨り之を憂へ、舜を舉げて敷き治めしむ。舜益をして火を掌らしむ。益山澤を烈して之を焚き、禽獸逃れ匿る。禹九河を疏し、濟漯を瀹して、諸れを海に注ぎ、汝漢を決し、淮泗を排して、之を江に注ぐ。然る後中國得て食らふべきなり。是の時に當つて、禹外に八年、三たび其門を過ぐれども入らず。耕さんと欲すと雖も得んや。后稷民に稼穡を敎へ、五穀を樹藝す。五穀熟して民人育す。
神農を理想とする思想を語る者、許行が楚から滕にやってきて、文公の宮門を訪れこう言った。「遠方の者が君主が仁政を行っていると聞きました。どうか一廛(いっせん、土地一区画)を与えていただき、貴国の民とさせてください。」文公はこれを許し、許行はその従者数十人と共に滕に住みついた。彼らは皆、粗布の衣服を着て、草履を編み、敷物を織って生計を立てていた。
陳良の門下生である陳相とその弟の辛は、農具を背負って宋から滕にやってきた。そして言った。「君主が聖人の政を行っていると聞きました。それゆえ君主も聖人に違いありません。どうか聖人の民とさせてください。」
陳相は許行と会い、彼の思想に深く感銘を受け、自分の学問をすべて捨てて許行の教えを学ぶことにした。
陳相は孟子に会い、許行の言葉を伝えた。「滕の君主は確かに賢明な君主です。しかしながら、まだ道を得ていません。賢者とは民と共に耕作し、共に食べ、炊事をしながら政を行うものです。今の滕には倉廩や府庫があります。これは民を苦しめて自分を養っているようなもので、どうして賢明だと言えるでしょうか。」
孟子は答えた。「許行は自分で粟を作ってから食べるのですか?」
陳相は答えた。「そうです。」
孟子はさらに尋ねた。「では、許行は自分で布を織ってから衣服を作るのですか?」
陳相は答えた。「いいえ、許行は粗布の衣服を着ています。」
孟子は尋ねた。「許行は冠を被りますか?」
陳相は答えた。「はい、被ります。」
孟子は続けて問うた。「どのような冠を被るのですか?」
陳相は答えた。「白絹の冠です。」
孟子はさらに尋ねた。「それを自分で織るのですか?」
陳相は答えた。「いいえ、粟と交換して手に入れています。」
孟子は問いかけた。「なぜ自分で織らないのですか?」
陳相は答えた。「耕作の邪魔になるからです。」
孟子は言った。「では、許行は釜や甑(鍋や蒸篭)を使って料理し、鉄製の道具を使って耕作していますか?」
陳相は答えた。「はい、使っています。」
孟子はさらに尋ねた。「それらを自分で作るのですか?」
陳相は答えた。「いいえ、粟と交換しています。」
孟子は言った。「粟と交換して道具を手に入れることが、陶冶(とうや、器を作る職人)を苦しめることになるでしょうか?また、陶冶が道具を作り、粟と交換して食べ物を手に入れることが、農夫を苦しめることになるでしょうか?
さらに問いたい。なぜ許行は陶冶を自ら行わず、すべての道具を自分の家で作るのではなく、百工(職人)たちと頻繁に取引をしているのでしょうか?何をそんなに煩雑にしているのですか?」
陳相は答えた。「百工の仕事は、耕作と同時に行うことはできません。」
孟子は続けて言った。
「それでは、天下を治めるためには、耕作と統治を同時に行うことができるのでしょうか?世の中には大人(高位者)の仕事と小人(労働者)の仕事があります。一人の体では、百工(職人)が作るすべてのものを賄うことはできません。もしすべてを自分で作らなければならないとしたら、それは天下の人々を疲弊させ、道に迷わせることになるでしょう。
ですから、古の言葉にこうあります。『ある者は心を労し、ある者は力を労する。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は他人の生産物を食べ、人を治める者は自分の労働の対価として食べる。これが天下の通義である。』
堯の時代には天下がまだ安定しておらず、大洪水が横行し、流域を氾濫させていました。草木が生い茂り、禽獣が繁殖して五穀は実らず、禽獣が人々を脅かしました。獣道と鳥の通り道が中国(中央の地)を交差して荒らしていました。堯はこれを深く憂い、舜を選んで治世を委ねました。舜は益に火を管理させ、山や湿地を焼き払って禽獣を追い払いました。また禹は九つの川を開き、濟水や漯水を整理して海へ注ぎ込み、汝水や漢水を分流させ、淮水や泗水を江へ流し込みました。その後、中国の地でようやく人々が食べ物を得ることができるようになりました。当時、禹は八年間も家を離れ、三度も自宅の門を通り過ぎて入らなかったのです。彼に耕作する余裕があったでしょうか?
また、后稷は民に農耕を教え、五穀を植え育て、収穫によって人々を養いました。
人之有道也,飽食煖衣,逸居而無敎,則近於禽獸。聖人有憂之,使契爲司徒,敎以人倫:父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信。放勛曰:『勞之來之、匡之直之、輔之翼之,使自得之;又從而振德之。』聖人之憂民如此,而暇耕乎?堯以不得舜爲己憂;舜以不得禹、皋陶爲己憂。夫以百畝之不易爲己憂者,農夫也。分人以財謂之惠,敎人以善謂之忠,爲天下得人者謂之仁。是故以天下與人易,爲天下得人難。孔子曰:『大哉,堯之爲君!惟天爲大,惟堯則之。蕩蕩乎民無能名焉!君哉舜也!巍巍乎有天下而不與焉!』堯舜之治天下,豈無所用其心哉?亦不用於耕耳。「吾聞用夏變夷者,未聞變於夷者也。陳良,楚產也;悅周公、仲尼之道,北學於中國,北方之學者,未能或之先也。彼所謂豪杰之士也。子之兄弟事之數十年,師死而遂倍之。昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,筑室於場,獨居三年,然後歸。他日子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,强曾子。曾子曰:『不可,江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尙已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而學之,亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷、遷于喬木者,未聞下喬木而入於幽谷者。魯頌曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之學,亦爲不善變矣。」「從許子之道,則市賈不貳,國中無僞;雖使五尺之童適市,莫之或欺。布帛長短同,則賈相若;麻縷絲絮輕重同,則賈相若;五穀多寡同,則賈相若;屨大小同,則賈相若。」曰:「夫物之不齊,物之情也。或相倍蓰,或相什百,或相千萬;子比而同之,是亂天下也。巨屨小屨同賈,人豈爲之哉?從許子之道,相率而爲僞者也,惡能治國家?」
人の道有るや、飽食煖衣、逸居して敎なければ、則ち禽獸に近し。聖人之を憂ふるあり。契をして司徒たらしめ、敎ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り。放勛曰く、之を勞し、之を來たし、之を匡し、之を直くし、之を輔け、之を翼け、之を自得せしめ、又從つて之を振德す。聖人の民を憂ふる此の如し。而るを耕すに暇あらんや。堯は舜を得ざるを以て己が憂と爲す。舜は禹・皋陶を得ざるを以て己が憂と爲す。夫れ百畝の易らざるを以て己が憂となす者は農夫なり。人に分つに財を以てする、之を惠と謂ふ。人を敎ふるに善を以てする之を忠と謂ふ。天下の爲めに人を得る者之を仁と謂ふ。是の故に天下を以て人に與ふるは易く、天下の爲めに人を得るは難し。孔子曰く、大なるかな堯の君たる。惟天を大と爲す。惟堯之に則る。蕩蕩乎として民能く名くるなし。君なるかな舜や、巍巍乎として、天下を有つて、而して與からず。堯舜の天下を治むる、豈に其心を用ふる所無からんや。亦耕すに用ひざるのみ。吾夏を用つて夷を變ずる者を聞けり。未だ夷に變ぜらるゝ者を聞かざるなり。陳良は楚の產なり。周公・仲尼の道を悅び、北して中國に學ぶ。北方の學者、未だ之に先んずる或る能はざるなり。彼は所謂豪傑の士なり。子の兄弟、之に事ふること數十年、師死して遂に之に倍く。昔者孔子沒し、三年の外、門人任を治めて將に歸らんとす。入りて子貢に揖し、相向うて哭す。皆聲を失ふ。然る後に歸る。子貢反りて室を場に筑く。獨居すること三年、然る後に歸る。他日、子夏・子張・子游、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事ふる所を以て之に事へんと欲し、曾子を强ふ。曾子曰く、不可なり。江漢以て之を濯ひ、秋陽以て之を暴らす。皜皜乎として尙ふべからざるのみと。今や南蠻鴃舌の人、先王の道を非とす。子子の師に倍き、而して之を學ぶ。亦曾子に異なり。吾幽谷より出でて喬木に遷る者を聞く。未だ喬木を下りて幽谷に入る者を聞かず。魯頌に曰く、戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲す。周公方に且つ之を膺たんとす。子是に之れ學ぶ。亦善く變ぜずと爲す。許子の道に從はば、則ち市の賈貳せず。國中僞りなし。五尺の童をして市に適かしむと雖も、之を欺く或る莫し。布帛長短同じければ、則ち賈相若く。麻縷絲絮輕重同じければ、則ち賈相若く。五穀多寡同じければ、則ち賈相若く。屨の大小同じければ、則ち賈相若く。曰く、夫れ物の齊しからざるは、物の情なり。或は相倍蓰し、或は相什百し、或は相千萬す。子比して之を同じうす。是れ天下を亂すなり。巨屨小屨賈を同じうせば、人豈に之を爲らんや。許子の道に從はば、相率ゐて僞をなす者なり。惡ぞ能く國家を治めん。
しかし、飽食・暖衣し、楽に暮らしても教育を受けなければ、人は禽獣に近い状態になってしまいます。聖人はこれを憂い、契を司徒に任命し、人倫を教えさせました。父子には親愛を、君臣には義を、夫婦には役割を、長幼には秩序を、朋友には信を教えました。堯は言いました。『労して導き、補い矯め、支え翼けて、人々が自ら正道を得られるようにする。そしてさらに徳を振興させるのだ。』このように聖人は民を憂いていましたが、耕作をしている暇などありませんでした。
堯は舜を得られないことを憂い、舜は禹や皋陶を得られないことを憂いました。一方で百畝の土地を耕せないことを憂うのは農夫の役割です。財を分け与えるのを『恵』と呼び、人に善を教えるのを『忠』と呼び、天下に優れた人材を得ることを『仁』と呼びます。ですから、天下を他人に譲るのは容易ですが、天下に人材を得るのは難しいのです。孔子は言いました。『偉大なる堯の君主たるあり方よ!天が偉大であるのと同じく、堯も天に則り、民は堯を称える言葉を見つけられないほどであった。偉大なる舜の君主たるあり方よ!彼は天下を得ても、それに固執することがなかった。』堯や舜が天下を治めた際、心を使わなかったのでしょうか?ただ耕作には心を使わなかったのです。
私は、夏の制度を用いて夷(未開地)を教化することは聞いたことがありますが、夷の制度を用いて変わるという話は聞いたことがありません。陳良は楚の出身ですが、周公や仲尼の道を慕い、中国に北上して学びました。北方の学者で彼に先んじた者はいませんでした。彼こそ豪傑の士です。
ところが、あなたの兄弟は彼に数十年も仕えたのに、師が亡くなるとそれを裏切ってしまいました。かつて孔子が亡くなったとき、弟子たちは三年間喪に服し、それぞれの故郷へ帰る準備をしました。その際、子貢は一人で孔子の墓の側に小屋を建て、さらに三年間そこに住んでから帰りました。他の日、子夏、子張、子游らが有若を孔子に似た聖人とみなし、孔子に対するように仕えようとしましたが、曾子がそれを断固として拒みました。曾子は言いました。『それはできません。江や漢の水で洗い、秋の陽で干されても、孔子の偉大さには及びません。』
今、南方の蛮族で異なる言語を話し、先王の道を知らない人々にあなたは師事しようとしているのです。それは曾子の行いとは全く異なります。私は『幽谷から高木に登る者を聞いたことはありますが、高木から幽谷に降りる者を聞いたことはありません』という言葉を知っています。『魯頌』にはこうあります。『戎狄を討ち、荊舒を懲らしめよ。』周公もまた戎狄を討とうとしたのです。あなたが学ぼうとしているのは、そのような正しい道から逸れたものです。」
孟子はさらに言った。
「許行の道を採用すれば、市場での取引において偽りがなくなり、国中で不正が消えます。たとえ五尺の子供が市場に行っても誰からも騙されることがありません。布や絹の長さが同じなら価格は同じ、麻や糸の重さが同じなら価格は同じ、五穀の量が同じなら価格は同じ、履物の大きさが同じなら価格は同じになるでしょう。」
しかし孟子は続けた。
「物の性質が異なるのは自然なことです。価格が二倍、三倍になることもあれば、十倍、百倍、さらには千倍、万倍になることもあります。それをすべて均一にしようとするのは天下を混乱させる行為です。大きな履物と小さな履物が同じ価格であったら、人はそれを作るでしょうか?許行の道に従えば、かえって人々は偽りを競うようになります。それでどうして国家を治めることができるでしょうか?」
墨者夷之,因徐辟而求見孟子。孟子曰:「吾固愿見,今吾尙病,病愈,我且往見。」夷子不來。他日又求見孟子。孟子曰:「吾今則可以見矣。不直則道不見,我且直之。吾聞夷子墨者,墨者之治喪也,以薄爲其道也。夷子思以易天下,豈以爲非是而不貴也?然而夷子葬其親厚,則是以所賤事親也。」徐子以告夷子。夷子曰:「儒者之道,古之人『若保赤子』,此言何謂也?之則以爲愛無差等,施由親始。」徐子以告孟子。孟子曰:「夫夷子信以爲人之親其兄之子爲若親其鄰之赤子乎?彼有取爾也。赤子匍匐將入井,非赤子之罪也。且天之生物也使之一本,而夷子二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者,其親死則舉而委之於壑。他日過之,狐貍食之,蠅蚋姑嘬之。其顙有泚,睨而不視。夫泚也,非爲人泚,中心達於面目。蓋歸反虆梩而掩之,掩之誠是也。則孝子仁人之掩其親,亦必有道矣。」徐子以告夷子。夷子憮然爲間曰:「命之矣。」
墨者夷之、徐辟に因りて、而して孟子を見るを求む。孟子曰く、吾固より見るを愿ふ。今吾尙ほ病めり。病愈えば、我且に往いて見んとすと。夷子來らず。他日又孟子を見るを求む。孟子曰く、吾今則ち以て見るべし。直にせざれば、則ち道見れず、我且に之を直にせんとす。吾聞く、夷子は墨者なりと。墨者の喪を治むるや、薄きを以て其道と爲す。夷子以て天下を易へんと思ふ。豈に以て是に非ずと爲して、而して貴ばざらんや。然り而して夷子は其親を葬る厚し。則ち是れ賤む所を以て親に事ふるなり。徐子以て夷子に告ぐ。夷子曰く、儒者の道は、古の人赤子を保ずるが若しと。此の言何の謂ひぞや。之は則ち以爲らく、愛に差等無し、施すこと親きより始むと。徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、夫の夷子は信に人の其兄の子を親むこと、其鄰の赤子を親むが若く爲すと以爲るか。彼は取る有りて爾るなり。赤子匍匐して將に井に入らんとす。赤子の罪に非ざるなり。且つ天の物を生ずる、之をして本を一にせしむ。而るに夷子は本を二つにするが故なり。蓋し上世嘗て其親を葬らざる者あり。其親死す。則ち舉げて之を壑に委てたり。他日之を過ぐれば、狐貍之れを食ひ、蠅蚋姑之を嘬ふ。其顙泚たる有り、睨して視ず。夫の泚たる、人の爲に泚たるに非ず、中心より面目に達するなり。蓋し歸り虆梩を反して之を掩ふ。之を掩ふこと誠に是ならば、則ち孝子仁人の其親を掩ふこと、亦必ず道有らんと。徐子以て夷子に告ぐ。夷子憮然として間を爲して曰く、之に命ぜり。
墨者の一人である夷之が、徐辟を通じて孟子に面会を求めてきた。孟子は言った。
「もともと私は夷子に会いたいと思っていた。だが、今は病気である。病気が治ったら私が会いに行くつもりだ。だが、夷子が私を訪ねて来ることはないだろう。」
後日、再び夷之が孟子に面会を求めてきた。孟子は言った。
「今なら会うことができる。しかし、道理にかなわないことには応じられないので、その点を正す必要がある。私は夷子が墨者であると聞いている。墨者は喪を薄くすることをその道とする。しかし、夷子はそれを以て天下を変えようとしている。彼がそれを誤りだと考えないのなら、それを軽んじることはないだろう。しかし、夷子が親を厚く葬ったというのは、彼が自ら軽んじている道で親を扱ったことになる。」
徐辟がこの話を夷子に伝えると、夷子は答えた。
「儒者の教えでは、古人が『赤子を保つようにせよ』と言った。この言葉は何を意味しているのか?儒者は親愛の心に差等をつけず、それを親から始めると言うのだ。」
徐辟が再び孟子にこの話を伝えると、孟子は答えた。
「夷子は本気で人が兄の子を隣の家の赤子と同じように親しむと信じているのだろうか?彼の主張には何か取り繕うところがある。もし赤子が井戸に這い入ろうとしていたら、それは赤子の罪ではない。その姿を見て助けるのが人情である。
天が万物を生み出すとき、その根本は一つにする。それなのに、夷子の言うことはその根本を二つに分けている。
かつて、親を葬らない者がいた。その親が死ぬと、遺体を谷間に放置してしまった。他日、その場を通ると、狐や狸が食い荒らし、蠅や蚋が群がり吸血していた。その姿を見て、その者は自然と目を逸らし、涙を流した。涙は彼の意図ではなく、心から顔に現れたものだ。そして彼は帰って木や草を集めて親を葬った。
親を葬ることが正しいのであれば、孝行な子や仁愛の人が親を葬ることにも道理があるはずだ。」
徐辟がこの話を再び夷子に伝えると、夷子は深く感じ入り、しばし沈黙して言った。「この道を受け入れることにしよう。」
陳代曰:「不見諸侯,宜若小然。今一見之,大則以王,小則以霸。且《志》曰:『枉尺而直尋。』宜若可爲也。」孟子曰:「昔齊景公田,招虞人以旌,不至,將殺之。『志士不忘在溝壑,勇士不忘喪其元。』孔子奚取焉?取非其招不往也。如不待其招而往,何哉?且夫枉尺而直尋者,以利言也。如以利,則枉尋直尺而利,亦可爲與?昔者趙簡子使王良與嬖奚乘,終日而不獲一禽。嬖奚反命曰:『天下之賤工也。』或以吿王良,良曰:『請復之。』强而後可,一朝而獲十禽。嬖奚反命曰:『天下之良工也。』簡子曰:『我使掌與女乘。』謂王良。良不可,曰:『吾爲之范,我馳驅,終日不獲一;爲之詭遇,一朝而獲十。《詩》云:「不失其馳,舍矢如破。」我不貫與小人乘,請辭。』御者且羞與射者比。比而得禽獸,雖若丘陵,弗爲也。如枉道而從彼,何也?且子過矣,枉己者,未有能直人者也。」
陳代曰く、諸侯を見ざるは、宜に小なるが若く然るべし。今一たび之を見る。大なれば則ち以て王たらしめん、小なれば則ち以て霸たらしめん。且つ志に曰く、尺を枉げて尋を直くすと、宜に爲す可きが若くなるべし。孟子曰く、昔齊の景公田す。虞人を招くに旌を以てす。至らず。將に之を殺さんとす。志士は溝壑に在るを忘れず。勇士は其元を喪ふを忘れず。孔子奚を取る。其招くに非ざれば往かざるを取るなり。其招くを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言ふなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げ尺を直くして利あらば、亦爲す可きか。昔者趙簡子、王良をして嬖奚と乘らしむ。終日にして一禽を獲ず。嬖奚して反命して曰く、天下の賤工なりと。或ひと以て王良に吿ぐ。良曰く、請ふ之を復せん。强ひて而る後可く。一朝にして十禽を獲たり。嬖奚反命して曰く、天下の良工なり。簡子曰く、我女と乘ることを掌らしめんと。王良に謂ふ。良可かず。曰く、吾之が爲めに我が馳驅を范すれば、終日一を獲ず。之が爲めに詭遇すれば、一朝にして十を獲。詩に云ふ、其馳を失はざれば、矢を舍ちて破るが如しと。我小人と乘るに貫はず、請ふ辭せんと。御者すら射者と比するを羞づ。比して禽獸を得る、丘陵の若しと雖も、爲さざるなり。道を枉げて彼に從ふが如きは何ぞや。且つ子過てり。己を枉ぐる者、未だ能く人を直くする者あらざるなり。
陳代が言った。
「諸侯に会わないのは、何となく小さなことのように見えます。しかし、一度会えば、大きければ王道を目指し、小さければ覇道を目指すことになります。さらに、『尺を曲げて尋を直す』という言葉もあります。それに従えば、行ってもよいのではないでしょうか?」
孟子は答えた。
「かつて、斉の景公が狩りをしていたとき、虞人(狩りの管理人)を旗で呼び寄せましたが、彼が来なかったため、殺そうとしました。志士は溝や谷に埋もれるような境遇にあっても志を忘れず、勇士は命を失うことを恐れないものです。孔子はどこを評価したでしょうか?それは、呼び方が正しくなければ応じなかったという点です。もし呼び方を待たずに応じてしまうならば、それはどういうことになるでしょうか?
さらに、『尺を曲げて尋を直す』というのは利をもって語るものです。もし利によって行動するのであれば、『尋を曲げて尺を直す』のも利益があるならば成り立つでしょうか?
昔、趙の簡子が王良に命じて嬖奚と馬車に乗らせ、一日中狩りをしても一羽の鳥も捕れなかったことがありました。嬖奚が報告するには、『彼は天下で最も腕の悪い御者です』と言いました。この話を王良に伝えると、王良は言いました。『もう一度やりましょう。』無理をすれば可能です。一朝(短時間)で十羽の鳥を捕ることができました。
嬖奚が報告するには、『彼は天下で最も腕の良い御者です』と言いました。簡子は言いました。『では、これからはお前と彼に馬車を任せよう』と、王良に告げました。しかし、王良はこれを断りました。『私が規範を守って馳せれば、一日中一羽も捕れず、策略を弄して馳せれば、一朝で十羽を捕ることができました。『詩経』にはこうあります。「馬を馳せて矢を放てば、矢はまっすぐに飛ぶ」と。私は小人と共に馬車に乗りたくありません。辞退させてください。』御者でさえ、小人と一緒にいるのを恥じるのです。たとえ多くの獲物を得られたとしても、それが丘や山のように積み上がったとしても、私はそれをしないでしょう。道を曲げて彼らに従うとは、どういうことですか?
さらに、あなたは間違っています。自分を曲げる者が他人を正すことができた例はありません。」
※ 尺を曲げて尋を直す
大きなことのために小さなことを犠牲にすることをいう。 小利を捨てて大利を取ることのたとえ。
景春曰:「公孫衍、張儀豈不誠大丈夫哉?一怒而諸侯懼,安居而天下熄。」孟子曰:「是焉得爲大丈夫乎?子未學禮乎?丈夫之冠也,父命之;女子之嫁也,母命之,往送之門,戒之曰:『往之女家,必敬必戒,無違夫子。』以順爲正者,妾婦之道也。居天下之廣居,立天下之正位,行天下之大道;得志與民由之,不得志,獨行其道;富貴不能淫,貧賤不能移,威武不能屈──此之謂大丈夫。」
景春曰く、公孫衍、張儀は豈に誠の大丈夫ならざらんや。一たび怒りて諸侯懼れ、安居して天下熄む。孟子曰く、是れ焉ぞ大丈夫爲るを得んや。子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之を命じ、女子の嫁するや、母之を命ず。往くに之を門に送り、之を戒めて曰く、往いて女の家に之き、必ず敬し、必ず戒め、夫子に違ふなかれと。順を以て正と爲す者は妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ひ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ。富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず。此を之れ大丈夫と謂ふ。
「公孫衍や張儀は、まさに大丈夫(立派な男)ではないでしょうか?一度怒れば諸侯が恐れ、安らかに過ごせば天下が静まり返るのです。」
孟子は答えた。
「それをどうして大丈夫と言えるでしょうか?あなたは礼を学んでいないのですか?男子が冠礼を受けるときは父親が命じ、女子が嫁ぐときは母親が命じます。嫁ぎ先へ送り出す際に門前で戒めます。『嫁ぎ先では必ず敬意を払い、慎み深くあれ。夫に逆らうことのないように。』と。このように、順(従順)を正しいとするのは、妾婦(従属する女性)の道なのです。
真の大丈夫とは、天下の広い居所に住み、天下の正しい位置に立ち、天下の大道を行う者です。志を得れば民と共にその道を行い、志を得られなければ一人でもその道を行う。富貴によって堕落せず、貧賤によって道を変えず、威武によって屈することがない。これを大丈夫というのです。」
周霄問曰:「古之君子仕乎?」孟子曰:「仕。傳曰:『孔子三月無君,則皇皇如也。出疆必載質。』公明儀曰:『古之人三月無君則弔。』」「三月無君則吊,不以急乎?」曰:「士之失位也,猶諸侯之失國家也。《禮》曰:『諸侯耕助,以供粢盛。夫人蠶繅,以爲衣服。犧牲不成,粢盛不潔,衣服不備,不敢以祭。惟士無田,則亦不祭。』牲殺器皿衣服不備,不敢以祭,則不敢以宴,亦不足吊乎?」「出疆必載質,何也?」曰:「士之仕也,猶農夫之耕也。農夫豈爲出疆舍其耒耜哉?」曰:「晉國亦仕國也,未嘗聞仕如此其急。仕如此其急也,君子之難仕,何也?」曰:「丈夫生而愿爲之有室,女子生而愿爲之有家。父母之心,人皆有之。不待父母之命、媒妁之言,鉆穴隙相窺,逾墻相從,則父母、國人皆賤之。古之人未嘗不欲仕也,又惡不由其道。不由其道而往者,與鉆穴隙之類也。」
周霄問うて曰く、古の君子仕ふるか。孟子曰く、仕ふ。傳に曰く、孔子三月君なければ、則ち皇皇如たり。疆を出づれば必ず質を載す。公明儀曰く、古の人、三月君なければ則ち弔すと。三月君無ければ則ち弔す、以だ急ならずや。曰く、士の位を失ふや、猶ほ諸侯の國家を失ふがごとし。禮に曰く、諸侯は耕助し、以て粢盛に供し、夫人は蠶繅し、以て衣服を爲る。犧牲成らず、粢盛潔からず、衣服備はらざれば、敢て以て祭らず。惟ふに士田無ければ、則ち亦祭らず。牲殺、器皿、衣服備はらざれば、敢て以て祭らず。則ち敢て以て宴せず。亦弔するに足らざるか。疆を出づれば必ず質を載するは何ぞ。曰く、士の仕ふるや、猶ほ農夫の耕すがごとし。農夫豈に疆を出づる爲めに、其耒耜を舍てんや。曰く、晉國も亦仕國なり。未だ嘗て仕ふること此の如く其れ急なるを聞かず。仕ふること此の如く其れ急ならば、君子の仕を難ずるは何ぞ。曰く、丈夫生れては之が爲めに室有るを愿ひ、女子生れては之が爲めに家有るを愿ふは父母の心、人皆之れ有り。父母の命、媒妁の言を待たず。穴隙を鉆りて相窺ひ、墻を逾えて相從はば、則ち父母國人皆之を賤まん。古の人未だ嘗て仕を欲せずんばあらず。又其道に由らざるを惡む。其道に由らずして、往く者は、穴隙を鉆ると之れ類するなり。
周霄が孟子に尋ねた。
「古の君子も仕官していたのでしょうか?」
孟子は答えた。
「仕官していました。『伝』にはこうあります。『孔子は三ヶ月君主に仕えないと、そわそわと落ち着かない様子で、国境を出るときには必ず質(信任の証)を携えていた。』また、公明儀は言いました。『古の人は三ヶ月君主がいないと弔意を表した。』」
周霄が尋ねた。
「三ヶ月君主がいないと弔意を表すのは、あまりに急ぎすぎではないでしょうか?」
孟子は答えた。
「士が仕える地位を失うことは、諸侯が国を失うのと同じです。『礼』にはこうあります。『諸侯は耕作を助け、粢盛(しせい、祭りの供え物)を供えるための作物を育てる。諸侯の妻は蚕を育てて糸を紡ぎ、衣服を作る。供える牲畜が揃わず、粢盛が清らかでなく、衣服が整わなければ、祭祀を行うことはできない。士が田地を持たなければ、祭祀を行うこともできない。』牲畜、器具、衣服が揃わなければ、祭祀も宴も行うことができません。それが不足している場合、弔意を表すことも当然ではないでしょうか?」
周霄がさらに尋ねた。
「国境を出る際に質を携えるとはどういう意味でしょうか?」
孟子は答えた。
「士の仕官は、農夫の耕作に似ています。農夫が国境を越える際に、耒耜(らいし、農具)を捨てることがあるでしょうか?」
周霄がまた尋ねた。
「晋国でも仕官が行われていますが、これほど急いでいるという話は聞いたことがありません。もし仕官がそれほど急ぐべきものなら、君子が仕官するのが難しいのはどうしてでしょうか?」
孟子は答えた。
「男子は生まれると家を持ちたいと願い、女子は生まれると家庭を持ちたいと願います。父母の心は万人に共通しています。もし父母の命令や媒妁の言葉を待たず、穴や隙間を探して相手を覗き見たり、壁を乗り越えて逢い引きをするようなことをしたら、父母も国人も皆それを卑しいとみなすでしょう。
古の人も仕官を望まなかったことはありません。しかし、正しい道を通らないことを嫌いました。正しい道を通らずに仕官するのは、壁を乗り越えて逢い引きをするようなものです。」
彭更問曰:「後車數十乘,從者數百人,以傳食於諸侯,不以泰乎?」孟子曰:「非其道,則一簞食不可受於人。如其道,則舜受堯之天下,不以爲泰,子以爲泰乎?」曰:「否。士無事而食,不可也。」曰:「子不通功易事,以羨補不足,則農有餘粟,女有餘布。子如通之,則梓匠輪輿皆得食於子。於此有人焉;入則孝,出則悌,守先王之道,以待後之學者,而不得食於子。子何尊梓匠輪輿而輕爲仁義者哉?」曰:「梓匠輪輿,其志將以求食也。君子之爲道也,其志亦將以求食與?」曰:「子何以其志爲哉?其有功於子,可食而食之矣。且子食志乎?食功乎?」曰:「食志。」曰:「有人於此,毀瓦畫墁,其志將以求食也,則子食之乎?」曰:「否。」曰:「然則子非食志也,食功也。」
彭更問うて曰く、後車數十乘、從者數百人、以て諸侯に傳食す。以だ泰ならずや。孟子曰く、其道に非ざれば、則ち一簞の食も人より受く可からず。如し其道ならば、則ち舜堯の天下を受くるも、以て泰と爲さず。子以て泰と爲すか。曰く、否。士、事なくして食むは不可なり。曰く、子、功を通じ事を易へ、羨れるを以て不足を補はずんば、則ち農に餘粟あり、女に餘布あらん。子如し之を通ぜば、則ち梓匠輪輿、皆食を子に得ん。此に人有り、入りては則ち孝、出でては則ち悌、先王の道を守り、以て後の學者を待つ。而して食を子に得ず。子何ぞ梓匠輪輿を尊んで、而して仁義を爲す者を輕ずるや。曰く、梓匠輪輿は、其志將に以て食を求めんとするなり。君子の道を爲すや、其志亦將に以て食を求めんとするか。曰く、子何ぞ其志を以て爲さんや。其の子に功有らば、食せしむべくして之に食せしめん。且つ子志に食せしむるか、功に食せしむるか。曰く、志に食せしむ。曰く、此に人有り。瓦を毀ち、墁に畫く、其志將に以て食を求めんとするなり。則ち子之に食せしむるか。曰く、否。曰く、然らば則ち子志に食せしむるに非ざるなり、功に食せしむるなり。
彭更が孟子に尋ねた。
「荷車が数十台、従者が数百人も伴い、諸侯の地で伝食(提供された食事)を受けるのは、過剰ではありませんか?」
孟子は答えた。
「道に反する場合には、一椀の飯さえも他人から受け取るべきではありません。しかし、道に適うならば、舜が堯から天下を譲られたとしても、それを過剰だとは思いません。あなたはそれを過剰だと思いますか?」
彭更は答えた。
「いいえ。しかし、士が何もせずに食事を取るのは許されません。」
孟子は言った。
「あなたが、労働を分担し役割を交換し、余剰をもって不足を補うという仕組みを受け入れないなら、農夫は余った粟を持ち、女性は余った布を持つだけでしょう。しかし、もしそれを受け入れるなら、木工や車を作る者もあなたから食事を得られるようになります。
ここに一人の人物がいたとしましょう。その者は家では親孝行をし、外では兄弟に敬意を払い、先王の道を守りながら後世の学者のために備えている。しかし、そのような人物があなたから食事を得られないとしたら、なぜあなたは木工や車職人を尊び、仁義を実践する者を軽んじるのですか?」
彭更が言った。
「木工や車職人は、食を得るために志を持って働いています。君子が道を行うのも、食を得るためなのでしょうか?」
孟子は答えた。
「なぜその志を気にするのですか?もしその人物があなたに貢献しているなら、食事を与えるのが当然でしょう。あなたは志によって食事を与えるのですか?それとも貢献によって与えるのですか?」
彭更は答えた。
「志によって食事を与えます。」
孟子は言った。
「ここに一人の人物がいたとしましょう。その者は瓦を壊し、地面を塗ることで食を得ようとしています。あなたはその者に食事を与えますか?」
彭更は答えた。
「いいえ。」
孟子は言った。
「それならば、あなたは志によって食事を与えているのではなく、貢献によって与えているのです。」
萬章問曰:「宋,小國也,今將行王政,齊楚惡而伐之,則如之何?」孟子曰:「湯居亳,與葛爲鄰。葛伯放而不祀,湯使人問之曰:『何爲不祀?』曰:『無以供犧牲也。』湯使遺之牛羊,葛伯食之,又不以祀。湯又使人問之曰:『何爲不祀?』曰:『無以供粢盛也。』湯使亳衆往爲之耕,老弱饋食。葛伯率其民,要其有酒食黍稻者奪之,不授者殺之。有童子以黍肉餉,殺而奪之。《書》曰:『葛伯仇餉』,此之謂也。爲其殺是童子而征之,四海之內皆曰:『非富天下也,爲匹夫匹婦復讎也。』湯始征,自葛載。十一征而無敵於天下。東面而征,西夷怨;南面而征,北狄怨,曰:『奚爲後我?』民之望之若大旱之望雨也。歸市者弗止,蕓者不變。誅其君,弔其民,如時雨降,民大悅。《書》曰:『徯我后,后來其無罰。』『有攸不惟臣,東征,綏厥士女。篚厥玄黃,紹我周王見休,惟臣附于大邑周。』其君子實玄黃于篚以迎其君子,其小人簞食壺漿以迎其小人。救民於水火之中,取其殘而已矣。《太誓》曰:『我武惟揚,侵于之疆。則取于殘,殺伐用張,于湯有光。』不行王政云爾;茍行王政,四海之內皆舉首而望之,欲以爲君。齊楚雖大,何畏焉?」
萬章問うて曰く、宋は小國なり、今將に王政を行はんとす。齊楚惡んで之を伐たば、則ち之を如何せん。孟子曰く、湯は亳に居り、葛と鄰たり。葛伯放にして祀らず、湯人をして之を問はしめて曰く、何爲れぞ祀らざる。曰く、以て犧牲に供するなきなり。湯之れに牛羊を遺らしむ。葛伯之を食ひ、又以て祀らず。湯又人をして之れを問はしめて曰く、何爲れぞ祀らざる。曰く、以て粢盛に供するなきなり。湯亳の衆をして往いて之れが爲に耕さしむ。老弱食を饋くる。葛伯其民を率ゐ、其の酒食黍稻ある者を要して之れを奪ふ。授けざる者は之れを殺す。童子あり黍肉を以て餉くる。殺して之れを奪ふ。書に曰く、葛伯餉に仇すと。此れ之れの謂ひなり。其の是童子を殺す爲にして之れを征す。四海の內皆曰く、天下を富めりとするに非ず、匹夫匹婦の爲めに讎を復するなり。湯始めて征する葛より載む。十一征して、天下に敵なし。東面して征すれば、西夷怨み、南面して征すれば、北狄怨む。曰く、奚爲ぞ我を後にすると。民の之を望むこと、大旱の雨を望むが若きなり。市に歸する者は止まらず、蕓る者は變ぜず、其君を誅し、其民を弔し、時雨の降るが如し。民大に悅ぶ。書に曰く、我が后を徯つ。后來らば其れ罰なけん。惟れ臣たらざる攸あり、東征して厥士女を綏んず。厥玄黃を篚にし、我が周王に紹して休を見る。大邑周に臣附するを惟ふ。其君子は玄黃を篚に實し、以て其君子を迎へ、其小人は簞食壺漿して、以て其小人を迎ふ。民を水火の中に救ひ、其殘を取るのみ。太誓に曰く、我が武惟れ揚り、之れが疆を侵す。則ち殘を取る。殺伐用て張り、湯に于て光ありと。王政を行はざるのみ。茍も王政を行はば、四海の內、皆首を舉げて之を望み、以て君と爲さんと欲す。齊楚大なりと雖も、何ぞ畏れん。
万章が孟子に尋ねた。
「宋は小国です。今、王道政治を行おうとしていますが、もし斉や楚がこれを嫌い、攻めてきたらどうすればよいでしょうか?」
孟子は答えた。
「湯王が亳に住んでいたとき、隣国の葛がありました。葛伯(かつはく、葛の君主)は礼を失い、祭祀を行わなくなりました。湯王は使者を送り尋ねました。『なぜ祭祀を行わないのか?』すると葛伯は答えました。『犠牲に供える家畜がないのです。』そこで湯王は牛や羊を送りました。しかし、葛伯はそれを食べるだけで祭祀を行いませんでした。
湯王は再び尋ねました。『なぜ祭祀を行わないのか?』葛伯は答えました。『粢盛(しせい、供え物の穀物)がありません。』そこで湯王は亳の民を派遣し、土地を耕して穀物を供えるようにしました。また老若の者を派遣し、食事を提供しました。しかし、葛伯は民を率いて酒や穀物を持つ者から奪い、渡さない者を殺しました。ある童子が黍と肉を持って奉げに来ましたが、殺されて奪われました。このことについて『書経』には、『葛伯は贈り物を恨み、恩を仇で返した』と記されています。これはそのことを指します。
湯王は、この童子を殺した罪を理由に葛伯を討ちました。このとき、天下の人々は皆言いました。『湯王は天下を富ませるためではなく、一人の男女のために仇を討ったのだ。』
『湯の征伐は葛から始まる』とされ、湯王は十一度の征伐を行い、天下に敵はいなくなりました。湯王が東に征伐を行えば西の夷が怨み、南に征伐を行えば北の狄が怨みましたが、怨みの理由は『なぜ自分たちが後回しにされたのか』というものでした。人々が湯王を待ち望むのは、大旱(たいかん、大きな旱魃)のときに雨を待つようなものでした。
市場に行く者も止められず、農作業をしている者も動じませんでした。湯王はその君主を討ち、その民を哀れみました。その様子は、ちょうど時雨が降るようなもので、民は大いに喜びました。『書経』にはこうあります。『私たちの王を待ち望む。王が来れば罰はないだろう。』
『四方で自ら臣下でない者がいるならば、東征してその民を安んじ、士女を和らげる。』その君子たちは黒衣と黄色い衣を用意して君子を迎え、小人たちは食物と水を持って小人を迎えた。湯王は民を水火の苦しみから救い、残虐な君主を討つのみでした。
『太誓』にはこうあります。『我が武力を振るい、その境界に侵入し、残虐な者を討ち取る。殺伐を行い、湯王の光栄を輝かせる。』王道政治を行わなければこのようにはならないでしょう。しかし、もし王道政治を行えば、四海の内のすべての民が顔を上げてそれを待ち望み、君主にしたいと願うでしょう。斉や楚が大国であろうとも、何を恐れることがあるでしょうか?」
孟子謂戴不謂曰:「子欲子之王之善與?我明吿子:有楚大夫於此,欲其子之齊語也,則使齊人傅諸?使楚人傅諸?」曰:「使齊人傅之。」曰:「一齊人傅之,衆楚人咻之,雖日撻而求其齊也,不可得矣。引而置之莊岳之間數年,雖日撻而求其楚,亦不可得矣。子謂薛居州,善士也,使之居於王所。在於王所者,長幼卑尊皆薛居州也,王誰與爲不善?在王所者,長幼卑尊皆非薛居州也,王誰與爲善?一薛居州,獨如宋王何?」
孟子、謂戴不に謂つて曰く、子は子の王の善を欲するか、我明に子に吿げん。此に楚の大夫在らんに、其子の齊語せんことを欲せば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか、楚人をして諸に傅たらしめんか。曰く、齊人をして之れに傅たらしめん。曰く、一の齊人之に傅し、衆楚人之れに咻しくせば、日に撻ちて其齊なることを求むと雖も、得べからず。引きて之れを莊岳の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其楚ならんことを求むと雖も、亦得べからず。子は薛居州を善士なりと謂ひ、之れをして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王誰れと與に不善をなさん。王の所に在るもの、長幼卑尊、皆薛居州に非ざるならば、王誰と與に善をなさん。一の薛居州、獨り宋王を如何にせん。
孟子は戴不勝に言った。
「あなたは、自分の王が善を行うことを望んでいますか?私がはっきりとお教えしましょう。ここに楚の大夫がいて、自分の子が斉の言葉を話せるようになりたいと思ったとします。その場合、斉人にその子を教えさせますか、それとも楚人に教えさせますか?」
戴不勝は答えた。
「斉人に教えさせます。」
孟子は続けた。
「斉人一人がその子を教えようとしても、大勢の楚人がその子を周囲で騒ぎ立てれば、その子は斉の言葉を話せるようにはなりません。たとえ毎日鞭で叩いて斉の言葉を覚えさせようとしても、無理です。逆に、その子を斉人の中に数年間住まわせれば、たとえ毎日鞭で叩いて楚の言葉を話させようとしても、無理でしょう。
あなたは薛居州を善い人だと認めています。その薛居州を王の側近として置くことができますか?王の側にいる者が、長幼を問わず、すべて薛居州のような人物であれば、王は誰と共に悪を行うでしょうか?逆に、王の側にいる者が長幼を問わず、誰も薛居州のような人物でなければ、王は誰と共に善を行うでしょうか?
薛居州がただ一人王の側にいたとして、彼がどうして宋王(暗愚な王)を変えることができるでしょうか?」
公孫丑問曰:「不見諸侯,何義?」孟子曰:「古者不爲臣不見。段干木逾垣而辟之,泄柳閉門而不納。是皆已甚;迫,斯可以見矣。陽貨欲見孔子,而惡無禮。大夫有賜於士,不得受於其家,則往拜其門。陽貨矙孔子之亡也,而饋孔子蒸豚,孔子亦矙其亡也而往拜之。當是時,陽貨先,豈得不見?曾子曰:『脅肩諂笑,病于夏畦。』子路曰:『未同而言,觀其色,赧赧然,非由之所知也。』由是觀之,則君子之所養,可知已矣。」
公孫丑問ふ、曰く、諸侯を見ざるは何の義ぞ。孟子曰く、古者は臣たらざれば見えず。段干木は垣を逾えて之れを辟け、泄柳は門を閉ぢて納れず。是れ皆已甚し。迫ぢば斯に以て見るべし。陽貨孔子を見んと欲す。而して禮なきを惡む。大夫士に賜ふあり。其家に受くるを得ざれば、則ち往いて其門に拜す。陽貨孔子の亡きを矙ひ、而して孔子に蒸豚を饋くる。孔子また其亡きを矙ひ、而して往いて之を拜す。是時に當りて陽貨先んぜり。豈に見ざるを得んや。曾子曰く、肩を脅し諂ひ笑ふは、夏畦よりも病る。子路曰く、未だ同じからずして言ふ、其色を觀れば赧赧然たり。由の知る所に非ざるなり。是に由て之れを觀れば、則ち君子の養ふ所は知るべきのみ。
公孫丑が孟子に尋ねた。
「諸侯に会わないというのは、どういう義(正しい道理)なのでしょうか?」
孟子は答えた。
「古の時代には、臣下でない者が君主に会うことはありませんでした。段干木は諸侯を避けるために塀を越えて逃げ、泄柳は門を閉ざして諸侯を中に入れませんでした。これらはどちらも過剰な行動です。しかし、やむを得ない場合には会うこともできます。
陽貨は孔子に会おうとしましたが、礼を欠くことを嫌いました。当時、大夫が士に贈り物をする際、士がそれを家で受け取ることは許されず、門を訪れて礼を尽くさねばなりませんでした。陽貨は孔子が家にいない隙を狙い、蒸し豚を贈りました。孔子もまた、陽貨が家にいない隙を狙い、門を訪れて礼を尽くしました。この場合、陽貨が先に礼を尽くしたため、孔子がこれを避けることはできませんでした。
曾子はこう言っています。『肩をすぼめて媚びた笑みを浮かべるのは、夏の畑で働くのと同じくらい苦痛だ。』また、子路はこう言っています。『意見が一致していない者と話す際、相手の顔色が赧然(たんぜん、赤くなるさま)としているのを見ているのは、私には理解できないことだ。』
これらを考えれば、君子が何を養うべきかがわかるでしょう。」
戴盈之曰:「什一,去關市之征,今茲未能。請輕之,以待來年,然後已,何如?」孟子曰:「今有人日攘其鄰之雞者,或吿之曰:『是非君子之道。』曰:『請損之,月攘一雞;以待來年,然後已。』如知其非義,斯速已矣,何待來年?」
戴盈之曰く、什が一にして關市の征を去るは、今茲は未だ能はず。請ふ、之れを輕くして以て來年を待ち、然る後に已めん。何如と。孟子曰く、今、人日〻に其鄰の雞を攘む者あらん。或ひと之に吿げて曰く、是れ君子の道に非ずと。曰く、請ふ之れを損し月に一雞を攘み、以て來年を待ち、然る後に已めんと。如し其の義に非ざるを知らば、斯に速に已めん。何ぞ來年を待たん。
戴盈之が孟子に言った。
「十分の一(什一)の税制を採用し、関税や市場税を廃止することは、今年はまだ実行できません。まずは軽減して、来年に完全廃止するという計画ではどうでしょうか?」
孟子は答えた。
「今、ある人が毎日隣の家から鶏を盗んでいるとします。ある人がその者に言います。『それは君子の道ではありません。』するとその者はこう答えます。『では、鶏を盗むのを減らして、月に一羽だけ盗むことにし、来年には完全にやめることにしよう。』
もしそれが不義であるとわかっているのなら、すぐにやめるべきです。なぜ来年まで待つ必要があるのでしょうか?」
公都子曰:「外人皆稱夫子好辯,敢問何也?」孟子曰:「予豈好辯哉?予不得已也。天下之生久矣,一治一亂。當堯之時,水逆行,泛濫於中國。蛇龍居之,民無所定。下者爲巢,上者爲營窟。《書》曰:『洚水警餘。』洚水者,洪水也。使禹治之。禹掘地而注之海,驅蛇龍而放之菹,水由地中行,江、淮、河、漢是也。險阻既遠,鳥獸之害人者消,然後人得平土而居之。堯舜既沒,聖人之道衰。暴君代作,壤宮室以爲污池,民無所安息;棄田以爲園囿,使民不得衣食。邪說暴行又作。園囿污地沛澤多,而禽獸至。及紂之身,天下又大亂。周公相武王,誅紂、伐奄,三年討其君;驅飛廉於海隅而戮之;滅國者五十;驅虎豹犀象而遠之。天下大悅。《書》曰:『丕顯哉文王謨!丕承哉武王烈!佑啟我後人,咸以正無缺。』「世衰道微,邪說暴行有作。臣弒其君者有之,子弒其父者有之。孔子懼,作《春秋》。《春秋》,天子之事也。是故孔子曰:『知我者,其惟《春秋》乎!罪我者,其惟《春秋》乎!』聖王不作,諸侯放恣,處士橫議。楊朱、墨翟之言盈天下。天下之言,不歸楊則歸墨。楊氏爲我,是無君也。墨氏兼愛,是無父也。無父無君,是禽獸也。公明儀曰:『庖有肥肉,廄有肥馬,民有饑色,野有餓莩,此率獸而食人也。』楊墨之道不息,孔子之道不著,是邪說誣民、充塞仁義也。仁義充塞,則率獸食人,人將相食。吾爲此懼,閑先聖之道,距楊墨、放淫辭,邪說者不得作。作於其心,害於其事;作於其事,害於其政。聖人復起,不易吾言矣。昔者禹抑洪水而天下平,周公兼夷狄、驅猛獸而百姓寧,孔子成《春秋》而亂臣賊子懼。《詩》云:『戎狄是膺,荊舒是懲;則莫我敢承。』無父無君,是周公所膺也。我亦欲正人心、息邪說、距詖行、放淫辭,以承三聖者。豈好辯哉?予不得已也。能言距楊墨者,聖人之徒也。」
公都子曰く、外人皆夫子辯を好むと稱す。敢て問ふ何ぞや。孟子曰く、予豈に辯を好まんや。予已むを得ざるなり。天下の生は久し、一治一亂す。堯の時に當つて、水逆行して中國に泛濫す。蛇龍之れに居り、民定まる所なし。下なる者は、巢を爲り、上なる者は、營窟を爲る。書に曰く、洚水餘を警むと。洚水とは洪水なり。禹をして之れを治めしむ。禹地を掘りて之れを海に注ぎ、蛇龍を驅りて之れを菹に放つ。水地中より行く。江・淮・河・漢是れなり。險阻既に遠かり、鳥獸の人を害する者消す。然して後人平土を得て之れに居る。堯舜既に沒し、聖人の道衰へ、暴君代〻作り、宮室を壤ちて以て污池と爲す。民安息する所なし。田を棄てて以て園囿と爲し、民をして衣食を得ざらしむ。邪說暴行又作り、園囿、污地、沛澤多くして、而して禽獸至る。紂の身に及び、天下又大いに亂る。周公、武王を相けて、誅を紂ち奄を伐つ。三年其の君を討ち、飛廉を海隅に驅りて之れを戮す。國を滅す者五十、虎豹犀象を驅りて之を遠ざけ、天下大に悅ぶ。書に曰く、丕に顯なるかな文王の謨、丕に承げるかな武王の烈、我が後人を佑啟し、咸正を以てし缺くるなからしむと。世衰へ道微にして、邪說暴行有作る。臣にして其君を弒する者之れ有り、子にして其父を弒する者之れ有り。孔子懼れて、春秋を作る。春秋は天子の事なり。是故に孔子曰く、我を知る者は、其れ惟春秋か。我を罪する者は、其れ惟春秋かと。聖王作らず、諸侯放恣、處士橫議し、楊朱・墨翟の言天下に盈つ。天下の言、楊に歸せざれば則ち墨に歸す。楊氏は我が爲めにす。是れ君なきなり。墨子は兼愛す、是れ父なきなり。父なく君なきは、是れ禽獸なり。公明儀曰く、庖に肥肉有り、廄に肥馬有り、民に饑色有り、野に餓莩有り。此れ獸を率ゐて人を食ましむるなり。楊墨の道息まず、孔子の道著はれず、是れ邪說民を誣ひ、仁義を充塞すればなり。仁義充塞すれば、則ち獸を率ゐて人を食ましむ。人將に相食まんとす。吾此れが爲めに懼れ、先聖の道を閑り、楊墨を距ぎ、淫辭を放ち、邪說者作るを得ざらしむ。其心に作れば其事に害あり、其事に作れば其政に害あり。聖人復起るも、吾が言を易へず。昔者禹洪水を抑めて天下平かに、周公夷狄を兼ね、猛獸を驅りて百姓寧し。孔子春秋を成して、而して亂臣賊子懼る。詩に云ふ戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲す。則ち我れ敢て承くる莫しと。父なく君なきは、是れ周公の膺つ所なり。我亦人心を正し、邪說を息め、詖行を距ぎ、淫辭を放ち、以て三聖者を承がんと欲す。豈に辯を好まんや。予已むを得ざるなり。能く言ひて楊墨を距ぐ者は、聖人の徒なり。
公都子が孟子に尋ねた。
「外の人々は皆、先生が議論好きだと言っています。どうしてでしょうか?」
孟子は答えた。
「私が議論を好むというのでしょうか?それは、私がやむを得ず行っているのです。天下が生まれて久しいですが、治世と乱世が交互に訪れます。
堯の時代には、洪水が逆流し、中国全土を氾濫させていました。蛇や龍が住み着き、人々は住む場所を失いました。低地に住む者は木の上に巣を作り、高地に住む者は洞窟に身を寄せていました。『書経』にはこう記されています。『洪水が我々を警戒させる。』洪水とは大洪水のことです。堯は禹に治水を命じ、禹は地を掘り海へ水を流し込み、蛇や龍を追い払って湿地に閉じ込めました。水は地下を通り、江、淮、河、漢などの川となりました。險阻(険しい地形)が遠ざけられ、鳥や獣が人を害することがなくなり、人々は平地に住むことができるようになりました。
堯と舜が没すると、聖人の道は衰退しました。暴君が現れ、宮殿を壊して池を作り、人々が安息できなくなりました。田を捨てて庭園を作り、民は衣食に困りました。邪説と暴行がはびこり、庭園や池、沼地が増えると禽獣が溢れ、紂王の時代には天下が再び大混乱に陥りました。
周公は武王を補佐し、紂王を討伐し、奄を征伐しました。三年間にわたってその君主を討ち、飛廉を海の隅へ追いやり処刑しました。五十の国を滅ぼし、虎、豹、犀、象を遠ざけ、天下の民は大いに喜びました。『書経』にはこう記されています。『文王の計略は非常に素晴らしく、武王の偉業は輝かしい。我々の後世に正義を完全に保つための助けとなる。』
時代が衰退し、道が失われると、邪説や暴行が再び現れ、臣下が君主を殺し、子が父を殺すという事態が起こりました。孔子はこれを恐れて『春秋』を編纂しました。『春秋』は天子の職務について述べたものです。このため孔子はこう言いました。『私を理解してくれる者は「春秋」だろう。私を非難する者もまた「春秋」だろう。』
聖王が現れず、諸侯が放縦し、隠者が横暴な意見を述べるようになり、楊朱や墨翟の思想が天下を席巻しました。天下の議論は、楊氏の思想に帰するか、墨氏の思想に帰するかのどちらかです。楊氏の『私利を求める』は君主を否定するものであり、墨氏の『兼愛』は父を否定するものです。君主も父も否定するのは、禽獣と同じです。
公明儀は言いました。『台所には肥えた肉があり、厩には肥えた馬がいる。それに対して民は飢え、野には餓死者がいる。これは禽獣を率いて人を食らうようなものだ。』楊朱と墨翟の道が絶えず、孔子の道が広まらないなら、邪説が民を欺き、仁義を覆い隠してしまいます。仁義が失われると、人は禽獣のようになり、互いを食らい合うようになるでしょう。
私はこれを恐れ、先聖の道を守り、楊朱と墨翟の思想を退け、淫らな言葉を排除し、邪説が生まれないようにしているのです。邪説が人の心に生まれれば、その行動を害し、行動が害されれば政治を害します。聖人が再び現れたとしても、私の言葉は変わることがないでしょう。
昔、禹は洪水を治めて天下を平穏にし、周公は異民族を制圧し、猛獣を追い払い、百姓を安らげ、孔子は『春秋』を完成させて乱臣や逆子を恐れさせました。『詩経』にはこうあります。『戎狄を討ち、荊舒を懲らしめよ。そうすれば誰も私に逆らえない。』父や君主を否定する者こそ周公が討つべき対象です。
私もまた、人心を正し、邪説を絶ち、不正行為を退け、淫らな言葉を排除し、三聖(禹、周公、孔子)の道を引き継ぎたいのです。それでどうして議論を好むと言えるでしょうか?私はやむを得ず行っているのです。楊朱や墨翟の思想を退けることができる者こそ、聖人の徒なのです。」
匡章曰:「陳仲子豈不誠廉士哉?居於於陵,三日不食,耳無聞,目無見也。井上有李,螬食實者過半矣,匍匐往將食之,三咽,然後耳有聞、目有見。」孟子曰:「於齊國之士,吾必以仲子爲巨擘焉。雖然,仲子惡能廉?充仲子之操,則蚓而後可者也。夫螾上食槁壤,下飮黃泉。仲子所居之室,伯夷之所筑與?抑亦盜跖之所筑與?所食之粟,伯夷之所樹與?抑亦盜跖之所樹與?是未可知也。」曰:「是何傷哉?彼身織屨、妻辟纑,以易之也。」曰:「仲子,齊之世家也。兄戴,蓋祿萬鍾。以兄之祿爲不義之祿而不食也,以兄之室爲不義之室而不居也,避兄、離母,處於於陵。他日歸,則有饋其兄生鵝者,己頻戚曰:『惡用是鶃鶃者爲哉?』他日其母殺是鵝也,與之食之。其兄自外至,曰:『是鶃鶃之肉也。』出而哇之。以母則不食,以妻則食之;以兄之室則弗居,以於陵則居之。是尚爲能充其類也乎?若仲子者,螾而後充其操者也。」
匡章曰く、陳仲子は、豈に誠の廉士ならずや。於陵に居る、三日食はず。耳聞くなく、目見るなきなり。井上に李あり、螬の實を食ふ者半に過ぐ。匍匐して往きて將に之を食はんとす。三咽して、然る後耳聞くあり、目見るあり。孟子曰く、齊國の士に於て、吾必ず仲子を以て巨擘と爲さん。然りと雖も仲子惡ぞ能く廉ならん。仲子の操を充てば、則ち蚓にして而る後に可なる者なり。夫れ蚓は上槁壤を食ひ、下黃泉を飮む。仲子の居る所の室は、伯夷の筑く所か、抑も亦盜跖の筑く所か、食ふ所の粟は、伯夷の樹うる所か、抑も亦盜跖の樹うる所か、是れ未だ知る可からざるなり。曰く、是れ何ぞ傷まんや。彼れ身は屨を織り、妻は辟纑して以て之れに易ふるなり。曰く、仲子は齊の世家なり。兄戴が蓋の祿萬鍾、兄の祿を以て不義の祿と爲して食はざるなり。兄の室を以て不義の室と爲して居らざるなり,兄を避け母を離れ、於陵に處る。他日歸れば、則ち其兄に生鵝を饋る者あり。己頻戚して曰く、惡ぞ是鶃鶃の者を用つて爲んやと。他日其母是の鵝を殺す。之に與へて之れを食はしむ。其兄外より至りて曰く、是れ鶃鶃の肉なりと。出でて之れを哇く。母を以てすれば則ち食はず、妻を以てすれば則ち之れを食ふ。兄の室を以てすれば則ち居らず、於陵を以てすれば則ち之れに居る。是れ尚ほ能く其類を充つと爲すか。仲子の若き者は、蚓にして而る後に其操を充つる者なり。
匡章が言った。
「陳仲子は、まさに清廉な士ではないでしょうか?彼は陵という場所に住み、三日間食事をとらなかったため、耳は音を聞かず、目は何も見えなくなっていました。井戸の上に李があり、その実の半分以上が蠹に食われていました。彼は這いつくばって行き、それを食べ、三口飲み込んだ後にようやく耳が音を聞き、目が見えるようになりました。」
孟子は答えた。
「斉の士の中で、私は確かに仲子を優れた人物とみなしています。しかし、それでもなお仲子がどうして本当に清廉であると言えるでしょうか?もし仲子が本当にその操を全うするのであれば、蚓のようにならなければなりません。蚓は上では枯れた土を食べ、下では黄泉の水を飲むのです。
仲子が住んでいる家は伯夷が建てたものでしょうか?それとも盗跖が建てたものでしょうか?彼が食べている粟は伯夷が育てたものでしょうか?それとも盗跖が育てたものでしょうか?そのことは誰にもわかりません。」
匡章が言った。
「それが何か問題でしょうか?彼自身は履物を編み、妻は麻を紡ぎ、それらを交換して生活しているのです。」
孟子は答えた。
「仲子は斉の名門の出身です。彼の兄である戴は、おそらく俸禄が万鍾(多額)に達しているでしょう。仲子は兄の俸禄を不義のものであるとして受け取らず、兄の家を不義の家であるとして住まず、兄を避け母と離れて陵に住みました。しかしある日、兄が生きたガチョウを送ってきたとき、仲子は顔をしかめて言いました。『こんなガーガー鳴く鳥は何に使うのか?』
また別の日、彼の母がそのガチョウを殺して料理し、仲子に食べさせました。すると、兄が外から帰ってきて言いました。『それはあのガーガー鳴いていたガチョウの肉だ。』仲子はその場で吐き出してしまいました。しかし、母が出したものなら食べ、妻が用意したものも食べるのに、兄の家に住むことはせず、陵には住むのです。
これが果たして、その操を完全に守り通したと言えるでしょうか?もし仲子のような者が操を全うするのであれば、それは蚓のようであって初めて可能なことです。」
孟子曰:「離婁之明,公輸子之巧,不以規矩,不能成方員。師曠之聰,不以六律,不能正五音。堯舜之道,不以仁政,不能平治天下。今有仁心仁聞而民不被其澤,不可法於後世者,不行先王之道也。故曰:徒善不足以爲政,徒法不能以自行。《詩》云:『不愆不忘,率由舊章。』遵先王之法而過者,未之有也。聖人既竭目力焉,繼之以規矩準繩,以爲方員平直,不可勝用也。既竭耳力焉,繼之以六律正五音,不可勝用也。既竭心思焉,繼之以不忍人之政而仁覆天下矣。故曰:爲高必因丘陵,爲下必因川澤。爲政不因先王之道,可謂智乎?是以惟仁者宜在高位。不仁而在高位,是播其惡於衆也。上無道揆也,下無法守也;朝不信道,工不信度;君子犯義,小人犯刑,國之所存者幸也。故曰:城郭不完,兵甲不多,非國之災也。田野不辟,貨財不聚,非國之害也。上無禮,下無學,賊民興,喪無日矣。《詩》曰:『天之方蹶,無然泄泄。』泄泄猶沓沓也。事君無義,進退無禮,言則非先王之道者,猶沓沓也。故曰:責難於君謂之恭,陳善閉邪謂之敬,吾君不能謂之賊。」
孟子曰く、離婁の明、公輸子の巧も、規矩を以てせざれば、方員を成す能はず。師曠の聰も、六律を以てせざれば、五音を正す能はず。堯舜の道も、仁政を以てせざれば、天下を平治する能はず。今仁心仁聞ありて、而して民其の澤を被らず、後世に法とすべからざる者は、先王の道を行はざればなり。故に曰く、徒善は以て政を爲すに足らず、徒法は以て自ら行ふ能はず。詩に云ふ、愆らず忘れず、舊章に率由すと。先王の法に遵ひ而して過つ者は未だ之れ有らざるなり。聖人既に目力を竭し、之れに繼ぐに規矩準繩を以てす。以て方員平直を爲る。用ふるに勝ふべからざるなり。既に耳力を竭し、之れに繼ぐに六律を以てし、五音を正す。用ふるに勝ふべからざるなり。既に心思を竭し、之に繼ぐに人に忍びざるの政を以てす。而して仁天下を覆ふ。故に曰く、高を爲さば必ず丘陵に因る。下を爲さば必ず川澤に因る。政を爲して先王の道に因らざれば、智と謂ふ可けんや。是を以て惟仁者は、宜しく高位に在るべし。不仁にして高位に在るは、是れ其惡を衆に播するなり。上道揆なきなり、下法守なきなり。朝は道を信ぜず、工は度を信ぜず、君子義を犯し、小人刑を犯し、國の存する所の者は幸なり。故に曰く、城郭完からず、兵甲多からざるは、國の災に非ざるなり。田野辟けず、貨財聚らざるは、國の害に非ざるなり。上禮なく下學なければ、賊民興り、喪ぶること日なけん。詩に曰ふ、天の方に蹶く、然く泄泄する無かれと。泄泄は猶ほ沓沓のごときなり。君に事へて義なく、進退禮なく、言へば則ち先王の道を非る者は、猶ほ沓沓のごときなり。故に曰く、難きを君に責むる、之れを恭と謂ふ。善を陳べ邪を閉づる、之れを敬と謂ふ。吾君能はずと、之れを賊と謂ふ。
「離婁の視力がいかに優れていても、公輸子の技術がいかに巧みであっても、規矩(きく、コンパスや定規)を用いなければ、正しい円や四角を作ることはできません。師曠の聴力がいかに優れていても、六律(音律)を用いなければ、五音を正しく調整することはできません。同様に、堯や舜の道も、仁政を用いなければ天下を平和に治めることはできません。
もし仁の心や仁の名声を持ちながらも、その恩恵が民に及ばず、後世の模範とならないのであれば、それは先王の道を実行しなかったからです。
だからこそ、『ただ善意だけでは政治を行うことはできず、ただ法だけでも自らを保つことはできない』と言うのです。『詩経』にはこうあります。『過失もなく、忘れもしない。旧来の規範に従うのみ。』先王の法を守りながら過ちを犯した例はこれまでありません。
聖人はその視力の限りを尽くし、それを規矩や準繩(じゅんじょう、測定具)で補い、正しい円や四角、平直を作り、それらを尽くし切れないほど多用しました。また、聴力の限りを尽くし、それを六律で補い、五音を正しく調整し、それらを尽くし切れないほど多用しました。そして心の思慮の限りを尽くし、それを不忍人の政(他者を憐れむ心から生じる政治)で補い、仁が天下を覆うようにしました。
だからこそ、『高い所を作るには丘陵を利用し、低い所を作るには川や沼を利用する』と言われます。政治を行うのに先王の道を利用しないで、それが賢いと言えるでしょうか?
このため、仁者こそ高位にあるべきなのです。不仁な者が高位にあるのは、その悪徳を民衆に広めるようなものです。上に道を測る基準がなく、下に法を守る規範がなく、朝廷が道を信じず、職人が寸法を信じない。君子は義を犯し、小人は刑罰を犯す。国が存続するのは幸運としか言いようがありません。
だからこそ、『城郭が整っていないことや、兵器が十分でないことは、国家の災いではない。田畑が耕されず、財貨が蓄えられていないことも、国家の害ではない。』上に礼がなく、下に学びがなければ、民を害する者が生まれ、国家の滅亡は目前です。
『詩経』にはこうあります。『天が傾きかけている。これ以上、だらだらしてはならない。』だらだらとは、怠慢で秩序のない様を指します。君主に仕える際に義がなく、進退に礼がなく、発言が先王の道に背く者は、このだらだらとした怠慢な者に他なりません。
だからこそ、『君主に難を問うことを敬意と言い、善を説き邪を閉じることを敬と言い、我が君主ができないことを指摘するのを害と言う』のです。」
孟子曰:「規矩,方員之至也。聖人,人倫之至也。欲爲君,盡君道;欲爲臣,盡臣道,二者皆法堯舜而已矣。不以舜之所以事堯事君,不敬其君者也;不以堯之所以治民治民,賊其民者也。孔子曰:『道二,仁與不仁而已矣。』暴其民甚,則身弒國亡,不甚,則身危國削,名之曰『幽』、『厲』,雖孝子慈孫,百世不能改也。《詩》云:『殷鑒不遠,在夏后之世。』此之謂也。」
孟子曰く、規矩は方員の至なり。聖人は人倫の至なり。君たらんと欲せば君の道を盡し、臣たらんと欲せば臣の道を盡す。二者皆堯舜に法るのみ。舜の堯に事ふる所以を以て君に事へざるは、其君を敬せざる者なり。堯の民を治むる所以を以て民を治めざるは、其民を賊する者なり。孔子曰く、道二つ、仁と不仁とのみ。其民を暴する甚しければ、則ち身弒せられ國亡ぶ。甚しからざれば則ち身危く國削らる。之れを名づけて幽厲と曰ふ。孝子慈孫と雖も、百世改むる能はざるなり。詩に云ふ、殷鑒遠からず、夏后の世に在りと。此れ之れの謂ひなり。
孟子が言った。
「規矩(コンパスと定規)は正しい円や四角を作るための極致の道具であり、聖人は人倫(人としての正しい道)の極致の存在です。君主であるなら君主の道を尽くし、臣下であるなら臣下の道を尽くすべきです。この二つの道はいずれも堯や舜を手本とするだけです。
もし舜が堯に仕えた方法で君主に仕えないのであれば、それは君主を敬っていないことになります。また、堯が民を治めた方法で民を治めないのであれば、それは民を害していることになります。
孔子は言いました。『道は二つに分けられる。仁(正しい道)と不仁(不正な道)だけである。』もし君主が民をひどく苦しめれば、自ら命を奪われ、国を滅ぼすことになります。苦しめる度合いがひどくなければ、自らの身は危機にさらされ、国の力が削がれることになるでしょう。そのような君主は『幽王(ゆうおう)』や『厲王(れいおう)』と名付けられます。たとえその子孫がどれほど孝行で慈悲深くとも、百世の後までもその汚名を改めることはできません。
『詩経』にはこう記されています。『殷鑒遠からず、夏后の世に在り(殷の失敗は遠い過去の話ではない。それは夏王朝の時代にすでに現れていたのだ。)』これがそのことを意味しています。」
孟子曰:「三代之得天下也以仁,其失天下也以不仁。國之所以廢興存亡者亦然。天子不仁,不保四海;諸侯不仁,不保社稷;卿大夫不仁,不保宗廟;士庶人不仁,不保四體。今惡死亡而樂不仁,是由惡醉而强酒。」
孟子曰く、三代の天下を得るや仁を以てす。其の天下を失ふや不仁を以てす。國の廢興存亡する所以の者も亦然り。天子不仁なれば、四海を保たず。諸侯不仁なれば、社稷を保たず。卿大夫不仁なれば、宗廟を保たず。士庶人不仁なれば、四體を保たず。今死亡を惡んで、而して不仁を樂むは、是れ由ほ醉へるを惡んで酒を强ふるがごとし。
「夏、殷、周の三代が天下を得たのは仁によるものであり、天下を失ったのは不仁によるものでした。国が興るか滅ぶか、存続するか廃れるかもまた同じです。
天子が不仁であれば、四海を保つことはできません。諸侯が不仁であれば、社稷を保つことはできません。卿や大夫が不仁であれば、宗廟を保つことはできません。士や庶人が不仁であれば、自分の四肢を守ることさえできません。
今、不仁を楽しみながら死を嫌がるのは、ちょうど酔うことを嫌いながら強いて酒を飲むようなものです。」
孟子曰:「愛人不親,反其仁;治人不治,反其智;禮人不答,反其敬。行有不得者,皆反求諸己。其身正而天下歸之。《詩》云:『永言配命,自求多福。』」
孟子曰く、人を愛して親まずんば、其の仁に反れ。人を治めて治まらずんば其の智に反れ。人を禮して答へずんば其の敬に反れ。行うて得ざる者有れば、皆諸れを己に反求す。其身正しうして而して天下之れに歸す。詩に云ふ、永く言命に配し、自ら多福を求む。
孟子が言った。
「他人を愛しても親しみを得られない場合は、自らの仁を反省すべきです。他人を治めようとして治まらない場合は、自らの智を反省すべきです。他人に礼を尽くしても返礼がない場合は、自らの敬を反省すべきです。行動が思うようにいかないときは、すべて自分に原因を求めるべきです。自分の身を正せば、天下の人々は自然と従います。
『詩経』にはこうあります。『永く命と調和し、多くの福を自ら求める。』」
孟子曰:「人有恆言,皆曰『天下國家』,天下之本在國,國之本在家,家之本在身。」
孟子曰く、人恆言あり、皆曰く、天下國家と、天下の本は國に在り。國の本は家に在り、家の本は身に在り。
孟子が言った。
「人々は常に『天下、国家』と口にします。天下の基盤は国家にあり、国家の基盤は家庭にあり、家庭の基盤は一人ひとりの身にあります。」
孟子曰:「爲政不難,不得罪於巨室。巨室之所慕,一國慕之;一國之所慕,天下慕之。故沛然德敎,溢乎四海。」
孟子曰く、政を爲すこと難からず。罪を巨室に得ざれ。巨室の慕ふ所は、一國之を慕ひ、一國の慕ふ所は、天下之を慕ふ。故に沛然として德敎四海に溢る。
孟子が言った。
「政治を行うのは難しいことではありません。ただ、巨室(影響力のある有力者)に嫌われなければよいのです。巨室が慕うものを一国が慕い、一国が慕うものを天下が慕います。したがって、その徳や教えは四海(天下全土)に自然と広がるのです。」
孟子曰:「天下有道,小德役大德,小賢役大賢。天下無道,小役大,弱役强,斯二者,天也。順天者存,逆天者亡。齊景公曰:『既不能令,又不受命,是絕物也。』涕出而女於吳。今也小國師大國,而恥受命焉,是猶弟子而恥受命於先師也。如恥之,莫若師文王,師文王,大國五年,小國七年,必爲政於天下矣。《詩》云:『商之孫子,其麗不億。上帝既命,侯于周服。侯服于周,天命靡常。殷士膚敏,祼將于京。』孔子曰:『仁不可爲衆也夫!國君好仁,天下無敵。』今也欲無敵於天下,而不以仁,是猶執熱而不以濯也。《詩》云:『誰能執熱,逝不以濯?』」
孟子曰く、天下道あれば、小德、大德に役せられ、小賢、大賢に役せられ、天下道無ければ、小大に役せられ、弱强に役せらる。斯の二者は天なり。天に順ふ者は存し、天に逆ふ者は亡ぶ。齊の景公曰く、既に令する能はず、又命を受けざれば、是れ物を絕つなりとて、涕出でて而して吳に女したり。今や、小國は大國を師として、而して命を受くるを恥づ。是れ猶ほ弟子にして命を先師に受くるを恥づるがごとし。如し之れを恥ぢば文王を師とするに若くは莫し,文王を師とすれば、大國は五年、小國は七年、必ず政を天下に爲さん。詩に云ふ、商の孫子、其の麗億のみならず。上帝既に命じ、侯れ周に于て服せしめ、侯れ周に于て服せしむ。天命は常靡し、殷士膚敏なるも、京に祼將すと。孔子曰く、仁には衆を爲すべからず。夫れ國君仁を好めば、天下に敵なし。今や天下に敵なからんと欲し、而して仁を以てせず、是れ猶ほ熱を執りて以て濯せざるがごとし。詩に云ふ、誰れか熱を執り、逝に以て濯せざらん。
孟子が言った。
「天下に道があるときには、小さな徳が大きな徳に仕え、小さな賢者が大きな賢者に仕えます。しかし、天下に道がないときには、小が大に仕え、弱が強に仕えるのです。この二つは天の摂理です。天に従う者は存続し、天に逆らう者は滅びます。
斉の景公はこう言いました。『自分が命令を出すこともできず、また命令を受けることもしない。それではすべての者との関係を断つことになる。』彼は涙を流しながら呉に娘を嫁がせました。
今、小国が大国に師事しながら、その命令を受けることを恥とするのは、ちょうど弟子が師匠から教えを受けることを恥じるようなものです。それを恥じるなら、文王を師とすべきです。文王を師とするならば、大国なら五年、小国なら七年で、天下を治める政治を行うことができるでしょう。
『詩経』にはこうあります。
『商の子孫、その繁栄は計り知れない。
上帝(天帝)がすでに命じ、周を頼りとするようにした。
諸侯が周を服従するのは、天命が変わるからだ。
殷の士は敏感であり、京師で潔斎の儀式を行った。』
孔子は言いました。『仁は大衆が一斉に行うものではない。しかし、国君が仁を好むならば、天下に敵はなくなる。』
今、天下に敵なしとなることを望みながら、仁を用いないのは、熱いものを持ちながら水で冷やそうとしないようなものです。
『詩経』にはこうあります。
『誰が熱いものを持ち続けることができるか?水で冷やさずにいられる者はいない。』」
孟子曰:「不仁者,可與言哉?安其危而利其葘,樂其所以亡者。不仁而可與言,則何亡國敗家之有?有孺子歌曰:『滄浪之水淸兮,可以濯我纓;滄浪之水濁兮,可以濯我足。』孔子曰:『小子聽之!淸斯濯纓,濁斯濯足矣,自取之也。』夫人必自侮,然後人侮之;家必自毀,而後人毀之;國必自伐,而後人伐之。《太甲》曰:『天作孽,猶可違;自作孽,不可活』,此之謂也。」
孟子曰く、不仁者は與に言ふ可けんや。其の危きを安しとし、其葘を利とし、其の亡ぶる所以の者を樂む。不仁にして與に言ふ可くんば、則ち何ぞ國を亡し家を敗る之れ有らん。孺子あり、歌うて曰く、滄浪の水、淸まば、以て我が纓を濯ふべし、滄浪の水、濁らば、以て我が足を濯ふ可しと。孔子曰く、小子之れを聽け、淸まば斯に纓を濯ひ、濁らば斯に足を濯ふ、自ら之れを取るなり。』夫れ人必ず自ら侮りて、然る後人之れを侮る。家必ず自ら毀ちて、而して後人之れを毀つ。國必ず自ら伐ちて、而る後人之れを伐つ。太甲に曰く、天の作せる孽は猶ほ違く可し、自ら作せる孽は活くべからずと。此れ之れの謂ひなり。
孟子が言った:
「不仁の者と語ることができるでしょうか?彼らは危機を安らぎとし、災いを利益とし、滅亡する原因を楽しんでいます。不仁の者と語ることができるならば、どうして国を亡ぼし、家を滅ぼすようなことが起こるでしょうか?
一つの童謡があります。こう歌っています。
『滄浪(そうろう、川の名)の水が清ければ、私の冠の紐を洗い、
滄浪の水が濁っていれば、私の足を洗おう。』
孔子は言いました。
『皆の者、これを聞きなさい!清らかであれば冠の紐を洗い、濁っていれば足を洗う。これは自ら選ぶことだ。』
人は必ず自らを侮辱した後で、他人に侮辱されるものです。家は必ず自らを壊した後で、他人に壊されるものです。国は必ず自らを攻撃した後で、他人に攻撃されるものです。
『太甲』にはこう記されています。
『天がもたらした災いであれば、避けることができるが、自らが招いた災いは逃れることができない。』
これがそのことを意味しているのです。」
孟子曰:「桀紂之失天下也,失其民也。失其民者,失其心也。得天下有道:得其民斯得天下矣。得其民有道,得其心斯得民矣。得其心有道:所欲,與之聚之;所惡,勿施爾也。民之歸仁也,猶水之就下,獸之走壙也。故爲淵驅魚者,獺也;爲叢驅爵者,鹯也;爲湯、武驅民者,桀與紂也。今天下之君有好仁者,則諸侯皆爲之驅矣;雖欲無王,不可得已。今之欲王者,猶七年之病求三年之艾也。茍爲不畜,終身不得。茍不志於仁,終身憂辱,以陷於死亡。《詩》云:『其何能淑?載胥及溺』,此之謂也。」
孟子曰く、桀紂の天下を失ふや、其民を失ふなり。其民を失ふとは、其心を失ふなり。天下を得るに道あり。其民を得れば斯に天下を得、其民を得るに道あり。其心を得れば斯に民を得。其心を得るに道あり。欲する所は之れを與へて之れを聚め、惡む所を施す勿きのみ。民の仁に歸する、猶水の下に就き、獸の壙に走るがごとし。故に淵の爲めに魚を驅る者は獺なり、叢の爲めに爵を驅る者は鹯なり、湯武の爲めに民を驅る者は桀と紂となり。今天下の君、仁を好む者あらば、則ち諸侯皆之れが爲めに驅らん。王たるなきを欲すと雖も、得るべからざるのみ。今の王たらんと欲する者は、猶ほ七年の病に三年の艾を求むるがごとし。茍も畜へざるをなさば、終身得ず。茍も仁に志さずんば、終身憂辱して以て死亡に陷らん。詩に云ふ、其れ何ぞ能く淑からん。載ち胥及に溺ると。此れ之れの謂ひなり。
孟子が言った。
「桀王や紂王が天下を失ったのは、民を失ったからであり、民を失ったのは、その心を失ったからです。天下を得るには道があります。それは民を得ることです。民を得れば天下を得られます。そして民を得るには道があります。それはその心を得ることです。心を得れば民を得られます。心を得るには道があります。それは、民が望むものを与え、民が嫌うことをしないことです。
民が仁を慕うのは、水が低きに流れ、獣が空き地に走るようなものです。深淵で魚を追い払うのは獺であり、叢林で雀を追い払うのは鸇です。同じように、湯王や武王が民を招き寄せたのは、桀や紂が民を追い払ったからです。
もし今、天下の君主が仁を好むのであれば、諸侯はみなその君主のために民を招き寄せるでしょう。そのようになれば、たとえ王道を目指さなくても、自然と王になることを避けられません。
今、王道を目指す者がいるとすれば、それは七年病んだ者が三年ものの艾を求めるようなものです。もしその艾を備えていなければ、一生得ることはできません。同様に、仁を志さなければ、一生憂いと辱めを受け、ついには死に陥るのです。
『詩経』にはこうあります。
『どうして善くすることができようか、皆溺れてしまう。』
これがそのことを意味しています。」
孟子曰:「自暴者,不可與有言也;自棄者,不可與有爲也。言非禮義,謂之自暴也;吾身不能居仁由義,謂之自棄也。」「仁,人之安宅也;義,人之正路也。曠安宅而弗居,舍正路而不由,哀哉!」
孟子曰く、自ら暴する者は、與に言ふある可からざるなり。自ら棄つる者は、與に爲す有るべからざるなり。言禮義に非ざる、之れを自暴と謂ふ。吾が身は仁に居り義に由る能はざる、之れを自棄と謂ふ。仁は人の安宅なり。義は人の正路なり。安宅を曠しくして居らず。正路を舍てて由らず、哀しいかな。
孟子が言った。
「自らを卑しめる者とは、語り合うことはできません。自らを捨てる者とは、共に事を成すことはできません。礼や義に背く言動をする者を、自らを卑しめる者と呼びます。また、仁に従い義を実践することができない者を、自らを捨てる者と呼びます。
仁は人の安住の場であり、義は人の正しい道です。その安住の場を空けて住まず、正しい道を放棄して通らないのは、なんと悲しいことか!」
孟子曰:「道在邇,而求諸遠;事在易,而求諸難。人人親其親、長其長,而天下平。」
孟子曰く、道は邇きに在り。而して諸を遠きに求む。事は易きに在り、而して諸を難きに求む。人人其親を親み、其長を長とせば、天下平かなり。
孟子が言った。
「道はあなたの内にあるのに、それを遠くに求めようとし、事は易しいところにあるのに、それを難しいところに求めようとする。
人々がそれぞれの親を親しみ、それぞれの年長者を敬うならば、天下は平和になります。」
孟子曰:「居下位而不獲於上,民不可得而治也。獲於上有道,不信於友,弗獲於上矣。信於友有道,事親弗悅,弗信於友矣。悅親有道,反身不誠,不悅於親矣。誠身有道,不明乎善,不誠其身矣。是故誠者,天之道也。思誠者,人之道也。至誠而不動者,未之有也。不誠,未有能動者也。」
孟子曰く、下位に居りて上に獲られざれば、民得て治む可からざるなり。上に獲らるゝに道あり。友に信ぜられざれば上に獲られず、友に信ぜらるゝに道あり。親に事へて悅ばれざれば、友に信ぜられず。親に悅ばるゝに道あり。身に反して誠あらざれば、親に悅ばれず。身を誠にするに道あり。善に明ならざれば、其身に誠あらず。是の故に誠は天の道なり。誠にせんと思ふは人の道なり。至誠にして動かされざる者は、未だ之れ有らざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者は有らざるなり。
孟子が言った。
「下位にいる者が上位の者から信任を得られない場合、民を治めることはできません。上位から信任を得るには道があります。それは友人から信頼されることがなければ、上位から信任を得られないということです。友人から信頼されるには道があります。それは親を喜ばせることができなければ、友人から信頼されないということです。親を喜ばせるには道があります。それは自分自身を省みて誠実でなければ、親を喜ばせることはできないということです。自分自身を誠実にするには道があります。それは善を明らかにしなければ、自分を誠実にすることはできないということです。
したがって、誠実であることは天の道であり、誠実であろうと努めることは人の道です。至誠を尽くして動かない者はこれまでいません。また、誠実でなければ動かすことができた者もいません。」
孟子曰:「伯夷辟紂,居北海之濱,聞文王作興,曰:『盍歸乎來!吾聞西伯善養老者。』太公辟紂,居東海之濱,聞文王作興,曰:『盍歸乎來!吾聞西伯善養老者。』二老者,天下之大老也而歸之,是天下之父歸之也。天下之父歸之,其子焉往?諸侯有行文王之政者,七年之內,必爲政於天下矣。」
孟子曰く、伯夷は紂を辟け、北海の濱に居る。文王作興すと聞き、曰く、盍ぞ歸せざる。吾聞く、西伯は善く老を養ふ者と。太公紂を辟け、東海の濱に居る。文王作興すと聞く、曰く、盍ぞ歸せざる。吾聞く、西伯は善く老を養ふ者と。二老は天下の大老なり。而して之れに歸す。是れ天下の父之れに歸するなり。天下の父之れに歸せば、其子焉くに往かん。諸侯、文王の政を行ふ者あらば、七年の內、必ず政を天下に爲さん。
孟子が言った。
「伯夷は紂王を避けて北海のほとりに住み、文王が興ったと聞いて立ち上がり言いました。『どうして帰らないのか?私は西伯(文王)が老人を善く養うと聞いている。』
太公(たいこう)は紂王を避けて東海のほとりに住み、文王が興ったと聞いて立ち上がり言いました。『どうして帰らないのか?私は西伯が老人を善く養うと聞いている。』
この二人の老人は天下の大長老であり、彼らが文王に帰したということは、天下の父が文王に帰したということです。天下の父が文王に帰するならば、その子たちはどこへ行くでしょうか?諸侯の中で文王の政治を行う者がいれば、七年以内に必ず天下を治める政治を行うことができるでしょう。」
孟子曰:「求也,爲季氏宰,無能改於其德,而賦粟倍他日。孔子曰:『求非我徒也,小子鳴鼓而攻之,可也。』由此觀之,君不行仁政而富之,皆棄於孔子者也,況於爲之强戰?爭地以戰,殺人盈野;爭城以戰,殺人盈城,此所謂率土地而食人肉,罪不容於死。故善戰者服上刑,連諸侯者次之,辟草萊、任土地者次之。」
孟子曰く、求は季氏の宰となり、能く其德を改むるなく、而して粟を賦する他日に倍す。孔子曰く、求は我が徒に非ざるなり。小子鼓を鳴らして之れを攻めて可なり。此れに由りて之れを觀れば、君仁政を行はずして、之れを富すは、皆孔子に棄てらるゝ者なり。況や之れが爲めに强戰し、地を爭ひて以て戰ひ、人を殺して野に盈ち、城を爭ひて以て戰ひ、人を殺して城に盈つるに於てをや、此れ所謂土地を率ゐて人肉を食まするなり。罪死に容れず。故に善く戰ふ者は上刑に服せしむ。諸侯を連ぬる者は之れに次ぐ。草萊を辟き土地に任ずる者は之に次ぐ。
孟子が言った。
「冉求は季氏の宰(執政者)となりましたが、その徳を改めることはできず、粟(穀物)の賦税を以前の倍にしました。孔子は言いました。『冉求は私の弟子ではない。皆で太鼓を鳴らし、彼を非難してもよい。』
これを見ると、君主が仁政を行わず、その上で富を与える者は、すべて孔子が捨てた者たちです。ましてや、それに強制的な戦争を加えることに至っては言うまでもありません。土地を争って戦えば、人を殺してその死体が野に満ちます。城を争って戦えば、人を殺してその死体が城に満ちます。
これはいわゆる、土地を率いて人肉を食らう行為であり、死刑に値しても償いきれない罪です。したがって、戦争に巧みな者は最も重い刑罰を受け、諸侯を結びつける者は次に重い刑罰を受け、荒れ地を開墾して土地を活用する者がその次に軽い刑罰を受けるべきです。」
孟子曰:「存乎人者,莫良於眸子,眸子不能掩其惡。胸中正,則眸子瞭焉;胸中不正,則眸子眊焉。聽其言也,觀其眸子,人焉瘦哉?」
孟子曰く、人に存する者は、眸子より良きは莫し。眸子は其惡を掩ふ能はず。胸中正しければ、則ち眸子瞭なり。胸中正しからざれば、則ち眸子眊し。其言を聽き、其の眸子を觀れば、人焉んぞ瘦さんや。
孟子が言った。
「人間に備わるものの中で、目ほど優れたものはありません。目はその人の悪を隠すことができません。胸中が正しければ、目は輝きます。胸中が正しくなければ、目は曇ります。その言葉を聞き、その目を観察すれば、人が自分を隠すことはできないのです。」
孟子曰:「恭者不侮人,儉者不奪人。侮奪人之君,惟恐不順焉,惡得爲恭儉?恭儉豈可以聲音笑貌爲哉?」
孟子曰く、恭者は人を侮らず。儉者は人より奪はず。人を侮奪するの君は、惟順はざるを恐る。惡んぞ恭儉を爲すを得ん。恭儉は豈に聲音笑貌を以て爲す可けんや。
孟子が言った。
「恭(敬意を持つ者)は他人を侮辱せず、倹(節約を重んじる者)は他人から奪わない。侮り奪う君主は、ただ民が自分に逆らわないようにと恐れているだけです。それがどうして恭倹と呼べるでしょうか?恭倹とは、声や笑顔だけで示せるものではありません。」
淳于髡曰:「男女授受不親,禮與?」孟子曰:「禮也。」曰:「嫂溺則援之以手乎?」曰:「嫂溺不援,是豺狼也。男女授受不親,禮也。嫂溺援之以手者,權也。」曰:「今天下溺矣,夫子之不援,何也?」曰:「天下溺,援之以道;嫂溺,援之以手。子欲手援天下乎?」
淳于髡曰く、男女授受するに親せざるは禮か。孟子曰く、禮なり。曰く、嫂溺るれば則ち之れを援くに手を以てせんか。曰く、嫂溺れて援かざるは是れ豺狼なり。男女授受するに親せざるは禮なり。嫂溺れ之れを援くに手を以てするは權なり。曰く、今天下溺る、夫子の援けざるは何ぞや。曰く、天下溺るれば之れを援くるに道を以てし、嫂溺るれば之れを援くに手を以てす。子手もて天下を援けんと欲するか。
淳于髡が尋ねた。
「男女が物を受け渡すときに直接触れ合わないのは、礼に適っていますか?」
孟子は答えた。
「礼です。」
淳于髡がさらに尋ねた。
「では、兄嫁が溺れている場合は、手を使って助けますか?」
孟子は答えた。
「兄嫁が溺れていて手を貸さないのは、豺狼(さいろう、冷酷非情な者)のようなものです。男女が触れ合わないのは礼であり、兄嫁を手で助けるのは権(状況に応じた判断)です。」
淳于髡が続けて尋ねた。
「今、天下が溺れています。先生がこれを助けようとしないのはなぜですか?」
孟子は答えた。
「天下が溺れている場合は道によって助けます。兄嫁が溺れている場合は手で助けます。あなたは天下を手で助けようと望んでいるのですか?」
公孫丑曰:「君子之不敎子,何也?」孟子曰:「勢不行也。敎者必以正;以正不行,繼之以怒;繼之以怒,則反夷矣。『夫子敎我以正;夫子未出於正也。』則是父子相夷也。父子相夷則惡矣。古者易子而敎之,父子之間不責善,責善則離,離則不祥莫大焉。」
公孫丑曰く、君子の子を敎へざるは何ぞや。孟子曰く、勢行はれざるなり。敎ふる者は必ず正を以てす。正を以てして行はれざれば、之れに繼ぐに怒を以てす。之れに繼ぐに怒を以てすれば、則ち反りて夷ふ。夫子我に敎ふるに正を以てす。夫子未だ正に出でざるなりと。則ち是れ父子相夷ふなり。父子相夷へば則ち惡し。古は子を易へて之れを敎ふ。父子の間は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば則ち不祥焉れより大なるは莫し。
公孫丑が尋ねた。
「君子が自分の子を直接教育しないのは、どうしてですか?」
孟子は答えた。
「それは立場上、うまくいかないからです。教育は正しさをもって行うべきです。しかし、正しさを示してもうまくいかなければ、怒りに変わります。怒りが続くと、親子関係が壊れてしまいます。子が言うでしょう。『父は私に正しさを教えるが、父自身が正しさを守っていない。』こうなると、父と子が互いに敵対することになります。
父と子が敵対することは、大変悪いことです。昔の人は子を交換して教育しました。父と子の間では善を責め合いません。善を責め合えば関係が離れ、離れればこれほど不幸なことはありません。」
孟子曰:「事孰爲大?事親爲大。守孰爲大?守身爲大。不失其身而能事其親者,吾聞之矣;失其身而能事其親者,吾未之聞也。孰不爲事?事親,事之本也。孰不爲守?守身,守之本也。曾子養曾晳,必有酒肉;將徹,必請所與;問有餘,必曰『有』。曾晳死,曾元養曾子,必有酒肉;將徹,不請所與;問有餘,曰『亡矣』,將以復進也,此所謂養口體者也。若曾子,則可謂養志也。事親若曾子者,可也。」
孟子曰く、事ふる孰れか大と爲す。親に事ふるを大と爲す。守る孰れか大と爲す。身を守るを大となす。其身を失はずして能く其親に事ふる者は、吾れ之れを聞けり。其身を失うて能く其親に事ふる者は、吾れ未だ之れを聞かざるなり。孰れか事ふると爲さざらん。親に事ふるは事ふるの本なり。孰れか守ると爲さざらん。身を守るは守るの本なり。曾子、曾晳を養ふに、必ず酒肉あり。將に徹せんとすれば必ず與ふる所を請ふ。餘ありやと問へば、必ず有りと曰ふ。曾晳死す。曾元曾子を養ふに必ず酒肉あり。將に徹せんとして與ふる所を請はず。餘り有りやと問へば、亡しと曰ふ。將に以て復た進めんとするなり。此れ所謂口體を養ふ者なり。曾子の若きは則ち志を養ふと謂ふべきなり。親に事ふること曾子の若きものは可なり。
孟子が言った。
「何事が最も重要か?親を仕えることが最も重要です。そして、何を守ることが最も重要か?自身を守ることが最も重要です。自分を損なうことなく親に仕えることができる者については、私は聞いたことがあります。しかし、自分を損ないながら親に仕えることができた者については、聞いたことがありません。
誰が仕えることをしないでしょうか?親に仕えることが、仕えることの根本です。誰が守ることをしないでしょうか?自身を守ることが、守ることの根本です。
曾子は父である曾皙を養う際、必ず酒と肉を用意しました。そして、献上するときには必ず誰に分け与えるかを尋ねました。余りがあるかを尋ねられると、曾子は『あります』と答えました。
曾皙が亡くなると、曾元が曾子を養いました。このときも、必ず酒と肉を用意しました。しかし、献上するときには誰に分け与えるかを尋ねることはなく、余りがあるかと尋ねられると『ありません』と答えました。これは再び進呈するためです。これがいわゆる「口と体を養う」だけの養いです。
曾子のような場合は、「志を養う」と言えます。親に仕えるのは、曾子のようにするのが良いのです。」
孟子曰:「人不足與適也,政不足與間也,惟大人爲能格君心之非。君仁莫不仁,君義莫不義,君正莫不正,一正君而國定矣。」
孟子曰く、人は與に適むるに足らざるなり。政は間するに足らざるなり。惟大人は能く君心の非を格すことを爲す。君仁なれば仁ならざること莫し。君義なれば義ならざること莫し。君正しければ正しからざる莫し。一たび君を正しくすれば國定まる。
孟子が言った。
「人は完全に同意することが難しく、政治も完全に無批判であることはありません。ただ、大人(徳のある人物)だけが君主の誤った心を正すことができます。君主が仁であれば、人々もみな仁となり、君主が義であれば、人々もみな義となり、君主が正しければ、人々もみな正しくなります。君主を正すことができれば、国は安定します。」
孟子曰:「有不虞之譽,有求全之毀。」
孟子曰く、虞らざるの譽あり。全きを求むるの毀あり。
孟子が言った。
「思いがけず称賛されることもあれば、完全さを求められて非難されることもある。」
孟子曰:「人易其言也,無責耳矣。」
孟子曰く、人の其の言を易くするは、責めなきのみ。
孟子が言った。
「人が軽々しく発言するのは、責任を問われないからである。」
孟子曰:「人之患,在好爲人師。」
孟子曰く、人の患は、好んで人の師と爲るに在り。
孟子が言った。
「人の過ちは、他人の師になりたがるところにある。」
樂正子從於子敖之齊。樂正子見孟子,孟子曰:「子亦來見我乎?」曰:「先生何爲出此言也?」曰:「子來幾日矣?」曰:「昔者。」曰:「昔者,則我出此言也,不亦宜乎?」曰:「舍館未定。」曰:「子聞之也;『舍館定,然後求見長者』乎?」曰:「克有罪。」
樂正子、子敖に從ひ齊に之く。樂正子、孟子を見る。孟子曰く、子も亦來りて我を見るか。曰く、先生何爲れぞ此言を出す。曰く、子の來ること幾日ぞ。曰く、昔者。曰く、昔者ならば則ち我此言を出す。亦宜ならずや。曰く、舍館未だ定まらず。曰く、子之れを聞けりや、舍館定まり、然る後長者を見るを求むるか。曰く、克罪有り。
樂正子が子敖と共に斉を訪れ、孟子を訪ねました。孟子は言いました。
「あなたも私に会いに来たのですか?」
樂正子は答えました。
「先生はどうしてそのようなことをおっしゃるのですか?」
孟子は言いました。
「あなたが来て何日になりますか?」
樂正子は答えました。
「昨日、一昨日です。」
孟子は言いました。
「昨日、一昨日ならば、私がそのように言うのも当然ではありませんか?」
樂正子は答えました。
「宿泊する場所がまだ決まっていませんでした。」
孟子は言いました。
「あなたはこう聞いたことがあるでしょう。宿泊場所が決まってから、長者を訪ねるべきですか?」
樂正子は答えました。
「私に過ちがあります。」
孟子謂樂正子曰:「子之從於子敖來,徒餔啜也。我不意子學古之道而以餔啜也。」
孟子、樂正子に謂ひて曰く、子の子敖に從ひて來るは、徒に餔啜するなり。我意はざりき、子古の道を學びて、而して以て餔啜せんとは。
孟子は樂正子に言いました。
「あなたが子敖に従ってここに来たのは、単に食事を得るための旅に過ぎません。私はあなたが古の道を学んでいると思っていましたが、ただ食事を得るためだったとは意外です。」
孟子曰:「不孝有三,無後爲大。舜不吿而娶,爲無後也,君子以爲猶吿也。」
孟子曰く、不孝に三あり。後なきを大と爲す。舜の吿げずして娶るは後なきが爲めなり。君子以て猶ほ吿ぐるがごとしと爲す。
孟子が言った。
「不孝には三つの種類がありますが、子孫を残さないことが最も大きな不孝です。舜は親に告げずに結婚しましたが、それは子孫を残すためであり、君子たちはこれを親に告げたのと同じと見なします。」
孟子曰:「仁之實,事親是也。義之實,從兄是也。智之實,知斯二者弗去是也。禮之實,節文斯二者是也。樂之實,樂斯二者,樂則生矣。生則惡可已也?惡可已,則不知足之蹈之、手之舞之。」
孟子曰く、仁の實は親に事ふる是れなり。義の實は兄に從ふ是なり。智の實は斯の二者を知りて去らざる是れなり。禮の實は斯の二者を節文する是れなり。樂の實は、斯の二者を樂む。樂めば則ち生ず。生ずれば則ち惡んぞ已むべけんや。惡んぞ已むべくんば、則ち足の之れを蹈み、手の之れを舞ふを知らざるなり。
孟子が言った。
「仁の本質は親に仕えることにあります。義の本質は兄に従うことにあります。智の本質は、この二つを知り、それを手放さないことにあります。礼の本質は、この二つを節度と形式で整えることにあります。楽(がく、音楽)の本質は、この二つを楽しむことにあります。楽しめば生き生きとしてきます。
生き生きとしてくれば、それをやめられるでしょうか?やめることができなければ、満足を知らず、自然と足を踏み鳴らし、手を振り上げて踊るようになるのです。」
孟子曰:「天下大悅而將歸己,視天下悅而歸己,猶草芥也,惟舜爲然。不得乎親,不可以爲人;不順乎親,不可以爲子。舜盡事親之道,而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化;瞽瞍厎豫而天下之爲父子者定。此之謂大孝。」
孟子曰く、天下大いに悅んで、而して將に己れに歸せんとす。天下悅んで己れに歸するを視ること、猶ほ草芥のごとし。惟舜を然りと爲す。親に得ざれば以て人と爲す可からず。親に順ならざれば、以て子と爲す可からず。舜は親に事ふるの道を盡して、而して瞽瞍豫を厎す。瞽瞍豫を厎して、而して天下化す。瞽瞍豫を厎して、而して天下の父子爲る者定まる。此れを之れ大孝と謂ふ。
孟子が言った。
「天下が大いに喜び、心を自分に向ける。それを見て天下が自分に従うのを、草芥(そうかい、取るに足りないもの)のように感じる。それが舜の在り方です。
親に認められなければ人としての資格はなく、親に従わなければ子としての資格はありません。舜は親に仕える道を尽くし、瞽瞍(こそう、舜の盲目の父)を満ち足りた心にさせました。瞽瞍が満ち足りた心になれば、天下がその影響を受けて感化されます。瞽瞍が満ち足りた心になれば、天下の父と子の関係も安定します。これこそが大孝(だいこう、大いなる孝行)と呼ばれるものです。」
孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」
孟子曰く、舜は諸馮に生れ、負夏に遷り、鳴條に卒す。東夷の人なり。文王は岐周に生れ、畢郢に卒す。西夷の人なり。地の相去る、千有餘里、世の相後るゝ千有餘歲、志を得て中國に行ふ。符節を合するが若し。先聖後聖其揆一なり。
孟子が言った。
「舜は諸馮に生まれ、負夏に移り住み、鳴条で亡くなりました。彼は東夷の人です。文王は岐周に生まれ、畢郢で亡くなりました。彼は西夷の人です。
舜と文王の生まれた土地は千里以上離れています。また、彼らの生きた時代も千年以上隔たっています。しかし、彼らが志を得て中華(中国)で行ったことは、まるで割り符がぴったりと合うようなものでした。先の聖人と後の聖人は、その基準が一貫しているのです。」
子產聽鄭國之政,以其乘輿濟人於溱、洧。孟子曰:「惠而不知爲政,歲十一月徒杠成,十二月輿梁成,民未病涉也。君子平其政,行辟人可也;焉得人人而濟之?故爲政者,每人而悅之,日亦不足矣。」
子產鄭國の政を聽き、其乘輿を以て、人を溱洧に濟す。孟子曰く、惠にして政を爲すを知らず。歲の十一月徒杠成り、十二月輿梁成る、民未だ涉るを病まざるなり。君子其政を平にせば、行きて人を辟けしむるも可なり。焉ぞ人人にして之れを濟すを得ん。故に政を爲す者は、人每に之れを悅ばさば、日も亦足らず。
子産は鄭国の政治を担当し、乗用車(高官の車)を使って溱洧という川で人々を渡らせました。これを聞いて孟子は言いました。
「それは人を助けているように見えますが、政治を理解しているとは言えません。
一一月には徒杠(とこう、簡易な橋)が完成し、一二月には車輌が通れる橋が完成するべきです。こうすれば、民は川を渡るのに困ることがありません。君子はその政を平らかにし、民が勝手に通れるよう道を整えるべきです。どうして一人一人を助ける必要があるでしょうか?
だからこそ、為政者はすべての人を直接助けようとしてはなりません。もしそのようなことをすれば、たとえ一日あっても時間が足りなくなります。」
孟子告齊宣王曰:「君之視臣如手足,則臣視君如腹心;君之視臣如犬馬,則臣視君如國人;君之視臣如土芥,則臣視君如寇讎。」王曰:「禮,爲舊君有服。何如斯可爲服矣?」曰:「諫行言聽,膏澤下於民;有故而去,則君使人導之出疆,又先於其所往;去三年不反,然後收其田里。此之謂三有禮焉。如此則爲之服矣。今也爲臣,諫則不行,言則不聽,膏澤不下於民;有故而去,則君搏執之,又極之於其所往;去之日,遂收其田里。此之謂寇讎。寇讎何服之有?」
孟子、齊の宣王に告げて曰く、君の臣を視ること、手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること國人の如し。君の臣を視ること土芥の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し。王曰く、禮に舊君の爲めに服ありと。何如なる斯に爲めに服すべきか。曰く、諫行はれ言聽かれ、膏澤民に下り、故ありて去れば、則ち君人をして之を導きて疆を出ださしめ、又其往く所に先ち、去りて三年にして反らざれば、然る後に其田里を收む。此を之れ三有禮と謂ふ。此の如くなれば則ち之れが爲めに服す。今や臣と爲り、諫むれば則ち行はれず、言へば則ち聽かれず、膏澤民に下らず、故ありて去れば、則ち君之れを搏執し、又之れを其の往く所に極し、去るの日、遂に其田里を收む。此を之れ寇讎と謂ふ。寇讎には何の服か之れあらん。
孟子は斉の宣王に言いました。
「君主が臣下を手足のように見れば、臣下は君主を腹心(心の中心)として仕えます。君主が臣下を犬馬のように見れば、臣下は君主を普通の国民のように扱います。君主が臣下を土や芥のように見れば、臣下は君主を敵や仇のように見なします。」
王が尋ねました。
「礼において、旧君(過去の主君)に服喪を行う場合、どのような条件があれば服喪を行うべきでしょうか?」
孟子は答えました。
「臣下が諫言して君主がそれを受け入れ、恩恵が民にまで及ぶようであれば、臣下が辞職する際には君主は人を派遣して国境まで送り、さらにその赴任先に先回りして迎え入れます。辞職してから三年が経過しても戻らない場合に初めてその田地を回収します。これを『三つの礼』といいます。このようにして初めて服喪を行う価値があります。
しかし、現在の状況では、臣下が諫言しても受け入れられず、言葉も聞き入れられません。恩恵が民に届かず、辞職しようとすれば君主は臣下を捕まえ、追放される先でさらに苦しめます。辞職したその日に田地を取り上げてしまうような場合、それは敵や仇と同じです。敵や仇にどうして服喪を行う必要があるでしょうか?」
孟子曰:「無罪而殺士,則大夫可以去;無罪而戮民,則士可以徙。」
孟子曰く、罪なくして士を殺さば、則ち大夫以て去るべし。罪なくして民を戮せば、則ち士以て徙るべし。
孟子が言った。
「罪のない士を殺せば、大夫はその地を去ることができます。罪のない民を処刑すれば、士はその地を移ることができます。」
孟子曰:「君仁莫不仁,君義莫不義。」
孟子曰く、君仁なれば仁ならざる莫し。君義なれば義ならざる莫し。
孟子が言った。
「君主が仁であれば、民も皆仁となり、君主が義であれば、民も皆義となります。」
孟子曰:「非禮之禮,非義之義,大人弗爲。」
孟子曰く、非禮の禮、非義の義は、大人は弗さず。
孟子が言った。
「礼にかなわない礼、義にかなわない義、大人(徳のある者)はそれを行いません。」
孟子曰:「中也養不中,才也養不才,故人樂有賢父兄也。如中也棄不中,才也棄不才,則賢不肖之相去,其間不能以寸。」
孟子曰く、中や不中を養ひ、才や不才を養ふ。故に人は賢父兄あるを樂む。如し中や不中を棄て、才や不才を棄てば、則ち賢不肖の相去ること、其間寸を以てする能はず。
孟子が言った。
「中(正しい者)は不中(正しくない者)を養い、才(才能ある者)は不才(才能ない者)を養います。このため、人々は賢い父兄を持つことを喜ぶのです。もし中が不中を捨て、才が不才を捨てるならば、賢者と愚者の差は、わずか寸の幅ほどにもなりません。」
孟子曰:「人有不爲也,而後可以有爲。」
孟子曰く、人爲さざるあり、而る後に以て爲すあるべし。
孟子が言った。
「人には為さないことがあって初めて、為すべきことができるのです。」
孟子曰:「言人之不善,當如後患何?」
孟子曰く、人の不善を言はば、當に後患を如何にすべき。
孟子が言った。
「他人の悪を言うときには、後でそれがもたらす害をどうするつもりなのかを考えるべきです。」
孟子曰:「仲尼不爲已甚者。」
孟子曰く、仲尼は已甚しき者を爲さず。
孟子が言った。
「仲尼(孔子)は決して度を超えたことをしませんでした。」
孟子曰:「大人者,言不必信,行不必果,惟義所在。」
孟子曰く、大人は言必ずしも信ならず、行必ずしも果ならず、惟義の在る所。
孟子が言った。
「大人(徳のある人物)は、言葉が必ずしも信じられるとは限らず、行動が必ずしも実現されるとは限りません。ただ義(正しいこと)に従うのです。」
孟子曰:「大人者,不失其赤子之心者也。」
孟子曰く、大人は其赤子の心を失はざるものなり。
孟子が言った。
「大人(徳のある人物)とは、その赤子の心(純真な心)を失わない者のことです。」
孟子曰:「養生者,不足以當大事,惟送死可以當大事。」
孟子曰く、生を養ふ者、以て大事に當つるに足らず。惟死を送る、以て大事に當つべし。
孟子が言った。
「生を養うこと(生活を維持すること)は、大事を成すには十分ではありません。死を送ること(死者を丁重に弔うこと)こそが、大事を成すものです。」
孟子曰:「君子深造之以道,欲其自得之也。自得之則居之安,居之安則資之深,資之深則取之左右逢其原。故君子欲其自得之也。」
孟子曰く、君子は深く之れに造るに道を以てするは、其の之れを自得せんことを欲すればなり。之れを自得すれば、則ち之れに居ること安し。之れに居ること安ければ、則ち之れに資ること深し。之れに資ること深ければ、則ち之れを左右に取り、其原に逢ふ。故に君子は其の之れを自得するを欲するなり。
孟子が言った。
君子は道(正しい道理)を用いて深く修養し、それを自ら体得することを望む。それを自ら体得すれば、安心して身につけることができる。安心して身につけることができれば、それをより深く自分のものとすることができる。それを深く自分のものとすれば、どこからでも自在に活用できるようになる。だからこそ、君子は自ら体得することを望むのだ。
孟子曰:「博學而詳說之,將以反說約也。」
孟子曰く、博く學びて詳に之れを說くは、將に以て反りて約を說かんとするなり。
孟子が言った。
「広く学び、詳細に説明するのは、最終的に簡潔で要約された形に戻すためです。」
孟子曰:「以善服人者,未有能服人者也。以善養人,然後能服天下。天下不心服而王者,未之有也。」
孟子曰く、善を以て人を服する者は、未だ能く人を服する者にあらざるなり。善を以て人を養うて、然る後能く天下を服す。天下心服せずして王たる者は、未だ之れあらざるなり。
孟子が言った。
「善を用いて人を服従させようとしても、心から服従させることはできません。しかし、善で人を養うことで初めて天下を服従させることができます。天下の人々が心から服従しないのに王者となる者は、これまでに存在したことがありません。」
孟子曰:「言無實,不詳。不詳之實,蔽賢者當之。」
孟子曰く、言に實の不詳なし。不詳の實は、賢を蔽ふ者之れに當る。
孟子が言った。
「言葉に実質がないことは不吉です。不吉なことが現実となれば、それは賢者がその責任を負うような状況を作り出します。」
徐子曰:「仲尼亟稱於水曰:『水哉!水哉!』何取於水也?」孟子曰:「源泉混混,不舍晝夜,盈科而後進,放乎四海;有本者如是,是之取爾。茍爲無本,七、八月之間雨集,溝澮皆盈;其涸也,可立而待也。故聲聞過情,君子恥之。」
徐子曰く、仲尼亟〻水を稱して、曰く、水なるかな水なるかなと。何ぞ水に取るや。孟子曰く、源泉混混として、晝夜を舍てず。科に盈ちて而る後に進み、四海に放る。本ある者は是の如し。是れを之れ取るのみ。茍も本なかりせば、七八月の間雨集り、溝澮皆盈つれども、其の涸るゝや立つて待つべきなり。故に聲聞情に過ぐるは、君子之れを恥づ。
徐子が尋ねました。
「孔子は水を何度も称賛し、『水よ、水よ!』と言いました。水の何を評価しているのでしょうか?」
孟子は答えました。
「泉の源から水がこんこんと湧き出て、昼夜を問わず流れ続けます。障害物があればそれを満たしてから次に進み、最終的には四海に注ぎます。このように、根本を持つ者はこのような姿です。これが水から学ぶべき点です。
もし根本がなければ、七月や八月の雨で溝や小川が満たされることもありますが、その水が涸れるのは瞬く間のことです。
だからこそ、実態以上に名声が高まることを君子は恥じるのです。」
孟子曰:「人之所以異於禽獸者幾希,庶民去之,君子存之。舜明於庶物,察於人倫;由仁義行,非行仁義也。」
孟子曰く、人の禽獸に異なる所以の者幾んど希なり。庶民は之れを去り、君子は之れを存す。舜は庶物に明かに、人倫を察す。仁義に由りて行ふ。仁義を行ふに非ざるなり。
孟子が言った。
「人が禽獣と異なる点はわずかですが、庶民はそれを捨て去り、君子はそれを保持します。舜はあらゆる物事を明らかにし、人倫をしっかりと観察しました。彼が行動したのは仁義によってであり、仁義を形だけで行ったのではありません。」
孟子曰:「禹惡旨酒而好善言。湯執中,立賢無方。文王視民如傷,望道而未之見。武王不泄邇,不忘遠。周公思兼三王,以施四事。其有不合者,仰而思之,夜以繼日;幸而得之,坐以待旦。」
孟子曰く、禹は旨酒を惡んで、善言を好む。湯は中を執る、賢を立つるに方なし。文王は民を視ること傷くが如し。道を望んで未だ之れを見ざるが而し。武王は邇を泄らざず、遠きを忘れず。周公は三王を兼ねて以て四事に施さんと思ふ。其の合はざるある者は、仰いで之れを思ひ、夜以て日に繼ぐ。幸にして之れを得れば、坐して以て旦を待つ。
孟子が言った。
「禹は甘美な酒を嫌い、善い言葉を好みました。湯は中庸を守り、賢者を立てるに際して特定の基準を設けませんでした。文王は民を傷つけることを恐れるように思いやり、道を求めましたがそれを完全には見出せませんでした。武王は近くのことに気を配り、遠くのことを忘れることがありませんでした。周公は三王(夏、殷、周)の教えを統合し、四つの事業を実施しました。もし何かがうまくいかないときには、天を仰いで深く考え、昼夜を問わずそれを追求しました。そして幸いにもその答えを得たときには、夜明けを待ちながら落ち着いて座していました。」
孟子曰:「王者之跡熄而《詩》亡,《詩》亡然後《春秋》作。晉之《乘》、楚之《梼杌》、魯之《春秋》,一也。其事則齊桓、晉文,其文則史。孔子曰:『其義則丘竊取之矣。』」
孟子曰く、王者の跡熄んで、詩亡ぶ。詩亡びて、然る後春秋作らる。晉の乘、楚の梼杌、魯の春秋は一なり。其事は則ち齊桓・晉文、其文は則ち史。孔子曰く、其義は則ち丘竊に之れを取ると。
孟子が言った。
「王者(理想の王)の跡が消えるとともに『詩経』の時代は終わり、『詩経』が失われた後に『春秋』が編まれました。晋の『乗』、楚の『檮杌』、魯の『春秋』は皆同じものです。その内容には斉の桓公や晋の文公の事績が記されており、その形式は歴史書です。孔子は言いました。『その義については私が部分的に取捨選択したものだ。』」
孟子曰:「君子之澤,五世而斬;小人之澤,五世而斬。予未得爲孔子徒也,予私淑諸人也。」
孟子曰く、君子の澤は、五世にして斬え、小人の澤も、五世にして斬ゆ。予未だ孔子の徒たるを得ざるなり。予私かに諸れを人に淑くするなり。
孟子が言った。
「君子の恩恵は五代を経て絶え、小人の恩恵も五代を経て絶えます。私は孔子の直接の弟子ではありませんが、私なりに私淑(心の中で師と仰ぐ)しています。」
孟子曰:「可以取,可以無取,取傷廉。可以與,可以無與,與傷惠。可以死,可以無死,死傷勇。」
孟子曰く、以て取るべし、以て取るなかるべし、取れば廉を傷る。以て與ふべし、以て與ふるなかるべし、與ふれば惠を傷る。以て死すべし、以て死するなかるべし、死すれば勇を傷る。
孟子が言った。
「取ることができ、取らなくてもよい場合に取ることは廉恥を傷つけます。与えることができ、与えなくてもよい場合に与えることは恩恵を傷つけます。死ぬことができ、死ななくてもよい場合に死ぬことは勇気を傷つけます。」
逢蒙學射於羿,盡羿之道,思天下惟羿爲愈己,於是殺羿。孟子曰:「是亦羿有罪焉。」公明儀曰:「宜若無罪焉?」曰:「薄乎云爾,惡得無罪?鄭人使子濯孺子侵衞,衞使庾公之斯追之。子濯孺子曰:『今日我疾作,不可以執弓,吾死矣夫!』問其僕曰:『追我者誰也?』其仆曰:『庾公之斯也。』曰:『吾生矣。』其仆曰:『庾公之斯,衞之善射者也,夫子曰「吾生」,何謂也?』曰:『庾公之斯學射於尹公之他,尹公之他學射於我。夫尹公之他,端人也,其取友必端矣。』庾公之斯至,曰:『夫子何爲不執弓?』曰:『今日我疾作,不可以執弓。』曰:『小人學射於尹公之他,尹公之他學射於夫子。我不忍以夫子之道,反害夫子。雖然,今日之事,君事也,我不敢廢。』抽矢叩輪,去其金、發乘矢而後反。」
逢蒙射を羿に學ぶ。羿の道を盡くし、思へらく、天下惟羿のみ己に愈ると爲す。是に於て羿を殺す。孟子曰く、是れ亦羿も罪あり。公明儀曰く、宜しく罪なきが若くなるべし。曰く、薄きかと云ふのみ、惡んぞ罪なきを得ん。鄭人子濯孺子をして衞を侵さしむ。衞、庾公之斯をして之を追はしむ。子濯孺子曰く、今日我れ疾作る、以て弓を執るべからず、吾れ死なんか。其僕に問ふ、曰く、我を追ふ者は誰ぞ。其僕曰く、庾公之斯なり。曰く、吾れ生きん。其僕曰く、庾公之斯は、衞の善く射る者なり、夫子曰ふ、吾れ生きんと、何の謂ぞや。曰く、庾公之斯は射を尹公之他に學ぶ。尹公之他は射を我に學ぶ。夫の尹公之他は端人なり、其の友を取ること必ず端ならん。庾公之斯至りて、曰く、夫子何爲ぞ弓を執らざる。曰く、今日我れ疾作る、以て弓を執る可からず。曰く、小人射を尹公之他に學ぶ。尹公之他は射を夫子に學ぶ。我れ夫子の道を以て、反つて夫子を害するに忍びず。然りと雖も、今日の事は君の事なり、我敢て廢せずと。矢を抽き輪に叩き其金を去り、乘矢を發して而る後に反る。
逄蒙は羿に弓術を学び、羿の技術を極めました。そして天下において自分より優れた弓の使い手は羿だけだと考え、羿を殺しました。孟子は言いました。
「これもまた、羿に罪があると言えます。」
公明儀は言いました。
「羿には罪がないように思えますが。」
孟子は答えました。
「わずかな罪にすぎないとはいえ、どうして罪がないと言えるでしょうか?
あるとき、鄭の国が子濯孺子に命じて衛を攻めさせ、衛は庾公之斯を派遣して追撃させました。子濯孺子は言いました。
『今日は病気で弓を持つことができない。これでは私は死ぬだろう!』
彼は従者に尋ねました。
『私を追撃しているのは誰だ?』
従者は答えました。
『庾公之斯です。』
すると子濯孺子は言いました。
『私は助かった!』
従者が問いました。
『庾公之斯は衛の名射手ですが、なぜ「助かった」とおっしゃるのですか?』
子濯孺子は答えました。
『庾公之斯は尹公之他に弓術を学び、尹公之他は私に弓術を学びました。尹公之他は品行方正な人物であり、彼が友とする者もまた品行方正であるはずです。』
庾公之斯が追いついて言いました。
『先生はなぜ弓を持たないのですか?』
子濯孺子は答えました。
『今日は病気で弓を持つことができません。』
庾公之斯は言いました。
『私は尹公之他に弓術を学び、尹公之他は先生に学びました。私は先生の教えを用いて先生を害することは忍びません。しかしながら、今日の件は君主の命令ですので、私はそれを無視することはできません。』
彼は矢を抜き、車輪に打ちつけ、矢じりの金属部分を取り去り、ただの木の矢を放ってから帰りました。」
孟子曰:「西子蒙不潔,則人皆掩鼻而過之。雖有惡人,齋戒沐浴,則可以祀上帝。」
孟子曰く、西子不潔を蒙らば、則ち人皆鼻を掩うて之れを過ぎん。惡人有りと雖も、齋戒沐浴せば、則ち以て上帝を祀るべし。
孟子が言った。
「絶世の美女である西子も、不潔な状態であれば、人々は皆鼻をつまんで彼女のそばを通り過ぎます。一方で、たとえ悪人であっても、身を慎み清めて沐浴すれば、上帝に祀ることができます。」
孟子曰:「天下之言性也,則故而已矣。故者,以利爲本。所惡於智者,爲其鑿也。如智者,若禹之行水也,則無惡於智矣。禹之行水也,行其所無事也。如智者亦行其所無事,則智亦大矣。天之高也,星辰之遠也,茍求其故,千歲之日至,可坐而致也。」
孟子曰く、天下の性を言ふや、故に則るのみ。故とは利を以て本と爲す。智に惡む所の者は、其の鑿するが爲めなり。如し智者禹の水を行る若くならば、則ち智に惡むなし。禹の水を行るや、其の事なき所に行るなり。如し智者も亦其の事なき所に行らば、則ち智も亦大なり。天の高き星辰の遠き、茍くも其の故を求めば、千歲の日至も、坐して致すべきなり。
孟子が言った。
「天下で性(本性)について語られることは、もっぱら古くからの通説に過ぎません。その通説とは、利益を本とするものです。智者が嫌われる理由は、その智があまりにも穿鑿(せんさく、細かく突き詰めすぎる)であるからです。
もし智者が禹のように水を治める行動を取れば、その智は嫌われません。禹が水を治めた方法は、余計なことをせず、水が自然に流れる道に沿って進むものでした。もし智者もまた、余計なことをせずに行動するならば、その智もまた偉大なものとなるでしょう。
天が高く、星辰(せいしん、星々)が遠く離れているように見えますが、その道理を究めようとすれば、千年後の日食や天体の動きも座して計算で知ることができるのです。」
公行子有子之喪,右師往弔。入門,有進而與右師言者,有就右師之位而與右師言者。孟子不與右師言,右師不悅曰:「諸君子皆與驩言,孟子獨不與驩言,是簡驩也。」孟子聞之,曰:「禮:朝庭不歷位而相與言,不逾階而相揖也。我欲行禮,子敖以我爲簡,不亦異乎?」
公行子子の喪あり、右師往きて弔し、門に入る。進んで右師と言ふ者あり。右師の位に就き、而して右師と言ふ者あり。孟子、右師と言はず。右師悅ばずして曰く、諸君子皆驩と言ふ。孟子獨り驩と言はず、是れ驩を簡にするなり。孟子之れを聞きて、曰く、禮に朝庭には位を歷て相與に言はず、階を逾えて相揖せざるなり。我禮を行はんと欲す、子敖我を以て簡と爲す、亦異ならずや。
公行子が子の喪に服していたとき、右師が弔問に訪れました。右師が門を入ると、進み出て右師に話しかける者もいれば、右師のいる席に近寄って話しかける者もいました。しかし、孟子は右師に話しかけませんでした。
右師は不満を感じて言いました。
「他の君子たちはみな私に話しかけてくれたが、孟子だけが話しかけてくれなかった。これは私を軽んじているのだ。」
これを聞いた孟子は言いました。
「礼では、朝廷では階級に応じた席を無視して勝手に話しかけたり、階段を越えて挨拶したりしません。私は礼を守りたかっただけなのに、子敖が私を軽視したと考えるのは、おかしいではありませんか?」
孟子曰:「君子所以異於人者,以其存心也。君子以仁存心,以禮存心。仁者愛人,有禮者敬人。愛人者,人恒愛之;敬人者,人恒敬之。有人於此,其待我以橫逆,則君子必自反也:『我必不仁也,必無禮也,此物奚宜至哉?』其自反而仁矣,自反而有禮矣。其橫逆由是也,君子必自反也:『我必不忠。』自反而忠矣。其橫逆由是也,君子曰:『此亦妄人也已矣。如此則與禽獸奚擇哉?於禽獸又何難焉!』是故君子有終身之憂,無一朝之患也。乃若所憂則有之。舜人也,我亦人也;舜爲法於天下,可傳於後世,我由未免爲鄉人也,是則可憂也。憂之如何?如舜而已矣。若夫君子所患則亡矣。非仁無爲也,非禮無行也。如有一朝之患,則君子不患矣。」
孟子曰く、君子の人に異なる所以は、其の心を存するを以てなり。君子は仁を以て心に存し、禮を以て心に存す。仁者は人を愛し、禮ある者は人を敬す。人を愛する者は人恒に之れを愛し、人を敬する者は人恒に之れを敬す。此に人あり。其の我を待つに橫逆を以てすれば、則ち君子必ず自ら反するなり。我は必ず不仁なり、必ず無禮なり、此の物奚ぞ宜しく至るべけんやと。其の自ら反して仁なり、自ら反して禮あり、其橫逆由ほ是のごとくなれば、君子必ず自ら反するなり。我必ず不忠なりと。自ら反して忠なり。其の橫逆是の如くなれば、君子曰く、此れ亦妄人なるのみ。此の如きは則ち禽獸と奚ぞ擇ばんや。禽獸に於て又何ぞ難ぜんと。是の故に君子は終身の憂ありて、一朝の患なきなり。乃ち憂ふる所の若きは則ち之れあり。舜も人なり、我も亦人なり、舜は法を天下に爲し、後世に傳ふべし。我は由ほ鄉人たるを免れざるがごとし。是れ則ち憂ふ可きなり。之れを憂へば如何にせん。舜の如くせんのみ。夫の君子の若きは、患ふ所は則ち亡し、仁に非ざれば爲すなきなり。禮に非ざれば行ふなきなり。一朝の患あるが如きは、則ち君子は患へず。
孟子が言った。
「君子が他の人と異なるのは、その心をどのように保つかにあります。君子は仁によって心を保ち、礼によって心を保ちます。仁ある者は人を愛し、礼ある者は人を敬います。人を愛する者は人から常に愛され、人を敬う者は人から常に敬われます。
ここにある人がいて、私に対して横柄で無礼な態度を取った場合、君子は必ず自らを省みます。『私に仁が足りなかったのではないか。私に礼が欠けていたのではないか。このような態度を引き起こす原因は何なのか。』自らを省みて仁を尽くし、自らを省みて礼を尽くします。それでも相手が無礼な態度を取るならば、君子は再び自らを省みます。『私は忠を尽くしていなかったのではないか。』そして、自らを省みて忠を尽くします。それでもなお相手が横柄であるならば、君子は言います。『この人は妄人(道理をわきまえない人)なのだ。こうであれば禽獣と何が違うのだろうか。禽獣を相手にするのは何も難しいことではない。』
このようにして君子は、終生にわたる憂いを持ちますが、一時的な悩みは持ちません。君子が憂えるべきことがあるとすれば、『舜は人であり、私もまた人である。舜は天下の規範を作り、それを後世に伝えたが、私は未だに一介の普通の人間に過ぎない』ということです。これこそ憂えるべきことです。この憂いをどうすれば解決できるでしょうか?舜のように生きれば良いのです。
一方で、君子が患うべきことは何もありません。仁でなければ行わず、礼でなければ振る舞わないのです。一時的な悩みがあるとしても、君子はそれを悩みとは考えません。」
禹、稷當平世,三過其門而不入,孔子賢之。顏子當亂世,居於陋巷,一簞食,一瓢飮,人不堪其憂,顏子不改其樂,孔子賢之。孟子曰:「禹、稷、顏回同道。禹思天下有溺者,由己溺之也;稷思天下有饑者,由己饑之也。是以如是其急也。禹、稷、顏子易地則皆然。今有同室之人鬭者,救之,雖被髮纓冠而救之,可也。鄉鄰有鬭者,被髮纓冠而往救之,則惑也,雖閉戶可也。」
禹・稷は平世に當り、三たび其門を過ぎて入らず,孔子之れを賢とす。顏子亂世に當り、陋巷に居り、一簞の食、一瓢の飮、人は其憂に堪へず、顏子は其樂を改めず、孔子之れを賢とす。孟子曰く、禹・稷・顏回道を同じくす。禹は天下に溺るゝ者あれば、由ほ己れ之れを溺すがごとしと思ふ。稷は天下に饑うる者あれば、由ほ己れ之れを饑すがごとしと思ふ。是を以て是の如く其れ急なるなり。禹・稷・顏子、地を易へば則ち皆然らん。今同室の人鬭ふ者あらば、之を救ふに被髮纓冠して之を救ふと雖も可なり。鄉鄰に鬭ふ者あり、被髮纓冠して往いて之を救ふは則ち惑なり。戶を閉づと雖も可なり。
孟子が言った。
「禹と稷は平和な時代において、天下を治める責任を担い、三度家の門を通り過ぎても家に入らず、その任務に励みました。孔子は彼らを称賛しました。
顔子(顔回)は乱世において、狭く貧しい巷に住みました。一碗の飯、一杯の水で暮らし、普通の人はその困難に耐えられなかったでしょう。しかし、顔子はその喜びを変えることはありませんでした。孔子は彼を称賛しました。
禹、稷、顔子は同じ道を歩んでいます。禹は天下に溺れる人がいれば、それを自分の責任として考え、稷は天下に飢える人がいれば、それを自分の責任として考えました。そのため、彼らはその任務にこれほどまでに急いだのです。
もし禹、稷、顔子が立場を変えても、同じように行動したでしょう。たとえば、同じ家に住む者同士が争えば、それを止めるのに髪を乱し冠をつけたまま駆けつけても良いでしょう。しかし、もし隣近所で争いが起きた場合に、同じように髪を乱して冠をつけたまま駆けつければ、それは愚かです。この場合は、戸を閉じて争いが収まるのを待つのが正しいのです。」
公都子曰:「匡章,通國皆稱不孝焉。夫子與之游,又從而禮貌之,敢問何也?」孟子曰:「世俗所謂不孝者五:惰其四支,不顧父母之養,一不孝也;博弈、好飮酒,不顧父母之養,二不孝也;好貨財、私妻子,不顧父母之養,三不孝也;從耳目之欲,以爲父母戮,四不孝也;好勇鬭狠,以危父母,五不孝也。章子有一於是乎?夫章子,子父責善而不相遇也。責善,朋友之道也。父子責善,賊恩之大者。夫章子豈不欲有夫妻子母之屬哉?爲得罪於父,不得近;出妻屛子,終身不養焉。其設心以爲不若是,是則罪之大者。是則章子已矣。」
公都子曰く、匡章は通國皆不孝と稱す。夫子之れと游び、又從つて之を禮貌す。敢て問ふ何ぞや。孟子曰く、世俗の所謂不孝なる者五つあり。其四支を惰らせ、父母の養を顧みざるは、一の不孝なり。博弈し飮酒を好み、父母の養ひを顧みざるは、二の不孝なり。貨財を好み妻子に私し、父母の養ひを顧みざるは三の不孝なり。耳目の欲を從にし、以て父母の戮を爲すは、四の不孝なり。勇を好み鬭狠し、以て父母を危くするは、五の不孝なり。章子是に一つあるか。夫の章子は、子父善を責めて相遇はざるなり。善を責むるは朋友の道なり。父子善を責むるは、恩を賊ふの大なる者なり。夫の章子は豈に夫妻子母の屬あるを欲せざらんや。罪を父に得て近づくを得ざるが爲めに、妻を出し子を屛け、終身養はず。其の心を設くること、以爲らく是の若くならざれば、是れ則ち罪の大なる者と。是れ則ち章子のみ。
公都子が尋ねました。
「匡章は、国中の人々から不孝者と見なされています。しかし、先生は彼と交際し、さらに礼をもって接しています。それはなぜでしょうか?」
孟子は答えました。
「世俗で言われる不孝には五つの種類があります。
四肢を怠け、父母の養いを顧みないこと。これが一つ目の不孝です。
博打や遊びにふけり、父母の養いを顧みないこと。これが二つ目の不孝です。
財産や家族を優先し、父母の養いを顧みないこと。これが三つ目の不孝です。
自分の欲望を追求し、それによって父母を辱めること。これが四つ目の不孝です。
無謀に勇を好み争いを起こし、父母を危険にさらすこと。これが五つ目の不孝です。
匡章はこれらのどれか一つに該当するでしょうか?
匡章の問題は、父と互いに善を求め合おうとしながら、それがかみ合わなかった点にあります。本来、善を求めることは友人同士の道です。しかし、親子の間で互いに善を求め合うことは、親子の恩愛を損なう最も大きなものなのです。
匡章は、どうして夫婦や親子の関係を築こうとしなかったのでしょうか? それは、父に逆らい、近づくことができなくなったからです。彼は妻を離縁し、子供を遠ざけ、生涯にわたって父を養いませんでした。
彼は、このようにすることが正しいと心に決めたのです。もしそうでなかったならば、それこそ大きな罪となるでしょう。したがって、匡章の問題はすでに明らかであり、これ以上責めるべきものではありません。」
曾子居武城,有越寇。或曰:「寇至,盍去諸?」曰:「無寓人於我室,毀傷其薪木。」寇退,則曰:「修我墻屋,我將反。」寇退,曾子反。左右曰:「待先生如此其忠且敬也,寇至則先去以爲民望,寇退則反,殆於不可。」沈猶行曰:「是非汝所知也。昔沈猶有負芻之禍,從先生者七十人,未有與焉。」子思居於衞,有齊寇。或曰:「寇至,盍去諸?」子思曰:「如汲去,君誰與守?」孟子曰:「曾子、子思同道。曾子師也,父兄也;子思臣也,微也。曾子、子思易地則皆然。」儲子曰:「王使人瞷夫子,果有以異於人乎?」孟子曰:「何以異於人哉?堯舜與人同耳。」
曾子武城に居る。越の寇あり。或ひと曰く、寇至る、盍ぞ諸れを去らざると。曰く、人を我が室に寓し、其薪木を毀傷する無かれと。寇退けば則ち曰く、我が墻屋を修めよ、我將に反らんとす。寇退き、曾子反る。左右曰く、先生を待つこと、此の如く其れ忠にして且つ敬するなり、寇至れば則ち先づ去り、以て民の望を爲し、寇退けば則ち反る、不可なるに殆し。沈猶行曰く、是れ汝が知る所に非ざるなり。昔沈猶負芻の禍あり。先生に從ふ者七十人、未だ與るあらず。子思衞に居る、齊の寇あり。或ひと曰く、寇至る、盍ぞ諸れを去らざる。子思曰く、如し汲去らば、君誰と與にか守らん。孟子曰く、曾子・子思道を同じうす。曾子は師なり、父兄なり。子思は臣なり、微なり。曾子・子思、地を易へば則ち皆然らん。
曾子が武城に住んでいたとき、越の賊が襲来しました。ある人が言いました。
「賊が迫っています。避難されてはいかがですか?」
曾子は答えました。
「人を私の家に住まわせ、薪や木材を傷つけることはできません。」
賊が退くと、曾子は言いました。
「私の家の壁や屋根を修繕してください。私は戻るつもりです。」
賊が退去した後、曾子は元の家に戻りました。周囲の人々は言いました。
「先生を尊敬してこれほど尽くしているのに、賊が来ると先生は避難してしまい、民の模範となりません。そして賊が退くと戻ってくるのでは、模範としてふさわしくありません。」
これに対して沈猶行は言いました。
「それはあなたたちが理解できることではありません。昔、沈猶が負芻の乱に遭ったとき、先生に従う者が七十人いましたが、誰一人としてこの件で批判された者はいませんでした。」
子思が衛に住んでいたとき、斉の賊が襲来しました。ある人が言いました。
「賊が迫っています。避難されてはいかがですか?」
子思は答えました。
「もし私が去るならば、誰がこの国を守るのでしょうか?」
孟子は言いました。
「曾子と子思は同じ道を歩んでいます。曾子は師であり、父や兄のような立場です。一方で、子思は臣下であり、身分の低い立場です。もし彼らが立場を交換したとしても、同じように行動したでしょう。」
儲子曰:「王使人瞷夫子,果有以異於人乎?」孟子曰:「何以異於人哉?堯舜與人同耳。」
儲子曰く、王、人をして夫子を瞷はしむ。果して以て人に異なるあるか。孟子曰く、何を以て人に異ならんや。堯舜も人と同じきのみ。
儲子が尋ねました。
「王が人を派遣して先生を見張らせたのですが、本当に他の人と異なるところがあるのでしょうか?」
孟子は答えました。
「何が他の人と異なるというのでしょうか?堯や舜もまた他の人と同じなのです。」
齊人有一妻一妾而處室者,其良人出,則必饜酒肉而後反。其妻問其所與飮食者,則盡富貴也。其妻告其妾曰:「良人出,則必饜酒肉而後反;問其與飮食者,盡富貴也。而未嘗有顯者來。吾將瞷良人之所之也。」早起,施從良人之所之。遍國中,無與立談者。卒之東郭墦間,之祭者,乞其餘;不足,又顧而之他──此其爲饜足之道也。其妻歸,告其妾曰:「良人者,所仰望而終身也。今若此!」與其妾訕其良人,而相泣於中庭。而良人未之知也,施施從外來,驕其妻妾。由君子觀之,則人之所以求富貴利達者,其妻妾不羞也而不相泣者,幾希矣。
齊人一妻一妾にして室に處る者あり、其の良人出づれば、則ち必ず酒肉に饜きて而る後に反る。其の妻、與に飮食する所の者を問へば、則ち盡く富貴なり。其の妻其の妾に告げて、曰く、良人出づれば則ち必ず酒肉に饜きて、而る後に反る、其の與に飮食する者を問へば、盡く富貴なり、而して未だ嘗て顯者の來るあらず、吾將に良人の之く所を瞷はんとすと。早に起き、施して良人の之く所に從ふ。國中を遍くすれども與に立談する者なし。卒に東郭墦間の祭者に之き、其の餘を乞ふ。足らざれば又顧みて他に之く。此れ其の饜足を爲すの道なり。其の妻歸り其の妾に告げて、曰く、良人とは仰望して身を終ふる所なり、今此の若しと。其妾と與に其良人を訕りて、而して中庭に相泣く。而るに良人は未だ之を知らざるなり。施施として外より來り、其妻妾に驕る。君子由り之を觀れば、則ち人の富貴利達を求むる所以の者は、其妻妾羞ぢず、而して相泣かざる者は幾んど希れなり。
斉の国に一人の男がいました。彼には一人の妻と一人の妾がいて、同じ家に住んでいました。この男は外出すると、必ず酒と肉をたらふく食べてから帰宅しました。妻が誰と一緒に飲み食いしていたのか尋ねると、男はいつも「富貴な人たちだ」と答えました。
妻は妾に言いました。
「主人は外出すると、いつもたらふく飲み食いして帰ってくる。そして一緒に飲み食いしているのは富貴な人たちだと言うけれど、一度もそうした立派な人が家に訪れたことはない。主人が本当はどこに行っているのか確かめようと思う。」
翌朝早く、妻は主人の後をこっそりつけました。主人が行った場所を国中くまなく見ても、立ち話をする人すらいませんでした。最後に東郭の墓地の間で、祭りを行う人々から残飯を乞うのを見つけました。それでも足りないときは、他の場所を回って食べ物を乞うていました。これが彼の満腹の理由でした。
妻は帰宅し、妾に言いました。
「主人は私たちが生涯を託して仰ぎ見る存在なのに、こんな有様です。」
そして妻と妾は中庭で主人を嘲り合いながら泣きました。しかし、主人はそれを知らず、外から帰宅するときには施施然(「してしてぜん」のんびりと)として、妻と妾に対して偉そうに振る舞いました。
君子の目から見ると、人が富や名声、成功を求める様子は、その妻や妾がそれを恥じずに嘲笑わず、また互いに泣き合わないことなど、ほとんどないでしょう。
萬章問曰:「舜往于田,號泣于旻天。何爲其號泣也?」孟子曰:「怨慕也。」萬章曰:「父母愛之,喜而不忘;父母惡之,勞而不怨。然則舜怨乎?」曰:「長息問於公明高曰:『舜往于田,則吾既得聞命矣;號泣于旻天、于父母,則吾不知也。』公明高曰:『是非爾所知也。』夫公明高以孝子之心爲不若是恝。『我竭力耕田,共爲子職而已矣;父母之不我愛,於我何哉?』帝使其子九男二女,百官牛羊倉廩備,以事舜於畎畝之中。天下之士多就之者,帝將胥天下而遷之焉。爲不順於父母,如窮人無所歸。天下之士悅之,人之所欲也,而不足以解憂。好色,人之所欲;妻帝之二女,而不足以解憂。富,人之所欲;富有天下,而不足以解憂。貴,人之所欲;貴爲天子,而不足以解憂。人悅之、好色、富貴無足以解憂者,惟順於父母,可以解憂。人少則慕父母,知好色則慕少艾,有妻子則慕妻子,仕則慕君,不得於君則熱中。大孝終身慕父母,五十而慕者,予於大舜見之矣。」
萬章問ふ、曰く、舜は田に往き、旻天に號泣す、何爲ぞ其れ號泣するや。孟子曰く、怨慕するなり。萬章曰く、父母之を愛せば、喜んで忘れず、父母之を惡めば勞して怨みず。然らば則ち舜は怨みたるか。曰く、長息、公明高に問うて曰く、舜の田に往くは、則ち吾れ既に命を聞くを得たり。旻天に父母に號泣するは、則ち吾れ知らざるなりと。公明高曰く、是れ爾が知る所に非ざるなり。夫の公明高は孝子の心を以て、是の若く恝ならずと爲す。我力を竭し田を耕し、子たる職を共するのみ。父母の我を愛せざるも、我に於て何ぞや。帝其の子九男二女をして、百官、牛羊、倉廩を備へ、以て舜に畎畝の中に事へしむ。天下の士之に就く者多し,帝將に天下を胥て之に遷さんとす。父母に順ならざる爲めに、窮人の歸する所なきが如し。天下の士之を悅ぶは、人の欲する所なり。而して以て憂を解くに足らず。好色は人の欲する所、帝の二女を妻として、而して以て憂を解くに足らず。富は人の欲する所、富天下を有ちて、而して以て憂を解くに足らず。貴きは人の欲する所、貴きこと天子と爲り、而して以て憂を解くに足らず。人之を悅ぶ、好色富貴、以て憂を解くに足る者なし,惟だ父母に順にして、以て憂を解くべし。人少ければ則ち父母を慕ふ。好色を知れば則ち少艾を慕ふ。妻子有れば則ち妻子を慕ふ。仕ふれば則ち君を慕ふ。君に得ざれば則ち熱中す。大孝は終身父母を慕ふ。五十にして慕ふ者は、予大舜に於て之を見る。
万章が尋ねました。
「舜は田畑に赴き、天を仰いで号泣したと伝えられていますが、なぜそのように泣いたのですか?」
孟子が答えました。
「それは怨みと慕いの感情によるものです。」
万章はさらに尋ねました。
「親が子を愛すれば、子は喜びを感じその愛を忘れません。親が子を憎めば、子は辛さを感じても怨みません。それなのに舜は怨んだのですか?」
孟子が答えました。
「長息が公明高に尋ねました。
『舜が田畑に赴いたのは私も聞いていますが、天を仰ぎ父母に向かって号泣したことについては分かりません。』
公明高は答えました。
『それはお前が理解できることではない。』
公明高は孝子(こうし、親孝行な子)の心について、単に田を耕して子としての職務を果たすだけでは足りないと考えました。『親が私を愛さないことは私にとってどうということはない』というような心持ちでは不十分なのです。
天帝は自分の子である九男二女を送り、百官、牛や羊、倉や穀物など全てを備えさせ、舜を田畑の中で支えるようにしました。天下の士も多く舜のもとに集まり、天帝は舜を天下に推挙しようとしました。それでも舜は父母に対して不順であることを、まるで帰る家のない貧しい人のように感じました。
天下の士が彼を喜ばせても、人が望むところの好色を得て帝の二人の娘を妻にしても、富を得て天下を所有しても、地位を得て天子になっても、舜の憂いを解くことはできませんでした。人々の喜び、好色、富や地位、そのいずれもが憂いを解くことには足りず、ただ父母に順うことだけが舜の憂いを解くことができたのです。
人は幼少期には父母を慕い、成長して異性に魅力を感じれば美しい相手を慕い、妻子を得れば妻子を慕い、仕官すれば君主を慕います。しかし君主に認められなければ心が乱れるのです。
しかし、大孝(だいこう、偉大な孝行)は生涯にわたって父母を慕うことです。五十歳になってもなお父母を慕う姿を、私は大舜に見ることができました。」
萬章問曰:「《詩》云:『娶妻如之何?必吿父母。』信斯言也,宜莫如舜。舜之不吿而娶,何也?」孟子曰:「吿則不得娶。男女居室,人之大倫也。如吿則廢人之大倫以懟父母,是以不吿也。」萬章曰:「舜之不吿而娶,則吾既得聞命矣。帝之妻舜而不吿,何也?」曰:「帝亦知吿焉則不得妻也。」萬章曰:「父母使舜完廩,捐階,瞽瞍焚廩。使浚井,出,從而掩之。象曰:『謨蓋都君咸我績。牛羊父母,倉廩父母,干戈朕,琴朕,弤朕,二嫂使治朕棲。』象往入舜宮,舜在床琴。象曰:『郁陶思君爾。』忸怩。舜曰:『唯茲臣庶,汝其于予治。』不識舜不知象之將殺己與?」曰:「奚而不知也?象憂亦憂,象喜亦喜。」曰:「然則舜僞喜者與?」曰:「否。昔者有饋生魚於鄭子產,子產使校人畜之池。校人烹之,反命曰:『始舍之圉圉焉,少則洋洋焉,攸然而逝。』子產曰:『得其所哉!得其所哉!』校人出,曰:『孰謂子產智?予既烹而食之,曰:「得其所哉!得其所哉!」』故君子可欺以其方,難罔以非其道。彼以愛兄之道來,故誠信而喜之。奚僞焉?」
萬章問うて、曰く、詩に云ふ、妻を娶るは之を如何せん。必ず父母に吿ぐと。斯の言を信ぜば、舜の如くなる莫かるべし。舜の吿げずして娶るは何ぞや。孟子曰く、吿ぐれば則ち娶るを得ず。男女室に居るは、人の大倫なり、如し吿ぐれば則ち人の大倫を廢し、以て父母を懟む。是を以て吿げざるなり。萬章曰く、舜の吿げずして娶るは、則ち吾れ既に命を聞くを得たり。帝の舜に妻はして吿げざるは何ぞや。曰く、帝も亦吿ぐれば則ち妻はすを得ざるを知ればなり。萬章曰く、父母、舜をして廩を完めしめ、階を捐つ。瞽瞍廩を焚く。井を浚はしむ、出づ。從つて之を掩ふ。象曰く、都君を蓋するを謨るは咸な我が績なり。牛羊は父母、倉廩は父母、干戈は朕れ、琴は朕れ、弤は朕れ、二嫂は朕が棲を治めしめん。象往き舜の宮に入る。舜床に在りて琴ひく。象曰く、郁陶として君を思ふのみと。忸怩たり。舜曰く、唯れ茲の臣庶、汝其く予に于いて治めよと。識らず舜は象の將に己を殺さんとするを知らざるか。曰く、奚ぞ知らざらんや。象憂ふれば、亦憂へ象喜べば亦喜ぶ。曰く、然らば則ち舜は僞り喜ぶものか。曰く、否、昔者生魚を鄭の子產に饋るあり。子產校人をして之を池に畜はしむ。校人之を烹て、反命して曰く、始め之を舍てば圉圉焉たり。少しくすれば則ち洋洋焉たり。攸然として逝くと。子產曰く、其所を得たるかな、其の所を得たるかなと。校人出でて曰く、孰か子產を智と謂ふ。予既に烹て之を食へり、曰く、其所を得たるかな、其所を得たるかなと。故に君子は欺くに其方を以てすべし。罔るに其道に非ざるを以てし難し。彼は兄を愛するの道を以て來る。故に誠に信じて之を喜ぶ。奚ぞ僞らん。
万章が尋ねました。
「『詩経』には『妻を娶るには、必ず父母に告げよ』とあります。この言葉を信じるならば、舜ほどそれを守るべき人はいないはずです。それなのに舜は父母に告げずに妻を娶りました。なぜですか?」
孟子が答えました。
「父母に告げたならば、結婚は実現しなかったでしょう。男女が家庭を築くのは、人間社会の基本的な倫理です。もし告げていたならば、その倫理を破壊し、父母に恨みを抱かせることになってしまったでしょう。そのため告げなかったのです。」
万章はさらに尋ねました。
「舜が父母に告げずに結婚した理由は分かりました。しかし、帝が舜に妻を娶らせる際に父母に告げなかったのはなぜですか?」
孟子が答えました。
「帝もまた、告げていたならば結婚が実現しなかったことを知っていたのです。」
万章はまた尋ねました。
「舜の父母は彼に穀倉を修理させ、階段を壊すよう命じましたが、瞽瞍(こそう、舜の父)はその倉を焼き払いました。また、井戸を掘るよう命じ、舜が井戸の中にいる間に井戸の入口を塞ぎました。象(しょう、舜の弟)は言いました。『兄を殺して私が君主となりたい。牛や羊、倉の穀物、武器や楽器はすべて私のものになる。兄の妻たちにも私の家を管理させるのだ。』象が舜の宮殿を訪れると、舜は床に座り琴を弾いていました。象は言いました。『お前のことを思うと鬱々として仕方がない。』これに対して舜は『私はこの民衆を任せるので、よく治めるように。』と言いました。この時、舜は象が自分を殺そうとしていることを知らなかったのでしょうか?」
孟子は答えました。
「知らないわけがありません。象が憂えれば舜も憂い、象が喜べば舜も喜びました。」
万章はさらに尋ねました。
「では舜は偽って喜んだのでしょうか?」
孟子は答えました。
「いいえ。かつて鄭の子産に生きた魚が贈られました。子産はその魚を池に放つよう管理人に命じました。ところが管理人はその魚を料理して食べてしまい、『魚を池に入れると最初は圧迫感を感じていたが、次第に快適そうに泳ぎ、ついには悠々と去りました』と報告しました。これに対して子産は『魚は本来あるべき場所を得たのだな』と喜びました。管理人は外に出て言いました。『誰が子産を賢者だと言うのか。私は魚をすでに料理して食べてしまったが、それでも「得るべき場所を得た」と言うのだから。』
君子は、正当な方法であれば欺かれることはあっても、道理に反する方法では欺かれることはありません。舜は象が兄を愛する態度で接してきたので、それを誠実に信じて喜んだのです。何が偽りだというのでしょうか?」
萬章問曰:「象日以殺舜爲事,立爲天子,則放之,何也?」孟子曰:「封之也。或曰放焉。」萬章曰:「舜流共工于幽州,放驩兜于崇山,殺三苗于三危,殛鯀于羽山,四罪而天下咸服。誅不仁也。象至不仁,封之有庳。有庳之人奚罪焉?仁人固如是乎?在他人則誅之,在弟則封之。」曰:「仁人之於弟也,不藏怒焉,不宿怨焉,親愛之而已矣。親之,欲其貴也;愛之,欲其富也。封之有庳,富貴之也。身爲天子,弟爲匹夫,可謂親愛之乎?」「敢問『或曰放』者何謂也?」曰:「象不得有爲於其國,天子使吏治其國,而納其貢稅焉,故謂之放。豈得暴彼民哉?雖然,欲常常而見之,故源源而來。『不及貢,以政接于有庳』,此之謂也。」
萬章問ふ、曰く、象は日に舜を殺すを以て事と爲す。立ちて天子と爲れば則ち之を放くは何ぞや。孟子曰く、之を封ずるなり。或ひと曰く、放くと。萬章曰く、舜は共工を幽州に流し、驩兜を崇山に放ち、三苗を三危に殺し、鯀を羽山に殛し、四罪して天下咸な服す。不仁を誅するなり。象至つて不仁なり、之を有庳に封ず。有庳の人奚の罪かある。仁人は固より是の如きか。他人に在りては則ち之を誅し、弟に在りては則ち之を封ず。曰く、仁人の弟に於ける、怒を藏さず、怨を宿めず、之を親愛するのみ。之に親めば其の貴きを欲するなり。之を愛すれば其富を欲するなり。之を有庳に封ずるは之を富貴にするなり。身は天子たり。弟は匹夫たらば、之を親愛すと謂ふべきか。敢て問ふ。或ひと曰く、放くとは、何の謂ひぞ。曰く、象は其國に爲す有るを得ず、天子吏をして其國を治めしめ、而して其貢稅を納れしむ。故に之を放くと謂ふ。豈に彼の民を暴するを得んや。然りと雖も、常常にして之を見んと欲す。故に源源として來る、貢に及ばず、政を以て有庳に接すと。此れの謂なり。
万章が尋ねました。
「象は舜を殺そうと日々画策していたのに、舜が天子となると彼を封じ、または放ったとも言われますが、それはなぜですか?」
孟子が答えました。
「象を封じたとも言い、あるいは放逐したとも言われています。」
万章がさらに尋ねました。
「舜は共工を幽州に流し、驩兜を崇山に放逐し、三苗を三危で討伐し、鯀を羽山で処刑しました。四つの罪を裁き、天下はこれを認め、舜は不仁を罰しました。しかし、象もまた不仁であったにもかかわらず、舜は彼を有庳に封じました。有庳の民には何の罪があるのでしょうか?仁人(徳ある人)とはこのようなものでしょうか。他人には罰を与え、自分の弟には封じるのですか?」
孟子は答えました。
「仁人が弟に対する態度は、怒りを秘めず、怨みを長く抱かず、ただ親愛の情を持つのみです。親しい者にはその地位が高くなることを望み、愛する者にはその富を願います。象を有庳に封じたのは、彼を富貴にさせるためです。自分が天子となり、弟がただの庶民のままであれば、それは親愛の情とは言えないでしょう。」
万章がさらに尋ねました。
「では、『放逐した』と言われるのはどういう意味ですか?」
孟子は答えました。
「象は自らの国で好き勝手することを許されず、天子が役人を派遣してその国を治めさせ、貢税を納めさせました。このため『放逐した』と言われています。しかし、それによって有庳の民を苦しめることはありませんでした。
とはいえ、舜は常に象に会いたいと願っていました。そのため、象は絶えず舜を訪れました。『貢税を納めるためではなく、有庳の政を通じて舜と接する』というのはこのことを指しています。」
咸丘蒙問曰:「語云:『盛德之士,君不得而臣,父不得而子。』舜南面而立,堯帥諸侯北面而朝之,瞽瞍亦北面而朝之。舜見瞽瞍,其容有蹙。孔子曰:『於斯時也,天下殆哉,岌岌乎!』不識此語,誠然乎哉?」孟子曰:「否,此非君子之言,齊東野人之語也。堯老而舜攝也,《堯典》曰:『二十有八載,放勛乃徂落,百姓如喪考妣。三年,四海遏密八音。』孔子曰:『天無二日,民無二王。』舜既爲天子矣,又帥天下諸侯以爲堯三年喪,是二天子矣。」咸丘蒙曰:「舜之不臣堯,則吾既得聞命矣。《詩》云:『普天之下,莫非王土;率土之濱,莫非王臣。』而舜既爲天子矣,敢問瞽瞍之非臣如何?」曰:「是詩也,非是之謂也,勞於王事而不得養父母也。曰:『此莫非王事,我獨賢勞也。』故說詩者,不以文害辭,不以辭害志;以意逆志,是爲得之。如以辭而已矣。《雲漢》之詩曰:『周餘黎民,靡有孑遺。』信斯言也,是周無遺民也。孝子之至,莫大乎尊親;尊親之至,莫大乎以天下養。爲天子父,尊之至也;以天下養,養之至也。《詩》曰:『永言孝思,孝思惟則』,此之謂也。《書》曰:『祗載見瞽瞍,夔夔齋栗,瞽瞍亦允若』,是爲父不得而子也。」
咸丘蒙問ふ、曰く、語に云ふ、盛德の士は、君得て臣とせず、父得て子せず。舜は南面して立ち、堯は諸侯を帥ゐて北面して之に朝す。瞽瞍も亦北面して之に朝す。舜は瞽瞍を見て、其の容蹙たる有り。孔子曰く、斯の時に於て、天下殆いかな。岌岌乎たりと。識らず此の語誠に然るか。孟子曰く、否、此れ君子の言に非ず。齊東野人の語なり。堯老いて舜攝するなり。堯典に曰く、二十有八載、放勛乃ち徂落す。百姓考妣を喪するが如く、三年四海八音を遏密す。孔子曰く、天に二日なく、民に二王なしと。舜既に天子たり、又天下の諸侯を帥ゐて、以て堯に三年の喪を爲さば、是れ二天子なり。咸丘蒙曰く、舜の堯を臣とせざるは則ち吾れ既に命を聞くを得たり。詩に云ふ、普天の下は、王土に非ざるなく、率土の濱は、王臣に非ざるなしと。而して舜既に天子と爲れり。敢て問ふ、瞽瞍の臣に非ざるは如何。曰く、是の詩や、是の謂ひに非ざるなり。王事に勞して而して父母を養ふを得ざるなり。曰く、此れ王事に非ざること莫し、我れ獨り賢勞するなり。故に詩を說く者は文を以て辭を害せず、辭を以て志を害せず、意を以て志を逆ふ、是れ之を得たりと爲す。如し辭のみを以てせば、雲漢の詩に曰く、周餘の黎民、孑遺あることなしと。斯の言を信ずれば是れ周に遺民なきなり。孝子の至は親を尊ぶより大なるはなし。親を尊ぶの至は天下を以て養ふより大なるはなし。天子の父となるは尊の至なり。天下を以て養ふは養ふの至なり。詩に曰く、永く言孝を思ふ。孝を思へば惟れ則と。此の謂なり。書に曰く、載を祗みて瞽瞍に見ゆ。夔夔として齋栗す。瞽瞍も亦允若すと。是れ父得て子とせずとなすなり。
咸丘蒙が尋ねました。
「ある言葉に『盛徳の士は、君でも臣下にすることはできず、父でも子にすることはできない』とあります。舜は天子として南面に座し、堯は諸侯を率いて北面し、舜に朝見しました。同様に瞽瞍(こそう、舜の父)も北面して舜に朝見しました。舜が瞽瞍を見た際、顔には緊張が表れました。孔子はこれについて『この時、天下は危うい状況だった。極めて不安定だった』と言ったと伝えられます。この話は本当なのでしょうか?」
孟子は答えました。
「違います。そのような話は君子の言葉ではなく、斉東の田舎者の作り話です。堯は高齢になり、舜がその職務を代行したのです。『堯典』にはこうあります。
『堯が崩じた後、二八年間、百姓はまるで自分の両親を失ったかのように悲しんだ。三年間、四海の音楽は一切停止された。』
孔子はこう言っています。
『天には二つの太陽がなく、民には二人の王がいない。』
舜がすでに天子となった上で、天下の諸侯を率いて堯の喪を三年間守るのは、二人の天子が存在することになり、矛盾するのです。」
咸丘蒙がさらに尋ねました。
「舜が堯の臣下ではなかったことについては理解しました。ですが、『普天の下に王土でない場所はなく、率土の浜に王臣でない者はいない』という詩があります。それなのに舜が天子であった後、瞽瞍が臣下ではなかったとすれば、それはどういうことでしょうか?」
孟子は答えました。
「その詩はそのような意味ではありません。王の事務に忙殺され、父母を養う時間がないことを嘆いた詩です。
『これはすべて王の仕事であり、私だけがこれほど苦労している』
と言っています。ですから詩を解釈するときは、単純な文字で意味を損なってはなりません。辞で志を損なうこともできません。志を推し量りながら解釈するのが正しいのです。
もし辞だけをそのまま取るならば、『雲漢』の詩に
『周の黎民は一人も残らなかった』
とあります。これを信じるならば、周には一人の民も残らなかったことになります。
孝子としての至上の行いは親を尊ぶことであり、尊ぶことの極みは天下をもって養うことです。親を天子の父とするのは尊敬の極みであり、天下をもって養うのは養うことの極みです。
『詩』にはこうあります。
『孝の思いを常に持つこと、それこそが模範となる』
これを指しているのです。また、『書』には
『舜が瞽瞍に拝謁したとき、非常に慎み深く謹んでいた。瞽瞍もまたその態度を良しとした』
とあります。これこそが、父を子にすることができないという意味です。」
萬章曰:「堯以天下與舜,有諸?」孟子曰:「否,天子不能以天下與人。」「然則舜有天下也,孰與之?」曰:「天與之。」「天與之者,諄諄然命之乎?」曰:「否,天不言,以行與事示之而已矣。」曰:「以行與事示之者,如之何?」曰:「天子能薦人於天,不能使天與之天下;諸侯能薦人於天子,不能使天子與之諸侯;大夫能薦人於諸侯,不能使諸侯與之大夫。昔者堯薦舜於天而天受之,暴之於民而民受之。故曰:天不言,以行與事示之而已矣。」曰:「敢問薦之於天而天受之,暴之於民而民受之,如何?」曰:「使之主祭而百神享之,是天受之。使之主事而事治,百姓安之,是民受之也。天與之,人與之,故曰:天子不能以天下與人。舜相堯,二十有八載,非人之所能爲也,天也。堯崩,三年之喪畢,舜避堯之子於南河之南。天下諸侯朝覲者,不之堯之子而之舜;訟獄者,不之堯之子而之舜;謳歌者,不謳歌堯之子而謳歌舜;故曰『天』也。夫然後之中國,踐天子位焉。而居堯之宮,逼堯之子,是『篡』也,非『天與』也。《泰誓》曰:『天視自我民視,天聽自我民聽』,此之謂也。」
萬章曰く、堯天下を以て舜に與ふと。諸れありや。孟子曰く、否、天子は天下を以て人に與ふること能はず。然らば則ち舜の天下を有つや、孰れか之を與ふる。曰く、天之を與ふ。天之を與ふとは諄諄然として之を命ずるか。曰く、否、天言ず。行と事とを以て之に示すのみ。曰く、行と事とを以て之に示すとは之を如何。曰く、天子能く人を天に薦む,天をして之に天下を與へしむること能はず。諸侯能く人を天子に薦む,天子をして之に諸侯を與へしむること能はず。大夫能く人を諸侯に薦む,諸侯をして之に大夫を與へしむること能はず。昔者堯、舜を天に薦めて天之を受け、之を民に暴はして民之を受く。故に曰く、天言ず,行と事とを以て之に示すのみと。曰く、敢て問ふ、之を天に薦めて天之を受け、之を民に暴して、民之を受くと、如何。曰く、之をして祭を主らしめて百神之を享く。是れ天之を受くるなり。之をして事を主らしめて事治まり、百姓之に安んず。是れ民之を受くるなり。天之を與へ、人之を與ふ。故に曰く、天子は天下を以て人に與ふること能はずと。舜、堯に相たること二十有八載、人の能く爲す所に非ず、天なり。堯崩じ、三年の喪畢りて、舜、堯の子に南河の南に避く。天下の諸侯朝覲する者堯の子に之かずして舜に之き、訟獄する者堯の子に之かずして舜に之き、謳歌する者堯の子を謳歌せずして、舜を謳歌す。故に曰く、天なり。夫れ然る後に中國に之きて天子の位を踐めり。而るを堯の宮に居り堯の子に逼らば是れ篡へるなり。天の與ふるにあらざるなり。泰誓に曰く、天の視るは我民に自つて視る、天の聽くは我民に自つて聽くとは、此れの謂なり。
万章が尋ねました。
「堯は天下を舜に譲ったとされていますが、これは事実ですか?」
孟子が答えました。
「いいえ。天子が天下を誰かに与えることはできません。」
万章がさらに尋ねました。
「では、舜が天下を得たのは誰が与えたのですか?」
孟子は答えました。
「天が与えたのです。」
万章が続けて尋ねました。
「天が与えたというのは、明確に命じたのでしょうか?」
孟子は答えました。
「いいえ。天は言葉を持ちません。ただ行いと事実を通して示すだけです。」
万章が問いました。
「行いと事実を通して示すとはどういうことですか?」
孟子が答えました。
「天子は優れた人物を天に推薦することはできますが、天に天下を与えさせることはできません。同様に、諸侯は優れた人物を天子に推薦できますが、天子がその人物に諸侯の地位を与えることはできません。大夫も優れた人物を諸侯に推薦できますが、諸侯がその人物に大夫の地位を与えることはできません。
かつて堯は舜を天に推薦し、天はこれを受け入れました。そして、民に示し、民もこれを受け入れました。ですから、天が言葉を持たないとは、行いと事実を通じて示すという意味です。」
万章が尋ねました。
「天に推薦され、天が受け入れ、民に示されて民が受け入れるとはどういうことですか?」
孟子が答えました。
「舜を主祭者とし、百神が彼を受け入れたことが、天が受け入れた証拠です。また、舜を主務者として任命し、彼が治めたことで百姓が安らかになったことが、民が受け入れた証拠です。
天が与え、人が与えたのです。だからこそ、天子が天下を直接誰かに与えることはできないのです。舜は堯の補佐役を二八年間務めました。これは人間の力だけでは成し得ないことであり、天の助けによるものです。
堯が崩じた後、舜は三年間喪に服し、その後、堯の子を避けて南河の南に身を寄せました。しかし、天下の諸侯は堯の子にではなく舜に朝貢しました。訴訟や争い事を抱える人々も堯の子ではなく舜のもとを訪れました。民の歌は堯の子を称えるものではなく舜を讃えるものでした。これが天が与えた証です。
その後、舜は中国の中心に戻り、天子の位に就きました。そして堯の宮殿に住み、堯の子を圧迫するような形で権力を握るならば、それは篡奪であり、天の意思によるものではありません。
『泰誓』にはこうあります。
『天は民の目で見、天は民の耳で聞く』
これがその意味です。」
萬章問曰:「人有言『至於禹而德衰,不傳於賢而傳於子』,有諸?」孟子曰:「否然也。天與賢則與賢,天與子則與子。昔者舜薦禹於天,十有七年;舜崩,三年之喪畢,禹避舜之子於陽城;天下之民從之,若堯崩之後不從堯之子而從舜也。禹薦益於天,七年,禹崩,三年之喪畢,益避禹子於箕山之陰;朝覲訟獄者,不之益而之啟,曰:『吾君之子也。』謳歌者不謳歌益而謳歌啟,曰:『吾君之子也。』丹朱之不肖,舜之子亦不肖;舜之相堯、禹之相舜也,歷年多,施澤於民久。啟賢,能敬承繼禹之道;益之相禹也,歷年少,施澤於民未久。舜、禹、益相去久遠,其子之賢不肖皆天也,非人之所能爲也。莫之爲而爲者,天也;莫之致而至者,命也。匹夫而有天下者,德必若舜禹,而又有天子薦之者;故仲尼不有天下。繼世而有天下,天之所廢,必若桀紂者也;故益、伊尹、周公不有天下。伊尹相湯以王於天下,湯崩,太丁未立,外丙二年,仲壬四年。太甲顛覆湯之典刑,伊尹放之於桐三年;太甲悔過,自怨自艾,於桐處仁遷義,三年以聽伊尹之訓己也,復歸于亳。周公之不有天下,猶益之於夏、伊尹之於殷也。孔子曰:『唐虞禪,夏後、殷、周繼,其義一也。』」
萬章問ひて曰く、人言へることあり。禹に至つて德衰へ、賢に傳へずして子に傳ふと。諸れありや。孟子曰く、否、然らざるなり。天賢に與ふれば則ち賢に與へ、天子に與ふれば則ち子に與ふ。昔者舜禹を天に薦むること十有七年、舜崩じ、三年の喪畢つて、禹、舜の子に陽城に避く、天下の民之に從ふこと、堯崩ずるの後、堯の子に從はずして舜に從ふが若し。禹、益を天に薦むること七年、禹、崩じ三年の喪畢りて、益、禹の子に箕山の陰に避く。朝覲訟獄する者益に之かずして啟に之く。曰く、吾が君の子なりと。謳歌する者、益を謳歌せずして啟を謳歌す。曰く、吾が君の子なりと。丹朱の不肖、舜の子亦不肖、舜の堯に相たる、禹の舜に相たる、年を歷ること多く、澤を民に施すこと久し。啟賢にして能く敬んで禹の道を承繼す。益の禹に相たる年を歷ること少く、澤を民に施すこと未だ久しからず。舜・禹・益相去ること久遠、其子の賢不肖は皆天なり。人の能く爲す所に非ざるなり。之を爲す莫くして爲る者は天なり。之れを致す莫くして至る者は命なり。匹夫にして天下を有つ者は、德必ず舜・禹の若くにして又天子の之を薦むる者あり。故に仲尼は天下を有たず。世を繼ぎて天下を有つ。天の廢する所必ず桀紂の若くなる者なり。故に益・伊尹・周公は天下を有たず。伊尹、湯に相として以て天下に王たらしむ。湯崩じて太丁未だ立たず。外丙は二年、仲壬は四年、太甲、湯の典刑を顛覆す。伊尹之を桐に放くこと三年、太甲過を悔い、自ら怨み自ら艾めて、桐に於て仁に處り義に遷る三年、以て伊尹の己を訓ふるを聽く。亳に復歸す。周公の天下を有たざるは猶ほ益の夏に於ける、伊尹の殷に於けるがごときなり。孔子曰く、唐虞は禪り、夏・殷・周は繼ぐ、其義一なりと。
万章が尋ねました。
「『禹の時代になると徳が衰え、天下は賢者に伝わらず子孫に伝えられた』という話がありますが、それは本当ですか?」
孟子は答えました。
「いいえ、それは違います。天が賢者に与えようとすれば賢者に与え、天が子孫に与えようとすれば子孫に与えるのです。かつて舜は禹を天に推薦し、その後一七年間、舜は禹を補佐として務めました。舜が崩じた後、三年間喪に服し、禹は舜の子を避けて陽城に移りました。しかし、天下の民は舜の子ではなく禹に従いました。それは堯が崩じた後、堯の子ではなく舜に民が従ったのと同じです。
禹は益を天に推薦し、その後七年間益を補佐としましたが、禹が崩じた後、三年間喪に服し、益は禹の子である啟を避けて箕山の陰に退きました。しかし、朝見し訴訟を持ち込む者たちは益ではなく啟を訪れ、『我々の君の子である』と述べました。民の歌も益を称えるものではなく啟を讃えるものでした。これが天の意思によるものです。
舜の子である丹朱は不肖でしたが、舜や禹が長期間民に恩恵を施したのと比べ、益が禹を補佐した期間は短く、その恩恵が十分に行き渡らなかったのです。啟は賢く、禹の道を敬い受け継ぎました。
これらは人が為すことではなく、天の意思によるものです。天が定めることであり、人間の力ではどうにもなりません。もし一介の庶民が天下を得るとすれば、それは舜や禹のように徳が高く、さらに天子の推薦を受けた者でなければなりません。そのため孔子も天下を得ることはありませんでした。
また、世襲によって天下を得る者が天から廃される場合、それは桀や紂のような暴君が現れたときです。したがって、益、伊尹、周公は天下を得ることはありませんでした。
伊尹は湯を補佐して天下を治めましたが、湯が崩じた後、太丁が立たず、外丙が二年、仲壬が四年統治しました。太甲が即位しましたが、湯の統治規範を破り、伊尹は彼を桐に放逐しました。しかし、太甲は三年後に悔い改め、自らを責め、桐にて仁と義を身に付けました。その後、亳に復帰し、伊尹の教えを受け入れました。
周公が天下を得なかったのは、夏の益や殷の伊尹と同じ理由です。孔子はこう言いました。
『唐虞の禅譲も、夏后、殷、周の世襲も、義の本質は同じである』と。」
萬章問曰:「人有言『伊尹以割烹要湯』,有諸?」孟子曰:「否,不然。伊尹耕於有莘之野,而樂堯舜之道焉。非其義也,非其道也,祿之以天下弗顧也,繫馬千駟弗視也。非其義也,非其道也,一介不以與人,一介不以取諸人。湯使人以幣聘之。囂囂然曰:『我何以湯之聘幣爲哉?我豈若處畎畝之中,由是以樂堯舜之道哉?』湯三使往聘之。既而幡然改曰:『與我處畎畝之中,由是以樂堯舜之道,吾豈若使是君爲堯舜之君哉?吾豈若使是民爲堯舜之民哉?吾豈若於吾身親見之哉?天之生此民也,使先知覺後知,使先覺覺後覺也。予,天民之先覺者也。予將以斯道覺斯民也,非予覺之而誰也?』思天下之民匹夫匹婦有不被堯舜之澤者,若己推而內之溝中。其自任以天下之重如此,故就湯而說之以伐夏救民。吾未聞枉己而正人者也,況辱己以正天下者乎?聖人之行不同也,或遠或近,或去或不去,歸潔其身而已矣。吾聞其以堯舜之道要湯,未聞以割烹也。《伊訓》曰:『天誅造攻自牧宮,朕載自亳。』」
萬章問うて曰く、人言へることあり。伊尹割烹を以て湯に要むと。諸れありや。孟子曰く、否、然らず。伊尹有莘の野に耕して堯舜の道を樂しむ。其義にあらず、其道にあらざれば、之に祿するに天下を以てするも顧ざるなり。繫馬千駟も視ざるなり。其義にあらず、其道にあらざれば、一介も以て人に與へず、一介を以て諸れを人に取らず、湯人をして幣を以て之を聘せしむ。囂囂然として曰く、我何ぞ湯の聘幣を以て爲さんや。我豈に畎畝の中に處り、是に由りて以て堯舜の道を樂むに若かんや。湯三たび往きて之を聘せしむ。既にして幡然として改めて曰く、我畎畝の中に處り、是に由りて以て堯舜の道を樂まんよりは、吾豈に是の君をして堯舜の君たらしむるに若かんや。吾豈に是民をして堯舜の民たらしむるに若かんや。吾豈に吾身に於て親しく之を見るに若かんや。天の此民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむ。予は天民の先覺なる者なり。予將に斯の道を以て、斯の民を覺さんとするなり。予之を覺すに非ずして誰ぞやと。天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者あれば、己推して之を溝中に內るゝが若しと思ふ。其自ら任ずるに天下の重きを以てすること此の如し。故に湯に就きて之に說くに夏を伐ち民を救ふを以てす。吾未だ己を枉げて、人を正す者を聞かざるなり。況んや己を辱しめ以て天下を正す者をや。聖人の行同じからざるなり。或ひは遠く、或ひは近く、或ひは去り、或ひは去らず、其身を潔くするに歸するのみ。吾其の堯舜の道を以て湯に要むるを聞く。未だ割烹を以てすることを聞かざるなり。伊訓に曰く、天誅攻を造すは牧宮よりすと。朕亳より載むと。
万章が尋ねました。
「『伊尹は割烹を条件に湯に仕えた』という話がありますが、本当でしょうか?」
孟子が答えました。
「いいえ、それは違います。伊尹は有莘の野で農耕をしながら堯舜の道を楽しんでいました。彼は義に反すること、道に反することを決して行わず、たとえ天下を与えられるとしても顧みず、千頭の馬が繋がれた車を贈られても見向きもしませんでした。
彼は義に反すること、道に反することを決して受け入れず、わずか一粒の穀物でも人に与えたり、人から取ったりしませんでした。湯が使者を送って財物を贈り伊尹を招こうとしましたが、伊尹はこう言いました。
『私は何故湯の贈り物を受ける必要があるのか?むしろ田畑の中で堯舜の道を楽しむ方が良いではないか』
湯が三度も使者を送り、伊尹はついに態度を改めてこう言いました。
『私が田畑の中で堯舜の道を楽しむより、この湯を堯や舜のような君主にし、人民を堯舜の民とし、自分自身でそれを目の当たりにする方が良いではないか?天がこの民を生んだのは、先に知る者が後に知る者を啓発するためだ。私は天民の先に目覚めた者である。この道を持って人民を啓発するのは私でなくて誰がするのか?』
彼は天下の民、すべての庶民が堯舜の恩恵を受けられないことを、自分が彼らを溝に押しやったように感じ、自ら天下の重責を担いました。そのような思いから湯のもとに赴き、堯舜の道を説き、夏を討伐して民を救ったのです。
私は、己を曲げて人を正す者を聞いたことがありません。ましてや、己を辱めて天下を正す者がいるなど聞いたことがありません。聖人の行動はさまざまで、ある者は遠ざかり、ある者は近づき、ある者は去り、ある者は留まり、自らの身を潔白にすることを目指しました。
私は伊尹が堯舜の道を湯に説いた話は聞いたことがありますが、割烹を条件に仕えたという話は聞いたことがありません。『伊訓』にはこう書かれています。
『天が命じて攻撃を始めるにあたり、牧宮を離れて私は亳に行った』と。」
萬章問曰:「或謂『孔子於衞主癰疽,於齊主侍人瘠環』,有諸乎?」孟子曰:「否,不然也,好事者爲之也。於衞,主顏讎由。彌子之妻與子路之妻,兄弟也。彌子謂子路曰:『孔子主我,衞卿可得也。』子路以吿,孔子曰:『有命。』孔子進以禮,退以義,得之不得曰:『有命』。而主癰疽與侍人瘠環,是無義無命也。孔子不悅於魯衞,遭宋桓司馬,將要而殺之,微服而過宋。是時孔子當厄,主司城貞子,爲陳侯周臣。吾聞觀近臣,以其所爲主;觀遠臣,以其所主。若孔子主癰疽與侍人瘠環,何以爲孔子?」
萬章問ひて曰く、或ひと謂ふ、孔子衞に於ては癰疽を主とし、齊に於ては侍人瘠環を主とせりと。諸れありや。孟子曰く、否、然らざるなり。事を好む者之を爲すなり。衞に於て顏讎由を主とす。彌子の妻と子路の妻とは兄弟なり。彌子、子路に謂つて曰く、孔子我を主とせば、衞の卿は得べしと。子路以て吿ぐ、孔子曰く、命ありと。孔子進むに禮を以てし、退くに義を以てす。之を得ると得ざると命ありと曰へり。而るに癰疽と侍人瘠環とを主とせば、是れ義なく命なきなり。孔子魯衞に悅ばれず、宋の桓司馬將に要して之を殺さんとするに遭ひ、微服して宋を過ぐ。是の時孔子厄に當れり。司城貞子陳侯周の臣となるを主とせり。吾れ聞く、近臣を觀るには、其の主となる所を以てし、遠臣を觀るには其の主とする所を以てすと。若し孔子、癰疽と侍人瘠環とを主とせば、何を以てか孔子となさん。
万章が尋ねました。
「孔子が衛では癰疽のある者を、斉では痩せて病んだ侍人を仕えたという話がありますが、本当でしょうか?」
孟子が答えました。
「いいえ、それは事実ではありません。これは好事家たちが作り上げた話です。衛において孔子は顔讎由に仕えました。彌子の妻と子路の妻は兄弟関係にありました。彌子が子路に言いました。
『孔子が私に仕えてくれるなら、衛の卿の地位を得られるだろう。』
子路がこれを孔子に伝えると、孔子はこう答えました。
『それは天命によるものだ。』
孔子は礼に従って進み、義に従って退き、得ようが得まいが『それは天命だ』と言いました。癰疽のある者や病んだ侍人に仕えたという話は、義もなく天命もない行為です。
孔子は魯や衛にいることを好んでいましたが、宋の桓司馬が彼を襲って殺そうとしました。そのため孔子は変装して宋を通り過ぎました。この時、孔子は困難に遭い、司城貞子に仕え、陳侯に忠義を尽くしました。
私は、近くの臣を観察するときはその仕える対象を基準とし、遠くの臣を見るときはその主君を基準にするべきだと聞いています。もし孔子が癰疽のある者や病んだ侍人に仕えたとするなら、どうしてそれが孔子であろうと言えるでしょうか?」
萬章問曰:「或曰:『百里奚自鬻於秦養牲者,五羊之皮。食牛,以要秦繆公。』信乎?」孟子曰:「否然,好事者爲之也。百里奚,虞人也。晉人以垂棘之璧與屈產之乘,假道於虞以伐虢。宮之奇諫,百里奚不諫,知虞公之不可諫而去。之秦,年已七十矣,曾不知以食牛干秦繆公之爲污也,可謂智乎?不可諫而不諫,可謂不智乎?知虞公之將亡而先去之,不可謂不智也。時舉於秦,知繆公之可與有行也而相之,可謂不智乎?相秦而顯其君於天下,可傳於後世,不賢而能之乎?自鬻以成其君,鄉黨自好者不爲,而謂賢者爲之乎?」
萬章問ひて曰く、或ひと曰く、百里奚自ら秦の牲を養ふ者に五羊の皮に鬻ぎ、牛を食うて以て秦の繆公に要むと。信なるか。孟子曰く、否、然らず。事を好む者之を爲すなり。百里奚は虞人なり。晉人垂棘の璧と屈產の乘を以て道を虞に假りて以て虢を伐つ。宮之奇諫む。百里奚は諫めず。虞公の諫む可からざるを知りて去りて、秦に之く。年已に七十なり。曾て牛を食ふを以て秦の繆公に干むる、污たることを知らざるや、智と謂ふ可けんや。諫む可からずして諫めず、不智と謂ふ可けんや。虞公の將に亡びんとするを知りて先づ之を去る、不智と謂ふ可からざるなり。時に秦に舉げられ繆公の與に行ふある可きを知りて之を相く、不智と謂ふ可けんや。秦を相けて其君を天下に顯はし、後世に傳ふ可くす、不賢にして之を能くせんや。自ら鬻ぎて以て其君を成すは、鄉黨の自ら好みする者も爲さず、而るを賢者之を爲すと謂はんや。
万章が尋ねました。
「百里奚が秦に身を売り、家畜の世話をしていたという話があります。五羊の皮を持ち、牛を飼うことで秦の穆公に取り入ったと言われていますが、これは本当ですか?」
孟子が答えました。
「いいえ、それは事実ではありません。それもまた好事家たちの作り話です。百里奚は虞の国の人でした。晋の国が垂棘の宝玉と屈産の馬車を用いて虞の国から道を借り、虢を攻めました。この際、宮之奇が諫めましたが、百里奚は諫めませんでした。
百里奚は虞公に諫言しても無駄であると悟り、虞を去って秦に向かいました。当時すでに彼は七十歳でした。牛を飼うことで穆公に取り入るような行動が、自身を汚す行為だと理解できない人物だったと言えるでしょうか?
諫言すべきでない相手には諫めないことが愚かと言えるでしょうか?むしろ、虞公が滅ぶ運命であると予見し、その前に虞を去ったことは、百里奚が賢明であった証拠です。
秦で抜擢され、穆公とともに大きな功績を成し、穆公を天下に顕著な存在としたのは、彼の知恵によるものです。それが後世に語り継がれる結果となりました。もし賢者でなければ、どうしてそれが可能だったでしょうか?
自らを売り、屈辱を忍んで君主の成功を助けるようなことを、普通の人間でさえしないのに、賢者がそのような行動をすると思いますか?」
孟子曰:「伯夷目不視惡色,耳不聽惡聲。非其君不事,非其民不使。治則進,亂則退。橫政之所出,橫民之所止,不忍居也。思與鄉人處,如以朝衣朝冠坐於涂炭也。當紂之時,居北海之濱,以待天下之淸也。故聞伯夷之風者,頑夫廉,懦夫有立志。伊尹曰:『何事非君?何使非民?』治亦進,亂亦進。曰:『天之生斯民也,使先知覺後知,使先覺覺後覺。予,天民之先覺者也;予將以此道覺此民也。』思天下之民匹夫匹婦有不與被堯舜之澤者,如己推而內之溝中。其自任以天下之重也。柳下惠不羞污君,不辭小官。進不隱賢,必以其道。遺佚而不怨,厄窮而不憫。與鄉人處,由由然不忍去也。『爾爲爾,我爲我,雖袒裼裸裎於我側,爾焉能浼我哉?』故聞柳下惠之風者,鄙夫寬,薄夫敦。孔子之去齊,接淅而行。去魯,曰:『遲遲吾行也。』去父母國之道也。可以速而速,可以久而久,可以處而處,可以仕而仕,孔子也。」
孟子曰く、伯夷は目に惡色を視ず。耳に惡聲を聽かず。其君に非ざれば事へず,其民に非ざれば使はず。治むれば則ち進み、亂るれば則ち退く。橫政の出づる所、橫民の止る所、居るに忍びざるなり。思へらく鄉人と處ること朝衣朝冠を以て涂炭に坐するが如しと。紂の時に當りて、北海の濱に居り以て天下の淸むを待つ。故に伯夷の風を聞く者は頑夫も廉に、懦夫も志を立つることあり。伊尹曰く、何れに事へてか君に非ざる。何れを使うてか民に非ざる。治まるにも亦進み亂るゝにも亦進む。曰く、天の斯の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむ。予は天民の先覺なる者なり。予れ將に此道を以て此民を覺さしめんとするなり。思へらく天下の民匹夫匹婦も堯舜の澤を與り被らざる者あれば、己推して之を溝中に內るゝが如しと。其自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。柳下惠は污君を羞ぢず、小官を辭せず、進みて賢を隱さず、必ず其道を以てす。遺佚して怨みず、厄窮して憫へず。鄉人と處り、由由然として去るに忍びざるなり。爾は爾たり、我は我たり,我が側に袒裼裸裎すと雖も、爾焉んぞ能く我を浼さんやと。故に柳下惠の風を聞く者は、鄙夫も寬に、薄夫も敦し。孔子の齊を去るや、淅を接して行る。魯を去るに曰く、遲遲として吾れ行く。父母の國を去るの道なりと。以て速かなる可くして速かに、以て久しかる可くして久しく、以て處るべくして處り、以て仕ふべくして仕ふるは孔子なり。
孟子が言いました。
「伯夷は、目で悪い景色を見ることを避け、耳で悪い音を聞くことを避けました。正しい君主でなければ仕えず、正しい民でなければ使いませんでした。政治が正しく行われている時には進み出て、乱れている時には退きました。暴政が行われ、乱れた民がいる場所には、決して留まることができないと考えていました。故郷の人々と共にいることすら、まるで朝服を着て泥と炭の中に座っているような苦痛と感じていました。紂の時代には、北海の辺りに身を隠し、天下が清らかになるのを待ちました。このため、伯夷の風(ふう、影響)を聞いた者は、頑固な者でも廉直になり、弱気な者でも志を立てるようになりました。
「伊尹はこう言いました。『どのような事であっても君主に仕え、どのような使役であっても民に命じる。』彼は、政治が正しい時にも乱れている時にも進み出ました。そして言いました。『天がこの民を生んだのは、先に知る者が後に知る者を教え、先に悟る者が後に悟る者を教えるためだ。私は天民の中で先に悟った者であり、この道をもって民を教えるつもりだ。』彼は天下の民、一人ひとりが堯舜の恩恵を受けられないことを、あたかも自らが彼らを溝に突き落としたように痛みを感じていました。そのため、彼は天下の重責を担っていると自覚していたのです。
「柳下惠は、汚れた君主に仕えることを恥じず、低い地位を断らず、進んでも賢者を隠さず、必ず正しい道を貫きました。捨てられても怨まず、困窮しても憐れまず、故郷の人々と共にいても平然として離れようとしませんでした。『お前はお前であり、私は私だ。たとえお前が私の隣で裸で振る舞おうとも、私を汚すことなどできない。』そのため、柳下惠の風(ふう、影響)を聞いた者は、鄙の者でも寛容になり、薄情な者でも厚情になるのです。
「孔子は、斉を去るときには準備を整えて行動し、魯を去るときには『ゆっくりと進む』と言いました。これは、親の国を離れることの道理に従ったのです。急ぐべき時は急ぎ、留まるべき時は留まり、仕えるべき時は仕える、それが孔子のあり方でした。」
孟子曰:「伯夷,聖之淸者也;伊尹,聖之任者也;柳下惠,聖之和者也;孔子,聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者,金聲而玉振之也。金聲也者,始條理也;玉振之也者,終條理也。始條理者,智之事也;終條理者,聖之事也。智,譬則巧也;聖,譬則力也。由射於百步之外也;其至,爾力也;其中,非爾力也。」
孟子曰く、伯夷は聖の淸なる者なり。伊尹は聖の任なる者なり。柳下惠は聖の和なる者なり。孔子は聖の時なる者なり。孔子は之を集めて大成すと謂ふ。集めて大成すとは、金聲り玉之を振むるなり。金聲るとは條理を始むるなり。玉之を振むとは條理を終ふるなり。條理を始むるは智の事なり、條理を終ふるは聖の事なり。智は譬へば則ち巧なり。聖は譬へば則ち力なり。由ほ百步の外に射るがごとし。其至るは爾の力なり。其中るは爾の力に非ざるなり。
「伯夷は清廉さにおいて聖なる者でした。伊尹は任務を全うすることにおいて聖なる者でした。柳下惠は和の心において聖なる者でした。そして孔子は時機を捉えることにおいて聖なる者でした。孔子こそ、大成を集めた人物といえます。
『大成を集める』とは、金の音で始まり、玉の音で終わるようなものです。金の音は物事を整える初めであり、玉の音は物事を整える終わりです。初めを整えるのは知恵の働きであり、終わりを整えるのは聖なる力の働きです。知恵は巧みさに例えられ、聖なる力は力強さに例えられます。百歩離れた場所に的を射るようなものです。その矢が到達するのはあなたの力によりますが、的に当てることは力だけでは成し遂げられません。」
北京锜問曰:「周室班爵祿也,如之何?」孟子曰:「其詳不可得聞也,諸侯惡其害己也,而皆去其籍。然而軻也嘗聞其略也。天子一位,公一位,侯一位,伯一位,子、男同一位,凡五等也。君一位,卿一位,大夫一位,上士一位,中士一位,下士一位,凡六等。天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男五十里,凡四等。不能五十里,不達於天子,附於諸侯,曰附庸。天子之卿受地視侯,大夫受地視伯,元士受地視子、男。大國地方百里,君十卿祿,卿祿四大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。次國地方七十里,君十卿祿,卿祿三大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。小國地方五十里,君十卿祿,卿祿二大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。耕者之所獲,一夫百畝;百畝之糞,上農夫食九人,上次食八人,中食七人,中次食六人,下食五人。庶人在官者,其祿以是爲差。
北京锜問ひて曰く、周室に爵祿を班すること之を如何。孟子曰く、其詳なることは、聞くを得べからざるなり。諸侯其の己を害するを惡みて皆其籍を去る。然れども軻や嘗て其略を聞けり。天子一位、公一位、侯一位、伯一位、子男同じく一位、凡て五等なり。君一位、卿一位、大夫一位、上士一位、中士一位、下士一位、凡て六等。天子の制地方千里を公侯は皆方百里、伯は七十里、子男は五十里,凡て四等。五十里なること能はずして天子に達せずして諸侯に附くを附庸と曰ふ。天子の卿は地を受くること侯に視ひ、大夫は地を受くること伯に視ひ、元士は地を受くること子男に視ふ。大國は地方百里、君は卿の祿を十にし、卿の祿は大夫を四にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士下士に倍し、下士は庶人官に在る者と祿を同じくす。祿以て其耕に代ふるに足れり。次國は地方七十里、君は卿の祿を十にし、卿の祿は大夫を三にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士は下士に倍し、下士は庶人官に在る者と祿を同じくす。祿を以て其耕に代ふるに足れり。小國は地方五十里、君は卿の祿を十にす、卿の祿は大夫を二にす、大夫上士に倍す、上士は中士に倍す、中士下士に倍す、下士は庶人官に在る者と祿を同じくす、祿は以て其耕に代ふるに足る。耕す者の獲る所、一夫百畝、百畝の糞へる、上農夫は九人を食ひ、上の次は八人を食ひ、中は七人を食ひ、中の次は六人を食ひ、下は五人を食ふ。庶人の官にある者は、其祿是を以て差となす。
北宮錡が尋ねました。
「周王朝が爵位や俸禄を分け与えた制度について、どう思われますか?」
孟子は答えました。
「その詳細については今では知ることが難しいです。諸侯たちはこの制度が自分たちの利害を害するものと考え、その記録を廃棄してしまいました。しかし、私が聞いたその概要についてお話ししましょう。
天子には一位、公爵には一位、侯爵には一位、伯爵には一位、子爵と男爵は一位を共有しています。これで合計五等です。また、君主には一位、卿には一位、大夫には一位、上士には一位、中士には一位、下士には一位と、これで六等に分かれています。
天子の所領は四方千里、公侯は百里、伯爵は七十里、子爵と男爵は五十里です。これが四等級の所領の基準です。五十里の領地を持たない者は天子に直接仕えることができず、諸侯に附属する者として『附庸』と呼ばれます。天子の卿は侯爵の領地を基準にし、大夫は伯爵を基準にし、元士(士の最上位)は子爵・男爵を基準にします。
大国では、領地は四方百里で、君主の俸禄は十卿分に相当します。卿は四大夫分、大夫は上士の二倍、上士は中士の二倍、中士は下士の二倍、下士は官職につく庶人と同じ俸禄です。その俸禄は耕作を免除するに十分な量が与えられました。
次に中規模の国では、領地は四方七十里で、君主の俸禄は十卿分、卿は三大夫分、大夫は上士の二倍、上士は中士の二倍、中士は下士の二倍です。俸禄は耕作を免除するに十分な量が与えられます。
小規模の国では、領地は四方五十里で、君主の俸禄は十卿分、卿は二大夫分、大夫は上士の二倍、上士は中士の二倍、中士は下士の二倍です。俸禄は同じく耕作を免除するに十分な量が与えられます。
耕作する者が得る収穫量は一人あたり百畝です。この百畝を適切に肥やせば、最上級の農夫は九人を養い、その次は八人、中等は七人、その次は六人、最下級は五人を養うことができます。官職につく庶人の俸禄も、この基準に基づいて決められていました。」
萬章問曰:「敢問友。」孟子曰:「不挾長,不挾貴,不挾兄弟而友。友也者,友其德也,不可以有挾也。孟獻子,百乘之家也,有友五人焉:樂正裘、牧仲,其三人則予忘之矣。獻子之與此五人者友也,無獻子之家者也。此五人者亦有獻子之家,則不與之友矣。非惟百乘之家爲然也,雖小國之君亦有之。費惠公曰:『吾於子思則師之矣,吾於顏般則友之矣,王順、長息,則事我者也。』非惟小國之君爲然也,雖大國之君亦有之。晉平公之於亥唐也,入云則入,坐云則坐,食云則食。雖疏食菜羹,未嘗不飽,蓋不敢不飽也。然終於此而已矣,弗與共天位也,弗與治天職也,弗與食天祿也。士之尊賢者也,非王公之尊賢也。舜尙見帝,帝館甥于貳室,亦饗舜,迭爲賓主,是天子而友匹夫也。用下敬上,謂之貴貴;用上敬下,謂之尊賢。貴貴、尊賢,其義一也。」
萬章問ひて曰く、敢て友を問ふ。孟子の曰く、長を挾まず、貴を挾まず、兄弟を挾まずして友たり。友とは其德を友とするなり。以て挾むことある可からざるなり。孟獻子の百乘の家、友五人あり。樂正裘・牧仲、其三人は則ち予之を忘れたり。獻子が此五人者と友たるや、獻子の家を無しとするなり。此五人の者も亦獻子の家ありとすれば、則ち之と友たらず。惟百乘の家のみ然りとなすに非ざるなり、小國の君と雖も亦之れなり。費の惠公の曰く、吾子思に於ては則ち之を師とし、吾顏般に於ては則ち之を友とし、王順・長息は則ち我に事ふる者なり。』惟小國の君のみ然りと爲すに非ざるなり、大國の君と雖も亦之れあり。晉の平公の亥唐に於けるや、入れと云へば則ち入り、坐せと云へば則ち坐し、食へと云へば則ち食ふ。疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かずんばあらざるなり。蓋し敢て飽かずんばあらず。然れども此に終るのみ。與に天位を共にせざるなり。與に天職を治めざるなり。與に天祿を食せざるなり。士の賢者を尊ぶや、王公の賢を尊ぶに非ざるなり。舜尙りて帝に見ゆ。帝、甥を貳室に館し、亦舜を饗して迭に賓主となる。是れ天子にして、匹夫を友とするなり。下を用つて上を敬する之を貴を貴ぶと謂ふ。上を用つて下を敬する、之を賢を尊ぶと謂ふ。貴を貴ぶと賢を尊ぶと其義一なり。
万章が尋ねました。
「友とはどのようなものか、お聞きしたいのですが。」
孟子は答えました。
「友とは、長所をひけらかさず、地位や財産、家族の力を頼りにせずに交わるものです。友は徳を友とするものであり、何かを頼りにしてはなりません。
孟献子は、百乗の家(非常に富裕な家のこと)で、五人の友がいました。その中には楽正裘、牧仲がいましたが、残りの三人については私は忘れてしまいました。献子がこれら五人と友であったのは、彼らが献子の家柄に頼ることなく交際していたからです。もしこの五人が献子の家柄を頼りにするようであれば、友として付き合うことはなかったでしょう。このことは、百乗の家だけに限った話ではありません。
小国の君主ですら、同様のことが言えます。たとえば、費惠公は次のように言いました。『私は子思を師と仰ぎ、顔般を友とし、王順や長息は私に仕える者だ。』このように、小国の君主でも友を分けていました。そして、大国の君主でも同じです。
晋の平公は亥唐という賢者に対し、亥唐が「入る」と言えば一緒に入り、「座る」と言えば座り、「食べる」と言えば食べました。たとえ粗末な食事であっても、いつも満腹になるまで食べました。これは、亥唐の尊敬の念からです。しかし、それ以上の関係ではありませんでした。彼に天子の地位を共有させることも、天子の職務を任せることも、天子の俸禄を分け与えることもありませんでした。士が賢者を尊ぶのは、王や公が賢者を尊ぶのとは異なります。
舜も帝と出会ったとき、帝は甥を貳室(客室)に迎え入れるようにして舜をもてなしました。帝は舜と互いに賓主を交代しながら食事を楽しみました。これは天子が一介の庶民と友として交わる姿でした。地位の低い者が高い者を敬うのを『貴貴』と呼び、高い者が低い者を敬うのを『尊賢』と呼びます。『貴貴』と『尊賢』の本質は同じです。」
萬章曰:「敢問交際何心也?」孟子曰:「恭也。」曰:「卻之卻之爲不恭,何哉?」曰:「尊者賜之,曰:『其所取之者,義乎不義乎?』而後受之,以是爲不恭,故弗卻也。」曰:「請無以辭卻之,以心卻之,曰:『其取諸民之不義也。』而以他辭無受,不可乎?」曰:「其交也以道,其接也以禮,斯孔子受之矣。」萬章曰:「今有御人於國門之外者,其交也以道,其饋也以禮,斯可受御與?」曰:「不可。《康誥》曰:『殺越人于貨,閔不畏死,凡民罔不譈』是不待敎而誅者也。殷受夏,周受殷,所不辭也,於今爲烈,如之何其受之?」曰:「今之諸侯取之於民也,猶御也。『茍善其禮際矣,斯君子受之』,敢問何說也?」曰:「子以爲有王者作,將比今之諸侯而誅之乎?其敎之不改而後誅之乎?夫謂非其有而取之者盜也,充類至義之盡也。孔子之仕於魯也,魯人獵較,孔子亦獵較。獵較猶可,而況受其賜乎?」曰:「然則孔子之仕也,非事道與?」曰:「事道也。」「事道奚獵較也?」曰:「孔子先簿正祭器,不以四方之食供簿正。」曰:「奚不去也?」曰:「爲之兆也,兆足以行矣,而不行,而後去;是以未嘗有所終三年淹也。孔子有見行可之仕,有際可之仕,有公養之仕。於季桓子,見行可之仕也;於衞靈公,際可之仕也;於衞孝公,公養之仕也。」
萬章曰く、敢て問ふ。交際は何の心ぞや。孟子の曰く、恭なり。曰く、之を卻けん。之を卻くるを不恭となすは何ぞや。曰く、尊者之を賜ふに、其の取る所の者は義か不義かと曰ひて而る後之を受く。是を以て不恭となす。故に卻けざるなり。曰く、請ふ辭を以て之を卻くること無く、心を以て之を卻く。其の諸を民に取る不義なりと曰ひて、他の辭を以て受くること無きは不可ならん。曰く、其交るや道を以てし、其接するや禮を以てせば、斯に孔子之を受く。萬章曰く、今人を國門の外に禦むる者あらん。其交るや道を以てし、其饋るや禮を以てせば斯に禦むるを受くべきか。曰く、不可なり。康誥に曰く、人を貨に殺越し閔として死を畏れず。凡そ民譈まざること罔し。是れ敎を待たずして誅する者なり。殷は夏に受け、周は殷に受く、辭せざる所なり。今に於て烈となす。之を如何ぞ其れ之を受けん。曰く、今の諸侯は之を民に取ること猶ほ禦むるがごときなり。茍も其禮際を善くせば、斯に君子之を受く。敢て問ふ、何の說ぞや。曰く、子以爲らく、王者作るあらば、今の諸侯を比して之を誅せんか。其れ之を敎へて改めずして而る後に之を誅せんか。夫れ其有に非ずして、之を取る者は盜なりと謂はば、類を充てて義の盡くるに至らしむ。孔子の魯に仕ふるや、魯人獵較すれば、孔子も亦獵較す。獵較猶ほ可なり、而るを況んや其賜を受くるをや。曰く、然らば則ち孔子の仕ふるや、道を事とするに非ざるか。曰く、道を事とするなり。道を事とせば奚ぞ獵較するや。曰く、孔子先づ簿して祭器を正し、四方の食を以て簿正に供ぜず。曰く、奚ぞ去らざるや。曰く、之が兆を爲すなり、兆以て行ふに足れり。行はれずして後に去る、是を以て未だ嘗て三年を終へて淹まる所あらざるなり。孔子に行可を見るの仕あり、際可の仕あり、公養の仕あり。季桓子に於ては行可を見るの仕なり。衞の靈公に於ては際可の仕なり。衞の孝公に於ては公養の仕なり。
万章が尋ねました。
「交際をする上で、どのような心構えが必要でしょうか?」
孟子は答えました。
「恭しい心です。」
万章がさらに尋ねました。
「賜り物を拒むことは、不恭ではありませんか?」
孟子は答えました。
「尊者が賜り物を与えるとき、それが義にかなっているかどうかを考えてから受け取るのです。それを不恭と見なす人がいますが、だからといって賜り物を拒むべきではありません。」
万章はさらに問いました。
「では、言葉で断らず、心の中で『それは民から不義に取られたものだ』と考え、他の理由を口実にして受け取らないのはどうでしょうか?」
孟子は答えました。
「交わりは道によって行い、接し方は礼によるべきです。そのような場合、孔子でさえ賜り物を受け取るでしょう。」
万章が続けました。
「では、門の外で人を守る兵士が賜り物を礼に従って与えてきた場合、それを受け取るべきですか?」
孟子は答えました。
「受け取るべきではありません。《康誥》には『越人を財のために殺す者は、死を恐れない者であり、すべての民がそれを非難する』とあります。それは教えを待つまでもなく罰せられるべき行為です。殷が夏を、周が殷を受け継いだときも、これを辞退しませんでした。今に至るまでその行為は烈(高潔)とされていますが、そのようなものをどうして受け入れることができるでしょうか?」
万章がさらに尋ねました。
「今の諸侯が民から得るものは、ちょうどその守衛のようなものです。もし礼儀正しく賜り物を渡してきた場合、君子はそれを受け入れるべきではないのでしょうか?」
孟子は答えました。
「王者が現れたとき、すぐに今の諸侯を討つべきだとお考えですか?それとも、教育して改めさせてから討つべきだとお考えですか?義にかなわずに取るものは盗みです。義を充たすことがすべての正義の究極です。孔子が魯に仕えていたとき、魯人が狩猟をして得た物を分配し、その狩猟の一部を孔子も受け取りました。狩猟の分け前を受けるのが可能であるならば、賜り物を受けるのはなおさら可能でしょう。」
万章はさらに尋ねました。
「では、孔子が仕えたのは道のためではないのですか?」
孟子は答えました。
「道のためです。」
万章はさらに追及しました。
「道のために仕えたのなら、なぜ狩猟の分け前を受けたのですか?」
孟子は説明しました。
「孔子はまず祭器の整備に努めました。それに必要な費用を四方からの供給に頼ることはありませんでした。」
万章は尋ねました。
「では、なぜその地を去らなかったのですか?」
孟子は答えました。
「兆しがあると見て行動しました。しかし、兆しが十分に現れても行動しなかった場合に去るのです。だから孔子は三年間その地に留まることがありませんでした。孔子の仕え方には、実行可能性が見える仕え方、環境に適応して仕える方法、公的支援を受けて仕える方法の三つがありました。季桓子のもとでは実行可能性が見える仕え方をしました。衛の霊公のもとでは環境に適応する仕え方をしました。衛の孝公のもとでは公的支援を受けて仕える方法を取りました。」
孟子曰:「仕非爲貧也,而有時乎爲貧;娶妻非爲養也,而有時乎爲養。爲貧者,辭尊居卑,辭富居貧。辭尊居卑,辭富居貧,惡乎宜乎?抱關擊柝。孔子嘗爲委吏矣,曰:『會計當而已矣。』嘗爲乘田矣,曰:『牛羊茁壯,長而已矣。』位卑而言高,罪也。立乎人之本朝而道不行,恥也。」
孟子の曰く、仕ふるは貧の爲めに非ざるなり。而も時あつてか貧の爲めにす。妻を娶るは養の爲めに非ざるなり。而も時ありてか養の爲にす。貧の爲めにする者は尊を辭して卑に居り、富を辭して貧に居る。尊を辭して卑に居り、富を辭して貧に居る。惡れか宜しきや。抱關擊柝なり。孔子嘗て委吏となる。曰く、會計當るのみ。嘗て乘田となる。曰く、牛羊茁として壯長するのみ。位卑くして言高きは罪なり。人の本朝に立ちて道行はれざるは恥なり。
孟子は言いました。
「仕官するのは貧しさのためではありませんが、時には貧しさのために仕官することもあります。結婚するのは養われるためではありませんが、時には養われるために結婚することもあります。貧しさのために仕官する場合、高貴な地位を辞退して卑しい地位に就き、富を辞退して貧しい暮らしを選ぶことになります。高貴な地位を辞退し、富を辞退して低い地位や貧しい暮らしを選ぶのは、何がふさわしいと言えるでしょうか?門番をしたり、夜警をしたりすることです。
孔子もかつては委吏(物品の管理をする係)を務めたことがあります。その時は、『収支が正確であればそれで十分だ』と言いました。また、乗田(農地の管理をする係)を務めたこともあります。その時は、『牛や羊が健やかに育てばそれで十分だ』と言いました。
低い地位にありながら高いことを語るのは罪です。また、権力者のいる場にいながら正道を行えないのは恥です。」
萬章曰:「士之不托諸侯,何也?」孟子曰:「不敢也。諸侯失國而後托於諸侯,禮也。士之托於諸侯,非禮也。」萬章曰:「君饋之粟,則受之乎?」曰:「受之。」「受之何義也?」曰:「君之於氓也,固周之。」曰:「周之則受,賜之則不受,何也?」曰:「不敢也。」曰:「敢問其不敢何也?」曰:「抱關擊柝者,皆有常職以食於上。無常職而賜於上者,以爲不恭也。」曰:「君饋之,則受之,不識可常繼乎?」曰:「繆公之於子思也,亟問,亟饋鼎肉。子思不悅,於卒也標使者出諸大門之外,北面稽首再拜而不受,曰:『今而後知君之犬馬畜汲!』蓋自是臺無饋也。悅賢不能舉,又不能養也,可謂悅賢乎?」曰:「敢問國君欲養君子,如何斯可謂養矣?」曰:「以君命將之,再拜稽首而受;其後廩人繼粟,庖人繼肉,不以君命將之。子思以爲鼎肉使己僕僕爾亟拜也,非養君子之道也。堯之於舜也,使其子九男事之,二女女焉,百官牛羊倉廩備,以養舜於畎畝之中,後舉而加諸上位。故曰王公之尊賢者也。」
萬章曰く、士の諸侯に托せざるは何ぞや。孟子曰く、敢てせざるなり。諸侯國を失ひて而る後に諸侯に托す、禮なり。士の諸侯に托するは禮に非ざるなり。萬章曰く、君之に粟を饋れば則ち之を受くるか。曰く、之を受けん。之を受くるは何の義ぞや。曰く、君の氓に於けるや、固より之を周ふ。曰く、之を周へば則ち受く、之を賜へば則ち受けざるは何ぞや。曰く、敢てせざるなり。曰く、敢て問ふ、其の敢てせざるは何そや。曰く、抱關擊柝の者皆常職ありて以て上に食はる。常の職無くして上より賜る者は以て不恭と爲すなり。曰く、君之を饋れば則ち之を受く。識らず、常に繼ぐ可きか。曰く、繆公の子思に於けるや、亟〻問うて亟〻鼎肉を饋る。子思悅ばず。卒に於て使者を標きて諸れを大門の外に出し、北面稽首再拜して受けずして曰く、今にして後、君の汲を犬馬畜するを知ると。蓋し是れより臺も饋ること無し。賢を悅びて舉ぐること能はず。又養ふこと能はざるなり。賢を悅ぶと謂ふ可けんや。曰く、敢て問ふ、國君君子を養はんと欲す、如何にせば斯に養ふと謂ふべきと。曰く、君命を以て之を將ひ、再拜稽首して受く。其後廩人粟を繼ぎ、庖人肉を繼ぎ、君命を以て之を將はずと。子思以爲らく鼎肉は己をして僕僕爾として亟〻拜せしむ。君子を養ふの道に非ざるなり。堯の舜に於けるや、其子九男をして之に事へしめ、二女は焉に女す。百官牛羊倉廩備へて以て舜を畎畝の中に養はしむ。後舉げて諸れを上位に加ふ。故に曰く、王公の賢を尊ぶ者なりと。
万章が尋ねました。
「士(学者や知識人)が諸侯に身を寄せることを避けるのはなぜですか?」
孟子は答えました。
「それは慎みの心からです。諸侯が国を失い、その後に他の諸侯に身を寄せるのは礼にかなっていますが、士が諸侯に身を寄せるのは礼にかなっていません。」
万章はさらに尋ねました。
「もし君主が士に穀物を贈るなら、それを受け取りますか?」
孟子は答えました。
「受け取ります。」
万章が問いました。
「受け取るのはどういう理由ですか?」
孟子は答えました。
「君主が民衆に対して扶助するのは当然のことだからです。」
万章はさらに尋ねました。
「扶助としての贈り物なら受け取るのに、賜物としての贈り物は受け取らないのはなぜですか?」
孟子は答えました。
「それは慎みの心からです。」
万章がまた問いました。
「その慎みの心とはどのようなものですか?」
孟子は答えました。
「門番や夜警のような者たちは、それぞれ職務を果たすことによって君主から給料を得ています。しかし職務がないのに君主から贈り物を受け取るのは、不敬だと考えます。」
万章が尋ねました。
「では、君主が贈り物を与え、それを受け取った場合、継続的に受け取ることは許されますか?」
孟子は答えました。
「例えば、繆公(春秋時代の晋の君主)が子思に対してしばしば鼎の肉(特別な贈り物)を贈りました。しかし子思は不満を抱き、最終的には使者を門外に送り返し、北を向いて礼を尽くしてから贈り物を受け取らないと伝えました。そしてこう言いました。『今後、君主は私を犬馬のように扱うことをお止めください。』これ以降、繆公は子思に贈り物を送るのをやめました。賢者を喜んで招きながらも、適切に待遇できないのは、真に賢者を敬うこととは言えません。」
万章が尋ねました。
「では、国君が君子を養いたいと思った場合、どのようにすれば適切だと言えるのでしょうか?」
孟子は答えました。
「君主の命令をもって贈り物を届けさせ、君子が二度礼を尽くしてそれを受け取る。それ以降は、官僚が粟を届け、料理人が肉を届ける形で行い、再び君主の命令を直接仰ぐことはありません。子思が鼎の肉を受け取らなかったのは、自分が頻繁に礼を尽くさねばならない状況が、君子を養う道に反すると考えたからです。
堯が舜に対して行ったことを見れば明らかです。堯は自分の子九人を舜に仕えさせ、さらに二人の娘を嫁がせ、百官や牛羊、倉廩を揃えて舜を田畑の中で養いました。そして最終的に舜を上位に挙げました。このように行うのが王や諸侯が賢者を敬う道なのです。」
萬章曰:「敢問不見諸侯何義也?」孟子曰:「在國曰市井之臣,在野曰草莽之臣,皆謂庶人。庶人不傳質爲臣,不敢見於諸侯,禮也。」萬章曰:「庶人,召之役,則往役;君欲見之,召之,則不往見之,何也?」曰:「往役,義也;往見,不義也。且君之欲見之也,何爲也哉?」曰:「爲其多聞也,爲其賢也。」曰:「爲其多聞也,則天子不召師,而況諸侯乎?爲其賢也,則吾未聞欲見賢而召之也。繆公亟見於子思,曰:『古千乘之國以友士,何如?』子思不悅,曰:『古之人有言曰:「事之云乎」,豈曰友之云乎?』子思之不悅也,豈不曰:『以位,則子,君也,我,臣也,何敢與君友也?以德,則子事我者也,奚可以與我友?』千乘之君求與之友,而不可得也,而況可召與?
萬章曰く、敢て問ふ、諸侯を見ざるは何の義ぞ。孟子曰く、國に在るを市井の臣と曰ひ、野に在るを草莽の臣と曰ふ、皆庶人と謂ふ。庶人は質を傳へて臣と爲らざれば、敢て諸侯を見ざるは禮なり。萬章曰く、庶人之を召して役すれば則ち往きて役し、君之を見んと欲し之を召せば、則ち往きて之を見ざるは何ぞや。曰く、往きて役するは義なり。往きて見るは不義なり。且つ君の之を見んと欲するは何の爲めぞや。曰く、其多聞なるが爲めか、其賢なるが爲めか。曰く、其多聞なるが爲めならば、則ち天子すら師を召さず。而るを況んや諸侯をや。其賢なるが爲ならば、則ち吾れ未だ賢を見んと欲して之を召すを聞かざるなり。繆公亟〻子思を見て曰く、古千乘の國以て士を友とすと、何如と。子思悅ばずして曰く、古の人言へることあり。曰く、之に事ふと云ふ乎。豈に之を友とすと云ふと曰んやと。子思の悅ばざるや、豈に位を以てすれば則ち子は君なり、我は臣なり、何ぞ敢て君と友たらん、德を以てすれば則ち子は我に事ふるものなり、奚ぞ以て我と友たる可けんと曰ふにあらずや。千乘の君之と友たるを求めて、而ち得べからざるなり。而るを況んや召すべけんや。
万章が尋ねました。
「諸侯に会わないというのは、どういう礼儀や意味があるのでしょうか?」
孟子は答えました。
「都に住む者は『市井の臣』と呼ばれ、郊外に住む者は『草莽の臣』と呼ばれます。これらはいずれも庶人(一般民衆)のことを指します。庶人は、自ら進んで身分を改めて臣下となることも、直接諸侯に会うことも礼に反するのです。」
万章はさらに尋ねました。
「庶人は、召されて労役に赴くことはあります。しかし君主が召しても会いに行かないのは、なぜですか?」
孟子は答えました。
「労役に赴くのは義(正しいこと)です。しかし会いに行くのは義ではありません。それに、君主が庶人に会おうとするのは、何のためでしょうか?」
万章は答えました。
「その知識の広さを求めるためであり、その賢さを尊ぶためです。」
孟子は答えました。
「その知識の広さを求めるためなら、天子ですら師(学者や賢者)を召さないのに、ましてや諸侯が召すべきではありません。その賢さを尊ぶためなら、賢者を求めて会おうとする際には、召すという方法は聞いたことがありません。
例えば、繆公が子思を何度も訪ね、『古の千乗の国(大国)は士を友としたが、それはどういうことか?』と尋ねました。子思は不満を示し、『古人は「仕える」と言うが、どうして「友とする」と言うのか?』と答えました。
子思が不満を示した理由はこうです。『地位においては、あなた(繆公)は君主であり、私は臣下です。どうして君主と臣下が友になることができるでしょうか?もし徳に基づくのであれば、あなたは私に仕えるべき立場です。どうして友人になることができましょうか?』
千乗の国の君主が友を求めても得られないのに、ましてや賢者を召して会うことなどできるでしょうか?
齊景公田,招虞人以旌;不至,將殺之。『志士不忘在溝壑,勇士不忘喪其元。』孔子奚取焉?取非其招不往也。」曰:「敢問招虞人何以?」曰:「以皮冠。庶人以旃,士以旗,大夫以旌。以大夫之招招虞人,虞人死不敢往;以士之招招庶人,庶人豈敢往哉?況乎以不賢人之招招賢人乎?欲見賢人而不以其道,猶欲其入而閉之門也。夫義,路也;禮,門也。惟君子能由是路,出入是門也。《詩》云:『周道如底,其直如矢;君子所履,小人所視。』」萬章曰:「孔子『君命召,不俟駕而行』。然則孔子非與?」曰:「孔子當仕有官職,而以其官召之也。」
齊の景公田し、虞人を招くに旌を以てす。至らず。將に之を殺さんとす。志士は溝壑にあるを忘れず。勇士は其元を喪ふことを忘れず。孔子奚をか取れるや。其招きに非ざれば往かざるを取れるなり。曰く、敢て問ふ。虞人を招くに何を以てする。曰く皮冠を以てす。庶人は旃を以てし、士は旗を以てし、大夫は旌を以てす。大夫の招きを以て虞人を招かば、虞人死すとも敢て往かず。士の招きを以て庶人を招かば、庶人豈に敢て往かんや。況んや不賢人の招きを以て、賢人を招くをや。賢人を見んと欲して其道を以てせざるは、猶ほ其の入るを欲して之が門を閉づるがごとし。夫れ義は路なり、禮は門なり。惟君子は能く是の路に由りて是の門を出入す。詩に云く、周道底の如し。其直きこと矢の如し。君子の履むところ、小人の視る所と。萬章曰く、孔子君命じて召せば、駕を俟たずして行くと。然らば孔子は非なるか。曰く、孔子仕ふるに當つて官職あり。其官を以て之を召せばなり。
かつて斉の景公が狩猟中、虞人(狩猟地を管理する者)を大夫の使う「旌」(長い旗)で招きました。虞人が来なかったため、景公は彼を処刑しようとしました。しかし、志のある士(賢者)はどんな窮地にあっても正義を忘れず、勇士は命を軽んじることを忘れません。孔子はこの話をどう評価したのでしょうか?非礼の招きには応じないことを評価したのです。」
万章が尋ねました。
「では、虞人はどのように招かれるべきだったのでしょうか?」
孟子は答えました。
「虞人には皮冠(簡素な帽子)を使って招くべきです。庶人には『旃』(短い旗)、士には『旂』(紋章旗)、大夫には『旌』を使って招きます。大夫の旗を使って虞人を招くのは礼に反し、虞人は命をかけても応じるべきではありません。同様に、士を庶人の旗で招くのも礼に反します。ましてや賢者を不適切な方法で招くことなどあり得ないのです。
賢者を会わせたいのなら、正しい方法で招かねばなりません。それは、門を閉じたままで中に入ることを求めるようなものです。道徳(義)は道であり、礼儀は門です。君子だけがこの道を通り、この門を出入りすることができます。《詩経》に、『周の道は磨かれた石の道のように平坦で、君子が歩む道である』とあります。これは小人には見えるだけの道である、という意味です。」
万章が尋ねました。
「孔子は君主に召されたとき、車の用意を待たずに出発したと聞きます。それでは孔子は違ったのですか?」
孟子は答えました。
「孔子は仕官して職務を持っており、その職務に基づいて召されたのです。」
孟子謂萬章曰:「一鄉之善士,斯友一鄉之善士;一國之善士,斯友一國之善士;天下之善士,斯友天下之善士。以友天下之善士爲未足,又尙論古之人。頌其詩,讀其書,不知其人,可乎?是以論其世也。是尙友也。」
孟子萬章に謂つて曰はく、一鄉の善士は、斯に一鄉の善士を友とし、一國の善士は、斯に一國の善士を友とし、天下の善士は、斯に天下の善士を友とす。天下の善士を友とするを以て未だ足らずと爲し、又古の人を尙論す。其詩を頌し其書を讀む、其人を知らずして可ならんや。是を以て其世を論ず。是れ尙友なり。
孟子は万章に言いました。
「一つの村の中で善人であれば、その村の善人たちと友となります。一つの国の中で善人であれば、その国の善人たちと友となります。天下の中で善人であれば、天下の善人たちと友となります。しかし、天下の善人たちと友となることだけではまだ満足できないなら、さらに古の人々についても論じるべきです。彼らの詩を讃え、その書物を読み、その人柄を知らずに済ませてよいのでしょうか?それゆえ、その時代についても論じるのです。これがまさに友を尚ぶということです。」
齊宣王問卿。孟子曰:「王何卿之問也?」王曰:「卿不同乎?」曰:「不同,有貴戚之卿,有異姓之卿。」王曰:「請問貴戚之卿。」曰:「君有大過則諫,反覆之而不聽,則易位。」王勃然變乎色。曰:「王勿異也。王問臣,臣不敢不以正對。」王色定,然後請問異姓之卿。曰:「君有過則諫,反覆之而不聽,則去。」
齊の宣王卿を問ふ。孟子曰く、王何の卿を之れ問ふや。王曰く、卿同じからざるか。曰く、同じからず。貴戚の卿あり、異姓の卿あり。王曰く、貴戚の卿を請ひ問ふ。曰く、君大過あれば則ち諫む。之を反覆して聽かれざれば則ち位を易ふ。王勃然として色を變ず。曰く、王異む勿れ。王臣に問ふ。臣敢て正を以て對へずんばあらず。王、色定りて然る後に異姓の卿を請ひて問ふ。曰く、君過あれば則ち諫む。之を反覆して聽かざれば則ち去る。
斉の宣王が孟子に卿(高位の臣)について尋ねました。
宣王:「卿には違いがあるのか?」
孟子は答えました:「はい、異なります。貴族の血縁者である卿(貴戚の卿)と、血縁でない卿(異姓の卿)があります。」
王:「貴戚の卿について教えてほしい。」
孟子:「君主に大きな過ちがあれば諫言(忠告)します。それでも改めない場合には、君主を廃位する権利があります。」
王はこの言葉に顔色を変え、不快な表情を示しました。孟子は言いました:
「王よ、驚かないでください。王が私に尋ねたので、私は正直に答えざるを得ません。」
王は顔色を落ち着けた後、異姓の卿についても尋ねました。
孟子:「君主に過ちがあれば諫言します。それでも聞き入れない場合には、その場を去るのです。」
吿子曰:「性,猶杞柳也;義,猶桮棬也。以人性爲仁義,猶以杞柳爲桮棬。」孟子曰:「子能順杞柳之性而以爲桮棬乎?將戕賊杞柳而後以爲桮棬也?如將戕賊杞柳而以爲桮,則亦將戕賊人以爲仁義與?率天下之人而禍仁義者,必子之言夫!」
吿子曰く、性は猶ほ杞柳のごとし。義は猶ほ桮棬のごとし。人の性を以て仁義を爲すは、猶ほ杞柳を以て桮棬を爲るがごとし。孟子曰く、子能く杞柳の性に順ひて以て桮棬を爲るか、將た杞柳を戕賊して而る後に以て桮棬を爲るか。如し將た杞柳を戕賊して以て桮棬を爲らば、則ち亦た將た人を戕賊して以て仁義を爲すか。天下の人を率ゐて仁義を禍する者は、必ず子の言ならんか。
告子は言いました:
「性は杞柳(木材)のようなものであり、義は杯や棬(器)のようなものだ。人の性を仁義にするのは、杞柳を削って杯や棬を作るのと同じだ。」
孟子は答えました:
「あなたは杞柳の自然な形をそのまま保ちながら杯や棬にすることができますか?それとも、杞柳を傷つけ、破壊してから作りますか?もし杞柳を壊して器にするのなら、人を破壊して仁義にすることも同様になるでしょう。もしあなたの言うことが正しければ、天下の人々を傷つけて仁義を広めることになるでしょう。それがあなたの主張の結論ではありませんか?」
吿子曰性,猶湍水也,決諸東方則東流,決諸西方則西流。人性之無分於善不善也,猶水之無分於東西也。」孟子曰:「水信無分於東西,無分於上下乎?人性之善也,猶水之就下也。人無有不善,水無有不下。今夫水搏而躍之,可使過顙,激而行之,可使在山,是豈水之性哉?其勢則然也。人之可使爲不善,其性亦猶是也。」
吿子曰く、性は猶ほ湍水のごときなり。諸を東方に決すれば則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。人性の善不善を分つことなき、猶ほ水の東西を分つこと無きがごときなり。孟子曰く、水信に東西を分つこと無し。上下を分つこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下に就くがごとし。人不善あること無く、水下らざるあること無し。今夫れ水は搏ちて之を躍さば、顙を過さしむべし。激して之を行らば山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其勢ひ則ち然るなり。人の不善を爲さしむべきこと、其性も亦猶ほ是のごときなり。
告子は言いました:
「性は速く流れる水のようなものだ。水を東に導けば東へ流れ、西に導けば西へ流れる。人の性には善も不善もないのは、水が東西に偏らないのと同じだ。」
孟子は答えました:
「確かに水には東西の区別がない。しかし、上下の区別もないでしょうか?人の性が善に向かうのは、水が低きに流れるようなものです。人に善でない者はいないのと同様、水も下に流れないものはありません。
しかし、水を叩いたり押し上げたりすれば、額より高く跳ね上がることもできるし、山の上にまで流れるように仕向けることもできます。これは水の本来の性質ではなく、力によってそうなるのです。人が不善に向かう場合も同じです。それは人の本性ではなく、外部の力が加わった結果なのです。」
吿子曰:「生之謂性。」孟子曰:「生之謂性也,猶白之謂白與?」曰:「然。」「白羽之白也,猶白雪之白,白雪之白,猶白玉之白歟?」曰:「然。」「然則犬之性猶牛之性,牛之性猶人之性歟?」
吿子曰く、生は之を性と謂ふ。孟子曰く、生は之を性と謂ふは、猶ほ白きを之れ白しと謂ふがごときか。曰く、然り。白羽の白は猶ほ白雪の白きがごとく、白雪の白は、猶ほ白玉の白のごときか。曰く、然り。然らば則ち犬の性は猶ほ牛の性のごとく、牛の性は猶ほ人の性のごときか。
告子は言いました:
「生きることを性と呼ぶのだ。」
孟子は答えました:
「生きることを性と呼ぶのは、白を白と呼ぶのと同じでしょうか?」
告子は答えました:
「その通りです。」
孟子は続けました:
「では、白い羽の白さは、白い雪の白さと同じですか?白い雪の白さは、白い玉の白さと同じですか?」
告子は答えました:
「その通りです。」
孟子はさらに問いかけました:
「では、犬の性が牛の性と同じであり、牛の性が人の性と同じだと言えるでしょうか?」
吿子曰:「食色,性也。仁,內也,非外也。義,外也,非內也。」孟子曰:「何以謂仁內義外也?」曰:「彼長而我長之,非有長於我也。猶彼白而我白之,從其白於外也,故謂之外也。」曰:「異於白馬之白也,無以異於白人之白也!不識長馬之長也,無以異於長人之長歟?且謂長者義乎?長之者義乎?」曰:「吾弟則愛之,秦人之弟則不愛也,是以我爲悅者也,故謂之內。長楚人之長,亦長吾之長,是以長爲悅者也,故謂之外也。」曰:「嗜秦人之炙,無以異於嗜吾炙。夫物則亦有然者也。然則嗜炙亦有外歟?」
吿子曰く、食色は性なり。仁は內なり、外に非ざるなり。義は外なり內に非ざるなり。孟子曰く、何を以てか仁は內、義は外なりと謂ふ。曰く、彼長じて我之を長とす。我に長あるに非ざるなり。猶ほ彼白にして我之を白とするがごとし。其白に外に從ふなり。故に之を外といふ。曰く、馬の白を白とするや、以て人の白を白とするに異なる無きなり。識らず、馬の長を長とするや、以て人の長を長とするに異なること無きか。且つ謂へ、長ずる者は義か。之を長とする者は義か。曰く、吾が弟は則ち之を愛し、秦人の弟は則ち愛せざるなり。是れ我を以て悅ぶことを爲す者なり。故に之を內と謂ふ。楚人の長を長とし、亦吾の長を長とす。是れ長を以て悅ぶことを爲す者なり。故に之を外と謂ふなり。曰く、秦人の炙を嗜むは以て吾が炙を嗜むに異なることなし。夫れ物も則ち亦然ることあり。然らば則ち炙を嗜むも亦外に有るか。
告子は言いました:
「食欲や性欲は性である。仁は内に属し、外に属さない。義は外に属し、内に属さない。」
孟子は問いかけました:
「なぜ仁は内であり、義は外だと言うのですか?」
告子は答えました:
「彼が背が高いから私がそれを認めるのは、彼が私に何かを与えたからではありません。それは彼の外にある『背が高い』という性質を、私が認めるだけです。このため、義を外と呼ぶのです。」
孟子はさらに問い返しました:
「白馬の白と白人の白に違いがないように、「背が高い馬の、背が高いという性質」が、「背が高い人の性質」と同じならば、義とは何でしょう?背が高いことが義なのか、それとも背が高いことを認めるのが義なのでしょう?」
告子は答えました:
「自分の弟を愛するが、秦の人の弟を愛さないのは、私自身の感情によるものです。このため、仁は内に属するのです。一方で、楚の人の背が高いことを認めるのと、自分の国の背が高いことを認めるのが同じように、長を認めることは感情ではありません。このため、義は外に属するのです。」
孟子はさらに問いました:
「秦の人が焼肉を好むのが、自分が焼肉を好むのと同じであるならば、焼肉を好むことは外に属するのでしょうか?」
孟季子問公都子曰:「何以謂義內也?」曰:「行吾敬,故謂之內也。」「鄉人長於伯兄一歲,則誰敬?」曰:「敬兄。」「酌則誰先?」曰:「先酌鄉人。」「所敬在此,所長在彼,果在外,非由內也。」公都子不能答,以吿孟子。孟子曰:「敬叔父乎?敬弟乎?彼將曰:『敬叔父。』曰:『弟爲尸,則誰敬?』彼將曰:『敬弟。』子曰:『惡在其敬叔父也?』彼將曰:『在位故也。』子亦曰:『在位故也。』庸敬在兄,斯須之敬在鄉人。」季子聞之曰:「敬叔父則敬,敬弟則敬,果在外,非由內也。」公都子曰:「冬日則飮湯,夏日則飮水,然則飮食亦在外也?」
孟季子、公都子に問ひて曰く、何を以て義は內なりと謂ふ。曰く、吾が敬を行ふ。故に之を內と謂ふ。鄉人、伯兄より長ずること一歲ならば、則ち誰をか敬せん。曰く、兄を敬せん。酌まば則ち誰をか先にせん。曰く、先づ鄉人に酌まん。敬する所此に在り。長ずる所は彼に在り。果して外にあり。內に由るに非ず。公都子答ふる能はず。以て孟子に吿ぐ。孟子曰く、叔父を敬せんか、弟を敬せんか。彼將た曰ん、叔父を敬せん。曰く、弟尸たらば則ち誰をか敬せん。彼將た曰ん、弟を敬せん。子曰く、惡ぞ其の叔父を敬するに在らんや。彼將た曰ん、位に在るが故なり。子も亦曰く、位にあるが故なり。庸の敬は兄に在り。斯須の敬は鄉人に在り。季子之を聞きて曰く、叔父を敬すれば則ち敬し、弟を敬すれば則ち敬す。果して外に在り。內に由るには非ざるなり。公都子曰く、冬日は則ち湯を飮み、夏日は則ち水を飮む。然らば則ち飮食も亦外に在るなり。
孟季子が公都子に尋ねました:(孟季子・公都子 ともに孟子の弟子)
「なぜ義は内に属すると言うのですか?」
公都子は答えました:
「私の敬意の実践から生じるものだから、内に属すると言うのです。」
孟季子はさらに問いました:
「郷里の人が兄よりも一歳年長なら、誰を敬いますか?」
公都子は答えました:
「兄を敬います。」
孟季子は続けました:
「では酒を酌む際には、誰を先にしますか?」
公都子は答えました:
「郷里の人に先に酌みます。」
孟季子はさらに指摘しました:
「敬意は兄に向けられ、優先は郷里の人に与えられる。これは外的な理由であり、内から生じるものではないのでは?」
公都子は返答に詰まり、孟子に相談しました。孟子はこう答えました:
「叔父を敬いますか?弟を敬いますか?」
相手が「叔父を敬します」と答えるだろうことを見越して、孟子は続けます:
「では、弟が祭祀の主となった場合、誰を敬いますか?」
相手は「弟を敬します」と答えるでしょう。
孟子は続けました:
「それなら、叔父を敬うのはどこにあるのでしょうか?」
相手は「地位によるものです」と答えるでしょう。
孟子はさらに言いました:
「それなら、あなたもこう言えばいいのです:『地位によるものです。常に敬うのは兄ですが、一時的には郷里の人を敬うこともあるのです。』」
孟季子はこれを聞いて言いました:
「叔父を敬うなら敬い、弟を敬うなら敬う――結局、敬意は外にあるものであり、内から発するものではないのでは?」
公都子は答えました:
「冬の日には湯を飲み、夏の日には水を飲む――それでは飲食も外に属するということになるのですか?」
公都子曰:「吿子曰:『性無善無不善也。』或曰:『性可以爲善,可以爲不善,是故文武興則民好善,幽厲興則民好暴。』或曰:『有性善,有性不善,是故以堯爲君而有象,以瞽瞍爲父而有舜,以紂爲兄之子且以爲君,而有微子啟、王子比干。』今曰『性善』,然則彼皆非歟?」孟子曰:「乃若其情則可以爲善矣,乃所謂善也。若夫爲不善,非才之罪也。惻隱之心,人皆有之;羞惡之心,人皆有之;恭敬之心,人皆有之;是非之心,人皆有之。惻隱之心,仁也;羞惡之心,義也;恭敬之心,禮也;是非之心,智也。仁義禮智,非由外鑠我也,我固有之也,弗思耳矣。故曰:求則得之,舍則失之。或相倍蓰而無算者,不能盡其才者也。《詩》曰:『天生蒸民,有物有則。民之秉彝,好是懿德。』孔子曰:『爲此詩者,其知道乎!故有物必有則,民之秉彝也,故好是懿德。』」
公都子曰く、吿子曰く、性は善なく不善なしと。或ひと曰く、性は以て善と爲す可く以て不善と爲すべし。是の故に文武興れば則ち民善を好み、幽厲興れば則ち民暴を好むと。或ひと曰く、性善なるあり、性不善なるあり。是の故に堯を以て君と爲して象あり。瞽瞍を以て父となして舜あり。紂を以て兄の子となし、且つ以て君と爲して微子啟・王子比干あり。今性善と曰ふ。然らば則ち彼皆な非なるか。孟子曰く、乃ち其情の若くすれば則ち以て善と爲す可し。乃ち所謂善なり。夫の不善を爲す若きは才の罪に非ざるなり。惻隱の心は人皆之れ有り。羞惡の心は人皆之れ有り。恭敬の心は人皆之れあり。是非の心は人皆之れ有り。惻隱の心は仁なり。羞惡の心は義なり。恭敬の心は禮なり。是非の心は智なり。仁義禮智外より我を鑠すに非ざるなり。我固より之を有するなり,思はざるのみ。故に曰く、求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失ふ。或は相倍蓰して算無き者、其才を盡すこと能はざる者なり。詩に曰く、天蒸民を生ず。物あれば則あり。民の彝を秉る。是の懿德を好むと。孔子曰く、此の詩を爲る者は其れ道を知るか。故に物あれば則あり。民の彝を秉るなり。故に是の懿德を好む。
公都子が言いました:
「告子は『性には善も不善もない』と言っています。また別の人は、『性は善にも不善にもなり得る。だからこそ文王や武王が興れば民は善を好み、幽王や厲王が興れば民は暴を好む』と言っています。また別の人は、『善の性を持つ者もいれば、不善の性を持つ者もいる。だから堯を君としながらも象のような人物が現れ、瞽瞍を父としながらも舜のような人物が現れた。また紂王を君としながらも微子啓や王子比干のような人物が現れた』と言います。今、『性は善である』と主張されますが、それではこれらの説は全て間違いだということになるのでしょうか?」
孟子は答えました:
「性の本質としては、善を成すことが可能であり、これが『善』と呼ばれるものです。不善を行うのは、その人の才能や資質の欠陥ではありません。すべての人には惻隠の心があります。羞悪の心があります。恭敬の心があります。是非の心があります。これらの心の現れはそれぞれ、惻隠の心が仁、羞悪の心が義、恭敬の心が礼、是非の心が智に対応します。仁・義・礼・智は外から人に吹き込まれたものではなく、人がもともと持っているものです。ただ、それを考えないだけなのです。
ですから、『求めれば得られるが、放置すれば失われる』と言うのです。その能力や性質を最大限に発揮できず、違いや格差が生じるのは、その人が自らの才能を十分に発揮していないからです。
《詩経》にこうあります:『天は蒸民(人々)を生み出し、物には則(規則)がある。民が持つ純粋さは、懿徳(良い徳)を好む』と。孔子は言いました:『この詩を書いた者は、道を知っていたのだろう!物には必ず規則があり、民が持つ純粋さが良い徳を好むのはそのためだ』と。」
孟子曰:「富歲,子弟多賴;兇歲,子弟多暴。非天之降才爾殊也,其所以陷溺其心者然也。今夫麰麥,播種而耘之,其地同,樹之時又同,浡然而生,至於日至之時,皆熟矣。雖有不同,則地有肥磽,雨露之養、人事之不齊也。故凡同類者,舉相似也,何獨至於人而疑之?聖人與我同類者。故龍子曰:『不知足而爲屨,我知其不爲蕢也。』屨之相似,天下之足同也。口之於味,有同嗜也,易牙先得我口之所嗜者也。如使口之於味也,其性與人殊,若犬馬之與我不同類也,則天下何嗜皆從易牙之於味也?至於味,天下期於易牙,是天下之口相似也。惟耳亦然,至於聲,天下期於師曠,是天下之耳相似也。惟目亦然,至於子都,天下莫不知其姣也;不知子都之姣者,無目者也。故曰:口之於味也,有同嗜焉;耳之於聲也,有同聽焉;目之於色也,有同美焉。至於心,獨無所同然乎?心之所同然者,何也?謂理也,義也。聖人先得我心之所同然耳。故理義之悅我心,猶芻豢之悅我口。」
孟子曰く、富歲には子弟賴多く、兇歲には子弟暴多し。天の才を降すこと爾く殊なるに非ざるなり。其の其心を陷溺する所以の者然るなり。今夫れ麰麥は種を播して之を耘す。其地同じく之を樹うる時又同じ。浡然として生ず。日至の時に至りて皆熟す。同じからざるありと雖も、則ち地に肥磽あり。雨露の養、人事の齊しからざるなり。故に凡そ類を同じくする者は舉な相似たり,何ぞ獨り人に至りて之を疑はん。聖人も我と類を同じくする者なり。故に龍子曰く、足を知らずして屨を爲るも、我れ其の蕢たらざるを知るなり。屨の相似たるは天下の足同じければなり。口の味に於ける同じく嗜むことなるなり,易牙は先づ我が口の嗜む所を得たる者なり。如し口の味に於ける其性の人と殊なること、犬馬の我と類を同じくせざるが若くならしめば、則ち天下何ぞ嗜むこと皆易牙の味に於けるに從はんや。味に至りては天下易牙に期す。是天下の口相似たればなり。惟耳も亦然り。聲に至りては天下師曠に期す。是れ天下の耳相似たればなり。惟目も亦然り。子都に至りては天下其の姣を知らざることなきなり。子都の姣を知らざる者は目なきなり。故に曰く、口の味に於けるや、同じく嗜むとことあり。耳の聲に於けるや、同じく聽くことあり。目の色に於けるや、同じく美することあり。心に至りては、獨り同じく然りとする所無からんや。心の同じく然りとする所の者は何ぞや。謂く理なり、義なり。聖人は先づ我が心の同じく然りとする所を得たるのみ。故に理義の我心を悅ばしむるは猶ほ芻豢の我口を悅ばしむるがごとし。
孟子は言いました:
「豊作の年には、子弟たちは多くが素直になり、凶作の年には、子弟たちは多くが暴力的になる。これは天が降ろした才能が違うからではなく、彼らの心を惑わせる環境や状況によるものだ。
例えば、大麦や小麦を播種し、地面を平らに整えたとする。地面は同じで、植えた時期も同じならば、芽は勢いよく伸びてくる。そして太陽が十分に照らす頃には、すべてが熟す。しかし、もし成長に違いが出た場合、それは土地が肥沃であったり痩せていたり、雨露の恵みが違ったり、人の手入れに差があったりするためである。だから、同じ種類のものは一般的に似た性質を持つのに、なぜ人に関してだけ疑うのだろうか?
聖人も私たちと同じ種類の存在である。だからこそ龍子は言った:『草履を作る際に、足の形を知らずに作ることはできない。私は彼が草履を作って箱を作らない理由を知っている』と。草履が足に似ているのは、天下の人々の足が同じだからだ。
また、口が味に対して好みを持つのも共通している。易牙(中国古代の有名な料理人)は、私たちの口が何を好むかを知ることができた者である。もし口の味覚が、人ごとに全く異なり、犬や馬のように種類が異なるならば、天下の人々が易牙の料理を称賛する理由はないだろう。味に関して、天下の人々は易牙を頼りにする。それは天下の口が似ているからだ。同じように耳もそうである。音楽に関して、天下の人々は師曠(古代の音楽家)を頼りにする。それは天下の耳が似ているからだ。また目もそうである。例えば子都(美男子と言われた)を見て、その美しさを知らない人はほとんどいない。子都の美しさを知らないのは、目が見えない人だけだ。
だから、『口は味に対して同じ好みを持つ』『耳は音に対して同じ好みを持つ』『目は美しさに対して同じ好みを持つ』と言われる。そして、心には全く共通するものがないと言えるだろうか?心に共通するものとは何か?それは、理(道理)であり、義(正義)である。
聖人は私たちの心が共通して悦ぶものを先に手に入れた人たちである。だから、理や義が私たちの心を喜ばせるのは、ちょうど美味しい食べ物が私たちの口を喜ばせるようなものなのだ。」
孟子曰:「牛山之木嘗美矣。以其郊於大國也,斧斤伐之,可以爲美乎?是其日夜之所息,雨露之所潤,非無萌蘗之生焉,牛羊又從而牧之,是以若彼濯濯也。人見其濯濯也,以爲未嘗有材焉,此豈山之性也哉?雖存乎人者,豈無仁義之心哉?其所以放其良心者,亦猶斧斤之於木也。旦旦而伐之,可以爲美乎?其日夜之所息,平旦之氣,其好惡與人相近也者幾希,則其旦晝之所爲,有梏亡之矣。梏之反覆,則其夜氣不足以存。夜氣不足以存,則其違禽獸不遠矣。人見其禽獸也,而以爲未嘗有才焉者,是豈人之情也哉?故茍得其養,無物不長;茍失其養,無物不消。孔子曰:『操則存,舍則亡。出入無時,莫知其鄉。』惟心之謂與!」
孟子曰く、牛山の木嘗て美なり。其の大國に郊たるを以て斧斤之を伐る、以て美となすべけんや。是れ其日夜の息する所、雨露の潤す所、萌蘗の生なきに非ず。牛羊又從つて之を牧す。是を以つて彼の若く濯濯たるなり。人其濯濯たるを見るや、以て未だ嘗て材あらずと爲す。此れ豈に山の性ならんや。人に存する者と雖も、豈に仁義の心なからんや。其の其良心を放つ所以の者、亦猶ほ斧斤の木に於けるがごときなり。旦旦にして之を伐る。以て美と爲すべけんや。其日夜の息する所、平旦の氣、其好惡人と相近き者は幾ど希し、則ち其の旦晝の爲す所之を梏亡するあり。之を梏して反覆すれば、則ち其夜氣以て存するに足らず。夜氣以て存するに足らざれば、其の禽獸を違ること遠からず。人其禽獸なるを見て以て未だ嘗て才あらずとなす者は、是れ豈に人の情ならむや。故に茍も其養を得れば、物として長ぜざるなく、茍も其養を失へば、物として消ぜざるなし。孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡す。出入時なく、其鄉を知ること莫し。惟れ心の謂か。
孟子は言いました:
「牛山(周辺の名高い山)の木々は、かつて非常に美しかった。しかし、その山は大国の近郊にあり、人々が斧や鋸で伐採を続けたため、美しさを保つことができなくなった。雨露により木々が新たに芽生えることがあっても、牛や羊がその上で草を食むため、山の木々は禿げたように見えるのだ。その姿を見た人々は、この山には一度も立派な木が生えたことがないと思うかもしれない。しかし、それが山本来の性質だろうか?
人間も同様だ。本来、誰の心にも仁義の心が備わっている。だが、その善良な心が絶えず外部から害されるのは、ちょうど斧や鋸が木を伐るようなものである。毎日毎日それが繰り返されていれば、どうしてその心が美しく保たれるだろうか?
とはいえ、人間には毎晩休息の時間があり、その間に平和で清らかな心が少しでも戻ることがある。このとき、人の好悪(好き嫌い)は他の人々と近いものになる。しかし、昼間に行う行為がその心をさらに損ない続けるため、夜間に回復する気力が足りなくなる。そうなると、心が動物のようになり、人々はその者を見て、『この人にはそもそも善良な心がなかった』と思うだろう。しかし、それが人の本性だろうか?
何かを育てる環境が整えば、どんなものでも成長する。逆に、育てる環境が失われれば、どんなものも衰えるのだ。孔子はこう言った:『持続的に心を保てば存続し、放置すれば消滅する。その変化は不定で、どこに向かうか知ることはできない』。これはまさに心について語ったものである。」
孟子曰:「無或乎王之不智也。雖有天下易生之物也,一日暴之,十日寒之,未有能生者也。吾見亦罕矣,吾退而寒之者至矣,吾如有萌焉何哉!今夫弈之爲數,小數也;不專心致志,則不得也。弈秋,通國之善弈者也。使弈秋誨二人弈:其一人專心致志,惟弈秋之爲聽;一人雖聽之,一心以爲有鴻鵠將至,思援弓繳而射之。雖與之俱學,弗若之矣。爲是其智弗若與?曰:非然也。」
孟子曰く、王の不智を或むなかれ。天下生じ易き物ありと雖も、一日之を暴し十日之を寒せば、未だ能く生ずる者あらざるなり。吾見ゆること亦罕なり、吾れ退きて之を寒する者至る。吾れ萌すあるを如何せんや。今夫れ弈の數たる小數なり。心を專にし志を致さざれば則ち得ざるなり。弈秋は通國の弈を善くする者なり。弈秋をして二人に弈を誨へしめん。其一人は心を專にし志を致して、惟弈秋に之を聽くことを爲す。一人は之を聽くと雖も、一心に以爲らく、鴻鵠ありて將に至らむとす。弓繳を援きて之を射んことを思ふ。之を俱に學ぶと雖も之に若かず。是れ其智の若かざるが爲めか。曰く、然るに非ざるなり。
孟子は言いました:
「王が智を欠いているのは不思議なことではありません。天下の中で最も生育が容易なものでも、一日陽に晒して、十日寒さに晒せば、決して育つことはありません。私が努力しているときでも、その後に冷淡に対応する人が現れるのです。芽生えがあっても、そのような扱いではどうすることもできません。
たとえば、囲碁(当時は「弈」と呼ばれた)というのは小さな技術ですが、もし心を集中させず、全力で取り組まなければ、習得することはできません。弈秋は国内で最も囲碁に優れた名人です。もし弈秋が二人に囲碁を教えたとして、一人は心を込めて集中し、弈秋の教えに耳を傾けたとします。しかしもう一人は、耳では聞いていても、心の中では遠くに大きな鳥(鴻鵠)がやってくるのを想像し、弓を持ってその鳥を射ようと考えているとします。そうなれば、たとえ同じ師から学んでいても、その成果は異なり、心を込めた者には及ばないでしょう。
その理由は、その者の知能が劣っているからではありません。ただ心を専らにしなかったからなのです。」
孟子曰:「魚,我所欲也;熊掌,亦我所欲也。二者不可得兼,舍魚而取熊掌者也。生,亦我所欲也;義,亦我所欲也。二者不可得兼,舍生而取義者也。生亦我所欲,所欲有甚於生者,故不爲茍得也。死亦我所惡,所惡有甚於死者,故患有所不辟也。如使人之所欲莫甚於生,則凡可以得生者,何不用也?使人之所惡莫甚於死者,則凡可以辟患者,何不爲也?由是則生而有不用也,由是則可以辟患而有不爲也。是故所欲有甚於生者,所惡有甚於死者,非獨賢者有是心也,人皆有之,賢者能勿喪耳。一簞食,一豆羹,得之則生,弗得則死。呼爾而與之,行道之人弗受;蹴爾而與之,乞人不屑也。萬鍾則不辨禮義而受之。萬鍾於我何加焉?爲宮室之美、妻妾之奉、所識窮乏者得我與?鄉爲身死而不受,今爲宮室之美爲之;鄉爲身死而不受,今爲妻妾之奉爲之;鄉爲身死而不受,今爲所識窮乏者得我而爲之──是亦不可以已乎?此之謂失其本心。」
孟子曰く、魚は我が欲する所なり。熊掌も亦我が欲する所なり。二者兼ぬることを得べからざれば、魚を舍てて熊掌を取る者なり。生も亦我が欲する所なり。義も亦我が欲する所なり。二者兼ぬること得べからざれば、生を舍てて義を取る者なり。生も亦我が欲する所、欲する所生より甚しき者なり。故に茍も得ることを爲さざるなり。死も亦我が惡む所、惡む所死より甚しき者あり。故に患も辟けざる所あり。如し人の欲する所をして生より甚しきこと莫からしめば、則ち凡そ以て生を得べき者何ぞ用ひざらん。人の惡む所をして死より甚しき者莫からしめば、則ち凡そ以て患を辟くべき者、何ぞ爲さざらん、是れに由れば則ち生く、而して用ひざるあり。是れに由れば則ち以て患を辟くべし、而して爲さざるなり。是の故に欲する所生より甚しき者あり。惡む所死より甚しき者あり。獨り賢者のみ是の心あるに非ざるなり。人皆な之れあり。賢者は能く喪ふこと勿きのみ。一簞の食一豆の羹、之を得れば則ち生き、得ざれば則ち死す。呼爾として之を與ふれば道を行く人も受けず、蹴爾として之を與ふれば乞人も屑しとせざるなり。萬鍾は則ち禮義を辨ぜずして之を受く。萬鍾我に於て何ぞ加へん。宮室の美妻妾の奉、識る所の窮乏の者我に得るが爲めか。鄉には身の死するが爲めにして受けず。今は宮室の美の爲めに之を爲す。鄉には身の死するが爲めにして受けず。今は妻妾の奉の爲めに之を爲す。鄉には身の死するが爲めにして受けず。今は識る所の窮乏の者の我に得るが爲めに之を爲す。是れ亦た以て已むべからざるか。此れを之れ其本心を失ふと謂ふ。
孟子は言いました:
「魚は私が欲するものであり、熊の掌も私が欲するものです。しかし、この二つを同時に得ることができない場合には、私は魚を捨てて熊の掌を取ります。同じように、命も私が欲するものであり、義も私が欲するものです。この二つを同時に得ることができない場合には、私は命を捨てて義を取ります。
命は私が欲するものですが、それ以上に欲するものがあります。だから、不正な手段で命を得ることはしません。また、死は私が嫌うものですが、それ以上に嫌うものがあります。だから、すべての災厄を避けようとはしないのです。
もし、人々が命を最も欲するものであるとするならば、命を得るために何をしてもよいということになるでしょう。同様に、もし人々が死を最も嫌うものであるとするならば、死を避けるために何でもするべきだということになります。しかし実際には、命を得るためにしないこともあり、災厄を避けるために行わないこともあるのです。
つまり、命よりも欲するものがあり、死よりも嫌うものがあるのです。この心は賢者だけのものではなく、誰もが持っています。ただし、賢者はこの心を失わないのです。
たとえば、一碗の食事や一椀の羹(スープ)、これを得れば生き、得られなければ死ぬという状況があったとします。しかし、それを侮辱的に渡されれば、道行く人でさえ受け取りません。また、それを蹴り飛ばして渡されれば、乞食でさえそれを嫌います。
それなのに、多くの人は万鍾(大金)を目にすると、礼義を顧みずに受け取ってしまいます。万鍾は私に何をもたらすというのでしょう?宮殿のような美しい家ですか?妻妾の贅沢な奉仕ですか?知人で貧しい人々に恩を売ることでしょうか?
以前は命を捨てても受け取らなかったものを、今は美しい家のために受け取る。以前は命を捨てても受け取らなかったものを、今は妻妾の贅沢のために受け取る。以前は命を捨てても受け取らなかったものを、今は知人への恩を売るために受け取る。これが止むを得ないということでしょうか?
これこそが『本心を失う』ということなのです。」
孟子曰:「仁,人心也。義,人路也。舍其路而弗由,放其心而不知求,哀哉!人有雞犬放,則知求之,有放心,而不知求。學問之道無他,求其放心而已矣。」
孟子曰く、仁は人の心なり。義は人の路なり。其路を舍てて由らず。其心を放ちて求むることを知らず。哀しいかな。人雞犬放るゝことあれば、則ち之を求むることを知る。放心ありて而して求むることを知らず。學問の道他なし。其放心を求むるのみ。
孟子は言いました:
「仁は人の心であり、義は人の行くべき道です。その道を捨てて従わず、その心を放置して求めようとしないとは、なんと哀れなことでしょうか!人は鶏や犬が逃げたら、探して取り戻そうとします。しかし、放逸した自分の心については、それを求めようとしないのです。学問の道とは他に何か特別なことがあるわけではありません。ただ放逸した心を求めて取り戻すこと、それだけなのです。」
孟子曰:「今有無名之指,屈而不信,非疾痛害事也。如有能信之者,則不遠秦楚之路,爲指之不若人也。指不若人,則知惡之;心不若人,則不知惡。此之謂不知類也。」
孟子曰く、今無名の指屈して信びざるあり。疾痛して事に害あるに非ざるなり。如し能く之を信ぶる者あらば、則ち秦楚の路を遠しとせず。指の人に若かざるが爲めなり。指の人に若かざるは則ち之を惡むことを知る。心の人に若かざるは則ち惡むことを知らず。此れ之を類を知らずと謂ふなり。
孟子は言いました:
「今、もし名前のない指があり、それが曲がって動かないとして、それが病気や痛み、生活への支障をもたらすものではないとしても、それを治して動かせるようにする方法があるなら、秦や楚の遠くまで行ってでもその方法を探すでしょう。それは、自分の指が他人よりも劣っているのを嫌うからです。指が他人よりも劣るのを嫌うなら、自分の心が他人よりも劣るのも嫌うべきではないですか?それを嫌わないのは、物事の類推ができないということです。」
孟子曰:「拱把之桐、梓,人茍欲生之,皆知所以養之者。至於身,而不知所以養之者,豈愛身不若桐、梓哉?弗思甚也。」
孟子曰く、拱把の桐梓、人茍も之を生ぜんと欲すれば、皆之を養ふ所以の者を知る。身に至りては之を養ふ所以の者を知らず。豈に身を愛すること桐梓に若かざらんや。思はざること甚しきなり。
孟子は言いました:
「一掴みの桐や梓の木でさえ、成長させたいと思えば、どう育てるべきかを誰もが知っています。それに比べて自分の身体については、どう育てるべきかを知らないというのは、桐や梓を愛することが自分を愛することより勝っているのではなく、自分について深く考えないからです。」
孟子曰:「人之於身也,兼所愛;兼所愛,則兼所養也。無尺寸之膚不愛焉,則無尺寸之膚不養也。所以考其善不善者,豈有他哉?於己取之而已矣。體有貴賤,有小大。無以小害大,無以賤害貴。養其小者爲小人。養其大者爲大人。今有場師,舍其梧槚,養其樲棘,則爲賤場師焉。養其一指,而失其肩背,而不知也,則爲狼疾人也。飮食之人,則人賤之矣,爲其養小以失大也。飮食之人,無有失也,則口腹豈適爲尺寸之膚哉?」
孟子曰く、人の身に於けるや、愛する所を兼ぬ。愛する所を兼ぬれば則ち養ふ所を兼ぬるなり。尺寸の膚も愛せざる無ければ、則ち尺寸の膚も養はざるなきなり。其善不善を考ふる所以の者豈に他あらんや。己に於て之を取るのみ。體に貴賤あり小大あり。小を以て大を害することなく、賤を以て貴を害することなし。其小を養ふ者は小人と爲り、其大を養ふ者は大人と爲る。今場師あり。其梧槚を舍てて其樲棘を養はば則ち賤場師と爲さん。其一指を養ひて其肩背を失ひて知らざれば、則ち狼疾の人と爲さん。飮食の人は則ち人之を賤む。其小を養ひ以て大を失ふが爲めなり。飮食の人失ふこと有る無ければ、則ち口腹豈に適尺寸の膚の爲めならんや。
孟子は言いました:
「人は自分の身体を全体的に愛します。全体を愛するということは、全体を養うということです。わずか一寸の皮膚でさえも愛し、大切にします。それゆえ、わずか一寸の皮膚でさえも養います。しかし、身体全体の善悪を考える基準は何でしょうか?それは、他から取るのではなく、自分自身から取るべきものです。
身体には貴賤や大小があります。小さなものが大きなものを害してはいけないし、賤しいものが貴いものを害してはいけません。小さいものを養う人は小人であり、大きいものを養う人は大人です。
例えば、庭師が梧桐や檟を放置して樲棘のような雑木を養うなら、その人は賤しい庭師です。一指を養いながら肩や背を損なうなら、その人は病気のような存在です。
飲食に執着する人は、人々から軽蔑されます。それは小さなものを養うために大きなものを損なうからです。しかし、もし飲食が過ちを犯さず、全体に益をもたらすなら、口や腹がただ一寸の皮膚のためだけに存在するのでしょうか?」
公都子問曰:「鈞是人也,或爲大人,或爲小人,何也?」孟子曰:「從其大體爲大人,從其小體爲小人。」曰:「鈞是人也,或從其大體,或從其小體,何也?」曰:「耳目之官不思,而蔽於物。物交物,則引之而已矣。心之官則思;思則得之,不思則不得也。比天之所與我者,先立乎其大者,則其小者不能奪也。此爲大人而已矣。」
公都子問ひて曰く、鈞しく是れ人なり。或は大人と爲り、或は小人と爲るは何ぞや。孟子曰く、其大體に從へば大人と爲り、其小體に從へば小人と爲る。曰く、鈞しく是れ人なり。或は其大體に從ひ、或は其小體に從ふは何ぞや。曰く、耳目の官は思はずして物に蔽はる。物、物に交はれば則ち之を引くのみ。心の官は則ち思ふ。思へば則ち之を得、思はざれば則ち得ざるなり。天の我に與ふる所の者を比し、先づ其大なる者を立つれば、則ち其小なる者奪ふこと能はざるなり。此れ大人となるのみ。
公都子が孟子に尋ねました:
「人は皆同じ存在ですが、ある人は大人(立派な人)となり、ある人は小人(卑しい人)となるのは、なぜですか?」
孟子は答えました:
「大きな本性(大体)に従う人は大人となり、小さな本性(小体)に従う人は小人となります。」
公都子がさらに尋ねました:
「同じ人間でありながら、ある人は大体に従い、ある人は小体に従うのは、どうしてですか?」
孟子は答えました:
「耳や目といった感覚器官は思考せず、外界の対象物に惑わされます。物が物に触れると、それに引き寄せられるだけです。一方で、心という器官は思考します。思考すれば物事を得られ、思考しなければ得られません。これこそ天が私たちに与えたものです。
まず大きな本性を立てれば、小さな本性に奪われることはありません。これが大人となる道理です。」
孟子曰:「有天爵者,有人爵者。仁義忠信,樂善不倦,此天爵也。公卿大夫,此人爵也。古之人,修其天爵而人爵從之。今之人,修其天爵以要人爵。既得人爵而棄其天爵,則惑之甚者也,終亦必亡而已矣。」
孟子曰く、天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信善を樂みて倦まざるは此れ天爵なり。公卿大夫は此れ人爵なり。古の人は其天爵を修めて人爵之に從ふ。今の人は其天爵を修めて以て人爵を要む。既に人爵を得れば、其天爵を棄つるは則ち惑へるの甚しき者なり。終に亦必ず亡はんのみ。
孟子は言いました:
「天爵(天から授かった爵位)と人爵(人間が与える爵位)がある。仁・義・忠・信を実践し、善を楽しみ、飽きることなく努めるのが天爵である。一方、公卿や大夫といった地位は人爵である。
古代の人々は天爵を修めることで、人爵も自然と従ってきた。だが、現代の人々は天爵を修めることを、人爵を得るための手段とし、人爵を得ると天爵を捨ててしまう。このような行為は非常に惑ったものであり、最終的には人爵も失うことになるだろう。」
孟子曰:「欲貴者,人之同心也。人人有貴於己者,弗思耳矣。人之所貴者,非良貴也。趙孟之所貴,趙孟能賤之。《詩》云:『既醉以酒,既飽以德。』言飽乎仁義也,所以不愿人之膏粱之味也。令聞廣譽施於身,所以不愿人之文繡也。」
孟子曰く、貴きを欲するは人の同じき心なり。人人己に貴き者あり。思はざるのみ。人の貴くする所の者は良貴に非ざるなり。趙孟の貴くする所は趙孟能く之を賤しくす。詩に云く、既に醉ふに酒を以てし、既に飽くに德を以てすと。仁義に飽くを言ふなり。人の膏粱の味を愿はざる所以なり。令聞廣譽身に施く、人の文繡を愿はざる所以なり。
孟子は言いました:
「名誉や高位を求めるのは、人々の共通した願いである。しかし、人は自分自身の中にすでに尊ぶべきものを持っていることに気づいていないだけだ。人々が求める名誉や地位は、真に価値あるものではない。例えば、趙孟が与える尊称は、趙孟自身が剥奪することもできるものである。
『詩経』にはこうある:『酒に酔い、徳に満たされる。』これは、仁義に満たされることを意味しており、他人の贅沢な食べ物を望む必要はない。また、徳行が広く知られることで、他人の豪華な衣装を羨む必要もなくなるということだ。」
孟子曰:「仁之勝不仁也,猶水之勝火。今之爲仁者,猶以一杯水救一車薪之火也。不熄,則謂之水不勝火。此又與於不仁之甚者也,亦終必亡而已矣。」
孟子曰く、仁の不仁に勝つや、猶ほ水の火に勝つがごとし。今の仁を爲す者は、猶ほ一杯の水を以て一車薪の火を救ふがごときなり。熄まざれば則ち之を水火に勝たずと謂ふ。此れ又不仁に與するの甚だしき者なり,亦終に必ず亡びんのみ。
孟子は言いました:
「仁が不仁に勝るのは、水が火に勝つようなものである。しかし、現代の仁を行う者たちは、あたかも一杯の水で一車分の薪に燃え上がる火を消そうとするようなものである。それが消せないと、彼らは『水は火に勝てない』と言う。しかし、それは仁を行わない極端な者たちの側に加担しているようなものだ。このような行為では、最終的には仁も滅びてしまうだけである。」
孟子曰:「五穀者,種之美者也。茍爲不熟,不如荑稗。夫仁亦在乎熟之而已矣。」
孟子曰く、五穀は種の美なる者なり。茍も熟せざることを爲さば、荑稗に如かず。夫れ仁も亦之を熟するに在るのみ。
孟子は言いました:
「五穀は、最も優れた種である。しかし、もし熟さなければ、雑草の稗にも劣るだろう。仁もまた同じであり、重要なのはそれを十分に成熟させることにある。」
孟子曰:「羿之敎人射,必志於彀;學者亦必志於彀。大匠誨人,必以規矩;學者亦必以規矩。」
孟子曰く、羿の人に射を敎ふる。必ず彀に志さしむ。學ぶ者も亦必ず彀に志す。大匠の人に誨ふる必ず規矩を以てす。學ぶ者も亦必ず規矩を以てす。
孟子は言いました:
「羿(古代の名射手)が人々に射術を教える際には、必ず弓を引き絞る点に意識を集中させるよう教えた。学ぶ者も同じく、弓を引き絞ることを目指さなければならない。優れた工匠が人を教える際には、必ず規矩(定規とコンパス)を用いる。学ぶ者もまた、規矩に従わなければならない。」
任人有問屋廬子曰:「禮與食孰重?」曰:「禮重。」「色與禮孰重?」曰:「禮重。」曰:「以禮食則饑而死,不以禮食則得食,必以禮乎?親迎則不得妻,不親迎則得妻,必親迎乎?」屋廬子不能對。明日之鄒,以吿孟子。孟子曰:「於答是也何有?不揣其本,而齊其末,方寸之木可使高於岑樓。金重於羽者,豈謂一鉤金與一輿羽之謂哉?取食之重者與禮之輕者而比之,奚翅食重?取色之重者與禮之輕者而比之,奚翅色重?往應之曰,『紾兄之臂而奪之食,則得食,不紾,則不得食,則將紾之乎?逾東家墻而摟其處子,則得妻,不摟,則不得妻,則將摟之乎?』」
任人屋廬子に問ふあり。曰く、禮と食と孰か重き。曰く、禮重し。色と禮と孰れか重き。曰く、禮重し。曰く、禮を以て食へば則ち饑ゑて死す。禮を以てせずして食へば則ち食を得,必ず禮を以てせんか。親迎すれば則ち妻を得ず。親迎せざれば則ち妻を得。必ず親迎せんか。屋廬子對ふる能はず。明日鄒に之きて以て孟子に吿ぐ。孟子曰く、是に答ふるに於て何かあらん。其本を揣らずして其末を齊しうせば、方寸の木も岑樓より高からしむべし。金は羽より重き者なり,豈に一鉤の金と一輿の羽との謂を謂はんや。食の重き者と禮の輕き者とを取りて之を比せば、奚ぞ翅に食重きのみならんや。色の重き者と禮の輕い者とを取りて之を比せば、奚ぞ翅に色重きのみならんや。往きて之に應へて曰く、兄の臂を紾らして之が食を奪へば、則ち食を得、紾らざれば則ち食を得ず。則ち將に之を紾らさんとするか。東家の逾を墻えて其處子を摟けば則ち妻を得、摟かざれば則ち妻を得ず、則ち將に之を摟かんとするかと。
任人が屋廬子に問いかけました:
「礼と食ではどちらが重要でしょうか?」
屋廬子は答えました:「礼が重要です。」
さらに尋ねました:
「色(男女の欲望)と礼ではどちらが重要でしょうか?」
屋廬子は再び答えました:「礼が重要です。」
任人は続けて言いました:
「礼に従って食を取るなら飢え死にしてしまうが、礼を無視して食を取れば生き延びることができます。それでも礼を守るべきでしょうか?親迎(正式な婚礼の手順)を経れば妻を得られない場合、親迎をせずに妻を得られるなら、やはり親迎をするべきでしょうか?」
屋廬子は答えることができず、翌日、鄒(孟子のいる場所)へ行き、このことを孟子に伝えました。
孟子は答えました:
「この問いに答えるのは難しいことではありません。物事の本質を考えず、末端の比較だけを持ち出しているのです。方寸ほどの小さな木片を岑楼(高い建物)よりも高くすることができると言うようなものです。金が羽よりも重いと言う場合、それは一片の金と一輿(大量の)羽を比べて言うのではありません。食の重要な面と礼の軽い面を比べて食が重要だと言うのなら、それは当たり前のことです。同じように、色の重要な面と礼の軽い面を比べれば、色が重要だと言うのも当然です。
こう答えてみなさい:
『兄の腕をひねり上げて食べ物を奪えば食を得られるが、ひねらなければ得られない。この場合、兄の腕をひねるべきでしょうか?また、隣家の壁を越えてその娘をさらえば妻を得られるが、さらわなければ得られない。この場合、壁を越えるべきでしょうか?』」
曹交問曰:「人皆可以爲堯舜,有諸?」孟子曰:「然。」「交聞文王十尺,湯九尺;今交九尺四寸以長。食粟而已,如何則可?」曰:「奚有於是?亦爲之而已矣。有人於此,力不能勝一匹雛,則爲無力人矣。今曰舉百鈞,則爲有力人矣。然則舉烏獲之任,是亦爲烏獲而已矣。夫人豈以不勝爲患哉?弗爲耳。徐行後長者,謂之弟;疾行先長者,謂之不弟。夫徐行者,豈人所不能哉?所不爲也。堯舜之道,孝弟而已矣。子服堯之服、誦堯之言、行堯之行,是堯而已矣。子服桀之服、誦桀之言、行桀之行,是桀而已矣。」曰:「交得見於鄒君,可以假館,愿留而受業於門。」曰:「夫道若大路然,豈難知哉?人病不求耳。子歸而求之,有餘師。」
曹交問ひて曰く、人皆以て堯舜たるべしと、諸れ有りや。孟子曰く、然り。交聞く、文王は十尺、湯は九尺と。今交は九尺四寸以て長じ、粟を食ふのみ。如何にせば則ち可ならん。曰く、奚ぞ是にあらんや。亦之を爲さんのみ。此に人あり、力一匹の雛に勝ふること能はざれば、則ち力なき人と爲さん。今百鈞を舉ぐと曰はば則ち力ある人となさん。然らば則ち烏獲の任を舉げば、是れ亦烏獲たるのみ。夫れ人豈に勝へざるを以て患となさんや、爲さざるのみ。徐行して長者に後る、之を弟と謂ふ。疾行して長者に先だつ、之を不弟と謂ふ。夫れ徐行は豈に人の能はざる所ならむや。爲さざる所なり。堯舜の道は孝弟のみ。子、堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行を行はば是れ堯のみ。子、桀の服を服し、桀の言を誦し、、桀の行を行はば是れ桀のみ。曰く、交、鄒の君に見ゆるを得て、以て館を假るべし。愿くは留りて業を門に受けん。曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。人求めざるを病むのみ。子歸りて之を求めば、餘師あらん。
曹交が孟子に問いかけました:
「人は皆堯や舜のようになれるという話を聞きましたが、それは本当でしょうか?」
孟子は答えました:「その通りです。」
曹交は続けて尋ねました:
「文王の身長は十尺、湯王は九尺だったと聞きます。私は九尺四寸しかなく、ただ粟を食べているだけの人間ですが、どうすれば堯や舜のようになれるのでしょうか?」
孟子は答えました:
「そのことに何の問題があるでしょう?ただやるべきことをやればよいのです。たとえば、ここに一人いて、小さな雛を持ち上げる力もないとしましょう。その人は無力な人だと言えます。しかし、百鈞の重さを持ち上げられるようになれば、その人は力がある人になります。さらに、烏獲(伝説的な力持ち)が担うような重荷を担ぐことができれば、その人は烏獲と同じだと言えます。つまり、人は力がないことを気にする必要はありません。ただ、力を発揮しないことが問題なのです。
ゆっくり歩いて長者の後ろにつく者を『弟』と呼びますが、速く歩いて長者の前に出る者を『不弟』と呼びます。ゆっくり歩くことは、人にできないことではありません。ただ、やらないだけなのです。
堯や舜の道は、孝と弟(親や兄弟への敬愛)に尽きるのです。堯の服を着て堯の言葉を語り、堯の行いを実践すれば、それは堯になることと同じです。同じように、桀の服を着て桀の言葉を語り、桀の行いを実践すれば、それは桀になることと同じです。」
曹交は言いました:
「私は鄒君にお目にかかることができ、宿を借りる許可を得ました。このままここにとどまり、先生の教えを受けたいと思います。」
孟子は答えました:
「道とは大きな道のようなものです。知るのは決して難しいことではありません。問題は、それを求めようとしないことにあります。あなたが帰って求めるならば、あなたには多くの師がいるでしょう。」
公孫丑問曰:「高子曰:『《小弁》,小人之詩也。』」孟子曰:「何以言之?」曰:「怨。」曰:「固哉,高叟之爲《詩》也!有人於此,越人關弓而射之,則己談笑而道之;無他,疏之也。其兄關弓而射之,則己垂涕泣而道之,無他,戚之也。《小弁》之怨,親親也。親親,仁也。固矣夫,高叟之爲《詩》也!」曰:「《凱風》何以不怨?」曰:「《凱風》,親之過小者也;《小弁》,親之過大者也。親之過大而不怨,是愈疏也。親之過小而怨,是不可磯也。愈疏,不孝也;不可磯,亦不孝也。孔子曰:『舜其至孝矣,五十而慕。』」
公孫丑問ひて曰く、高子曰く《小弁》(せうべん)は小人の詩なり。孟子曰く、何を以てか之を言ふ。曰く、怨みたり。曰く、固なるかな、高叟の詩を爲むるや。此に人あり、越人弓を關きて之を射ば、則ち己談笑して之を道はん。他なし之を疏ずればなり。其兄弓を關きて之を射ば、則ち己涕泣を垂れて之を道はん。他なし之を戚めばなり。小弁の怨むは親を親むなり。親を親むは仁なり。固なるかな。高叟の詩を爲むるや。曰く、《凱風》(がいふう)は何を以てか怨みざる。曰く、《凱風》(がいふう)は親の過小なる者なり。《小弁》(せうべん)は親の過大なる者なり。親の過大にして怨みざるは、是れ愈〻疏ずるなり。親の過小にして怨むは是磯すべからざるなり。愈〻疏ずるは不孝なり。磯すべからざるも亦不孝なり。孔子曰く、舜は其れ至孝なり、五十にして慕ふと。
公孫丑が孟子に尋ねました:
「高子(告子)が言いました:『《小弁》(詩経の詩)は、小人の詩だ。』」
孟子は答えました:「どうしてそう言うのですか?」
公孫丑は言いました:「怨みを表しているからです。」
孟子は言いました:
「高叟(告子)の《詩経》への理解は浅はかですね。たとえば、ここにある人がいて、越人が弓を引いてその人を射ようとしているとします。その人は談笑しながらこれを語るでしょう。なぜなら、その越人が自分にとって疎遠な存在だからです。しかし、もしその射手が自分の兄であれば、涙を流しながらこれを語るでしょう。なぜなら、その兄は自分にとって親しい存在だからです。《小弁》の怨みは親しい者に向けられたものです。この『親しみ』は仁です。高叟の《詩経》の解釈は何と浅はかなのでしょう。」
公孫丑はさらに尋ねました:
「では《凱風》(詩経の詩)は、なぜ怨みを表していないのですか?」
孟子は答えました:
「《凱風》は親の過ちが小さな場合を歌ったものです。《小弁》は親の過ちが大きな場合を歌ったものです。親の過ちが大きいのに怨みを持たないというのは、親への関心が薄いからです。親の過ちが小さいのに怨みを持つのは、それが受け入れ難いからです。親への関心が薄いのは不孝ですし、受け入れ難いのもまた不孝です。孔子は言いました:『舜は最も孝行な人であった。その孝行心は五十歳になっても衰えなかった。』」
宋牼將之楚,孟子遇於石丘,曰:「先生將何之?」曰:「吾聞秦、楚構兵,我將見楚王,說而罷之;楚王不悅,我將見秦王,說而罷之。二王我將有所遇焉。」曰:「軻也請無問其詳,愿聞其指。說之將何如?」曰:「我將言其不利也。」曰:「先生之志則大矣,先生之號則不可。先生以利說秦、楚之王,秦、楚之王悅於利,以罷三軍之師;是三軍之士樂罷而悅於利也。爲人臣者,懷利以事其君,爲人子者,懷利以事其父,爲人弟者,懷利以事其兄,是君臣、父子、兄弟終去仁義,懷利以相接;然而不亡者,未之有也。先生以仁義說秦、楚之王,秦、楚之王悅於仁義,以罷三軍之師;是三軍之士樂罷而悅於仁義也。爲人臣者,懷仁義以事其君,爲人子者,懷仁義以事其父,爲人弟者,懷仁義以事其兄,是君臣、父子、兄弟去利,懷仁義以相接也;然而不王者,未之有也。何必曰利?」
宋牼將に楚に之かんとす。孟子、石丘に遇へり。曰く、先生將に何にか之かんとする。曰く、吾聞く、秦楚兵を構ふと。我將に楚王を見て說きて之を罷めしめんとす。楚王悅ばざれば我將に秦王を見て說きて之を罷めしめんとす。二王我將に遇ふ所あらんとすと。曰く、軻や請ふ、其詳なるを問ふことなからん。愿はくは其指を聞かん。之を說くこと將に何如にせんとす。曰く、我將に其不利を言はんとす。曰く、先生の志は則ち大なり。先生の號は則ち不可なり。先生利を以て秦楚の王に說かば、秦楚の王利を悅びて以て三軍の師を罷めん。是れ三軍の士罷むることを樂みて利を悅ぶなり。人の臣たる者利を懷ひて以て其君に事へ、人の子たる者利を懷ひて以て其父に事へ、人の弟たる者利を懷ひて以て其兄に事ふ。是れ君臣父子兄弟、終に仁義を去り利を懷ひて以て相接す。然り而うして亡びざる者は未だ之れ有らざるなり。先生仁義を以て秦楚の王に說き、秦楚の王、仁義を悅びて三軍の師を罷めば、是れ三軍の士罷むるを樂んで仁義を悅ぶなり。人臣たる者仁義を懷ひて以て其君に事へ、人の子たる者仁義を懷ひて以て其父に事へ、人の弟たる者仁義を懷ひて以て其兄に事ふ。是れ君臣父子兄弟利を去り仁義を懷ひて以て相接するなり。然り而うして王たらざる者は未だ之れあらざるなり。何ぞ必ずしも利と曰はん。
宋牼が楚の国に向かおうとしているとき、孟子が石丘で彼に出会いました。
孟子が尋ねました:
「先生、どちらに向かわれるのですか?」
宋牼は答えました:
「私は秦と楚が戦争しようとしていると聞きました。まず楚王に会い、それを止めるよう説得するつもりです。もし楚王が聞き入れなければ、秦王に会い、彼を説得して止めさせようと思います。二人の王のうちどちらかに出会うつもりです。」
孟子は言いました:
「詳しい話を伺うことは控えます。ぜひその要点をお聞かせください。先生はどのように説得されるおつもりですか?」
宋牼は答えました:
「その戦争が不利益であることを話すつもりです。」
孟子は言いました:
「先生のお志は壮大ですが、その説得の方法は正しくありません。先生が『利』(利益)をもって秦王と楚王を説得されるなら、彼らは利益を喜び、三軍を解散させるでしょう。しかし、その結果として、三軍の兵士たちは解散を喜び、利益を求めるようになるでしょう。
もし人臣が利益を心に抱き、君主に仕え、もし子が利益を心に抱き、親に仕え、もし弟が利益を心に抱き、兄に仕えるならば、君臣・父子・兄弟の間に仁義は消え去り、利益のみで結ばれることになります。そのような関係が存続し、国が滅びないということはこれまで一度もありません。
先生が仁義をもって秦王と楚王を説得されるなら、彼らは仁義を喜び、三軍を解散させるでしょう。その結果、三軍の兵士たちは解散を喜び、仁義を尊ぶようになるでしょう。
もし人臣が仁義を心に抱き、君主に仕え、もし子が仁義を心に抱き、親に仕え、もし弟が仁義を心に抱き、兄に仕えるならば、君臣・父子・兄弟は利益を捨て去り、仁義をもって結ばれるでしょう。そのような国が王道を行わないということはこれまで一度もありません。
どうして『利』という言葉を持ち出さなければならないのでしょうか?」
孟子居鄒,季任爲任處守,以幣交,受之而不報。處於平陸,儲子爲相,以幣交,受之而不報。他日由鄒之任,見季子,由平陸之齊,不見儲子。屋廬子喜曰:「連得間矣。」問曰:「夫子之任見季子,之齊不見儲子,爲其爲相與?」曰:「非也。《書》曰:『享多儀,儀不及物,曰不享。惟不役志于享。』爲其不成享也。」屋廬子悅。或問之,屋廬子曰:「季子不得之鄒,儲子得之平陸。」
孟子鄒に居る。季任、任の處守たり。幣を以て交る。之を受けて報ぜず。平陸に處る。儲子相たり、幣を以て交る。之を受けて報ぜず。他日鄒より任に之きて季子を見る。平陸より齊に之きて儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連間を得たりと。問ひて曰く、夫子任に之きて季子を見、齊に之きて儲子を見ざるは其の相たるが爲めか。曰く、非なり。《書》(しよ)に曰く、享に儀多し。儀、物に及ばざれば不享と曰ふ。惟志を享に役せずと。其の享を爲さざるが爲めなり。」屋廬子悅ぶ。或ひと之を問ふ。屋廬子曰く、季子は鄒に之くことを得ず、儲子は平陸に之くことを得。
孟子が鄒に滞在していたとき、季任が任の守(官職)となり、贈り物を使者に託して孟子に届けたが、孟子はそれを受け取ったものの返礼をしなかった。その後、孟子が平陸に滞在しているとき、儲子が相(宰相)に就き、同じく贈り物を届けたが、孟子はこれも受け取ったものの返礼をしなかった。
ある日、孟子が鄒から任に向かう途中、季任に会ったが、平陸から斉に向かう途中では儲子に会おうとしなかった。
屋廬子は喜んで言った:
「連続して空きを見つけましたね。」
彼はさらに尋ねました:
「先生が任において季任に会ったのに、斉では儲子に会わなかったのは、儲子が相であったからですか?」
孟子は答えました:
「そうではありません。『書経』に『多くの儀礼をもっても、物に及ばなければそれは享受とは言えない。ただし、享受に心を使役されないことが重要である』とあります。私はその儀が完成していないと考えたのです。」
屋廬子は満足し、後に誰かに尋ねられると答えました:
「季任は鄒を手に入れられなかったが、儲子は平陸を得た。」
淳于髡曰:「先名實者,爲人也;後名實者,自爲也。夫子在三卿之中,名實未加於上下而去之,仁者固如此乎?」孟子曰:「居下位,不以賢事不肖者,伯夷也。五就湯、五就桀者,伊尹也。不惡污君,不辭小官者,柳下惠也。三子者不同道,其趨一也。一者何也?曰仁也。君子亦仁而已矣,何必同?」曰:「魯繆公之時,公儀子爲政,子柳、子思爲臣,魯之削也滋甚。若是乎賢者之無益於國也。」曰:「虞不用百里奚而亡,秦繆公用之而霸。不用賢則亡,削何可得與?」曰:「昔者,王豹處於淇,而河西善謳。綿駒處於高唐,而齊右善歌。華周、杞梁之妻,善哭其夫,而變國俗。有諸內,必形諸外。爲其事而無其功者,髡未嘗睹之也。是故無賢者也;有則髡必識之。」曰:「孔子爲魯司寇,不用,從而祭,燔肉不至,不稅冕而行。不知者以爲爲肉也;其知者以爲爲無禮也。乃孔子則欲以微罪行,不欲爲茍去。君子之所爲,衆人固不識也。」
淳于髡曰く、名實を先にする者は人の爲めにするなり。名實を後にする者は自ら爲めにするなり。夫子三卿の中に在りて、名實未だ上下に加はらずして之を去る。仁者固より此の如きか。孟子曰く、下位に居て賢を以て不肖に事へざる者は伯夷なり。五たび湯に就き五たび桀に就く者は伊尹なり。污君を惡まず、小官を辭せざる者は柳下惠なり。三子者道を同じくせざれども其趨き一なり。一とは何ぞや。曰く、仁なり。君子は亦仁のみ。何ぞ必ずしも同じからん。曰く、魯の繆公の時公儀子政を爲す。子柳・子思臣たり。魯の削らるゝこと滋〻甚し。是の若きか賢者の國に益なきや。曰く、虞は百里奚を用ひずして亡び、秦の繆公は之を用ひて霸たり。賢を用ひざれば則ち亡ぶ。削らるゝこと何ぞ得べけんや。曰く、昔者王豹、淇に處り、河西善く謳ひ、綿駒高唐に處り、齊右善く歌ふ。華周杞梁の妻善く其夫を哭して國俗を變ず。諸を內に有すれば必ず諸を外に形す。其事を爲して其功無き者は、髡未だ嘗て之を睹ざるなり。是の故に賢者無きなり。有らば則ち髡必ず之を識らん。曰く、孔子魯の司寇たり。用ひられず。從ひて祭る。燔肉至らず。冕を稅がずして行る。知らざる者は以爲らく肉の爲めなりと。其知る者は以爲らく、禮なきが爲めなりと。乃ち孔子は則ち微罪を以て行らんことを欲す。茍も去るを爲すを欲せず。君子の爲す所は衆人固より識らざるなり。
淳于髡が孟子に言いました:
「名と実(評価と実績)を先に求めるのは他人のために働く者の道であり、名と実を後に求めるのは自己のために働く者の道です。先生は三卿の地位にありながら、名も実も上下に認められないまま辞職されました。仁者というのは本当にそのようなものなのでしょうか?」
孟子は答えました:
「低い地位にいながら不肖の者に仕えなかったのは伯夷です。五度湯に仕え、また五度桀にも仕えたのは伊尹です。不道徳な君主を嫌がらず、小さな官職も辞退しなかったのは柳下恵です。この三人は道が異なりますが、その目指すところは一つです。その一つとは何でしょう?それは『仁』です。君子はただ仁を求めるのみであり、同じ道を歩む必要はないのです。」
淳于髡はさらに言いました:
「魯の繆公の時代、公儀子が政を執り、子柳と子思が臣下でしたが、魯はますます削られていきました。これでは賢者が国に益をもたらさないことになります!」
孟子は答えました:
「虞は百里奚を用いなかったために滅び、秦の穆公は百里奚を用いて覇者となりました。賢者を用いなければ国は滅びるのです。削られることと賢者の無益さを結びつけるのは正しくありません。」
淳于髡はさらに続けました:
「昔、王豹が淇水に住んでいると河西の人々が謡をよく謳い、緜駒が高唐に住んでいると斉の右部の人々が歌をよく歌うようになりました。また、華周や杞梁の妻が夫を悲しみ慟哭したことで国の風習が変わりました。内にあるものは必ず外に現れるものです。事を成して功績を上げない者など、私はこれまで見たことがありません。もし賢者がいたならば、私は必ずそれを知っているはずです。」
孟子は言いました:
「孔子が魯の司寇となった時、用いられず、その後祭祀に出席したものの燔肉が届けられず、冠も脱がずにその場を去りました。知らない者は、孔子が肉のことで怒ったと思いましたが、知っている者はそれが礼に反するためだと理解しました。しかし、孔子は大きな罪で去りたくなく、小さな理由で静かに辞することを望んだのです。君子の行為というものは、凡人には理解されないものです。」
孟子曰:「五霸者,三王之罪人也。今之諸侯,五霸之罪人也。今之大夫,今之諸侯之罪人也。天子適諸侯曰巡狩;諸侯朝於天子曰述職。春省耕而補不足,秋省斂而助不給。入其疆,土地辟,田野治,養老、尊賢、俊杰在位,則有慶,慶以地。入其疆,土地荒蕪,遺老、失賢,掊克在位,則有讓。一不朝,則貶其爵;再不朝,則削其地;三不朝,則六師移之。是故天子討而不伐,諸侯伐而不討。五霸者,摟諸侯以伐諸侯者也,故曰:五霸者,三王之罪人也。」
孟子曰く、五霸は三王の罪人なり。今の諸侯は五霸の罪人なり。今の大夫は今の諸侯の罪人なり。天子の諸侯に適くを巡狩と曰ひ、諸侯の天子に朝するを述職と曰ふ。春は耕すを省みて足らざるを補ひ、秋は斂むるを省みて給らざるを助く。其疆に入り、土地辟け、田野治り、老を養ひ賢を尊び、俊杰位に在れば則ち慶あり。慶するに地を以てす。其疆に入り、土地荒蕪し、老を遺れて賢を失ひ、掊克位にあれば、則ち讓あり。一たび朝せざれば則ち其爵を貶し、再び朝せざれば則ち其地を削り、三たび朝せざれば則ち六師之に移す。是の故に天子は討じて伐せず、諸侯は伐して討せず。五霸は諸侯を摟きて以て諸侯を伐つ者なり,故に曰く、五霸は三王の罪人なり。
孟子は述べました:
「五覇(春秋時代の覇者たち)は三王(堯・舜・禹)の教えに背いた者たちです。そして今の諸侯たちは、五覇が残した罪の延長にあります。さらに現在の大夫たちは、今の諸侯が犯した罪の結果によって生じた者たちです。
天子が諸侯を訪問することを『巡狩』と呼びます。諸侯が天子に謁見することを『述職』といいます。春には耕作の状況を調べ、不足を補い、秋には収穫を見て足りない分を助けます。天子が諸侯の領地に入り、土地が開墾され、田畑が整備され、老人が大切にされ、賢者が尊敬され、優秀な人材が地位についている場合、それを『慶』といい、領地を増やします。一方、領地が荒れ果て、賢者が追放され、老人が蔑ろにされ、賢者が軽んじられ、悪徳な役人が権力を握っている場合、それを『譲』といい、罰を与えます。
諸侯が一度天子に謁見しなければ爵位を減じ、二度謁見しなければ領地を削り、三度謁見しなければ軍を派遣して罰します。このため、天子は『討つ』が『伐つ』ことはせず、諸侯が『伐つ』が『討つ』ことはしません。五覇は諸侯をまとめて諸侯を攻めた者たちなので、『五覇は三王の罪人』といわれるのです。」
五霸,桓公爲盛。葵丘之會,諸侯束牲載書而不歃血。初命曰:『誅不孝,無易樹子,無以妾爲妻。』再命曰:『尊賢、育才,以彰有德。』三命曰:『敬老、慈幼,無忘賓旅。』四命曰:『士無世官,官事無攝,取士必得,無專殺大夫。』五命曰:『無曲防,無遏糴,無有封而不吿。』曰:『凡我同盟之人,既盟之後,言歸于好。』今之諸侯,皆犯此五禁,故曰:今之諸侯,五霸之罪人也。長君之惡,其罪小;逢君之惡,其罪大。今之大夫皆逢君之惡,故曰:今之大夫,今之諸侯之罪人也。」
五霸は桓公を盛なりと爲す。葵丘の會に諸侯牲を束ね、書を載せて血を歃らず。初命に曰く、不孝を誅し樹子を易ふること無かれ。妾を以て妻と爲すこと無かれ。再命に曰く、賢を尊び才を育ひ以て有德を彰せ。三命に曰く、老を敬ひ幼を慈し、賓旅を忘るゝこと無かれ。四命に曰く、士官を世〻にすること無かれ。官の事は攝すること無かれ。士を取るには必ず得よ。專に大夫を殺すこと無かれ。五命に曰く、防を曲ぐること無かれ。糴を遏むること無かれ。封ありて吿げざること無かれ。曰く、凡そ我が同盟の人既に盟ふの後、言に好に歸せよと。今の諸侯は皆此の五禁を犯せり。故に曰く、今の諸侯は五霸の罪人なりと。君の惡を長ずるは其罪小なり。君の惡を逢ふるは其罪大なり。今の大夫は皆君の惡を逢ふ。故に曰く、今の大夫は今の諸侯の罪人なりと。
「五覇の中でも、斉の桓公が最も力を持ちました。彼は葵丘で諸侯を招集し、儀礼を行いましたが、血盟を交わすことはありませんでした。彼の命令は以下の通りでした:
1. 『不孝者を罰し、正統な子を立て、妾を正妻としないこと。』
2. 『賢者を尊び、才能ある者を育て、その徳を示すこと。』
3. 『老人を敬い、若者を慈しみ、賓客を忘れないこと。』
4. 『役職を世襲にせず、職務を代行させず、適材適所で任用し、大夫を専断して殺さないこと。』
5. 『水路を曲げて塞がず、穀物の流通を妨げず、封土を得たら天子に報告すること。』
さらに彼は『同盟を結んだ者たちは盟約を守り、善意を保つこと』と命じました。しかし、現在の諸侯たちはこの五つの禁令をすべて破っています。したがって『今の諸侯は五覇の罪人』と言われるのです。
君主の悪行を助長する者の罪は小さいですが、君主の悪行を迎合して助長する者の罪は大きいです。今の大夫たちはすべて君主の悪行を迎合しています。このため、『今の大夫たちは今の諸侯の罪人』と言われるのです。」
魯欲使愼子爲將軍。孟子曰:「不敎民而用之,謂之殃民,殃民者,不容於堯舜之世。一戰勝齊,遂有南陽,然且不可。」愼子勃然不悅,曰:「此則滑厘所不識也。」曰:「吾明吿子,天子之地方千里;不千里,不足以待諸侯。諸侯之地方百里;不百里,不足以守宗廟之典籍。周公之封於魯,爲方百里也;地非不足,而儉於百里。太公之封於齊也,亦爲方百里也;地非不足也,而儉於百里。今魯方百里者五,子以爲有王者作,則魯在所損乎?在所益乎?徒取諸彼以與此,然且仁者不爲,況於殺人以求之乎?君子之事君也,務引其君以當道,志於仁而已。」
魯、愼子をして將軍たらしめんと欲す。孟子曰く、民を敎へずして之を用ふる之を民を殃すと謂ふ。民を殃する者は堯舜の世に容れられず。一たび戰ひて齊に勝ち、遂に南陽を有つて、然も且つ不可なり。愼子勃然として悅ばずして曰く、此れ則ち滑厘の識らざる所なり。曰く、吾明かに子に吿げん。天子の地、方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地、方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるゝや方百里と爲す、地足らざるに非ず、而して百里に儉す。太公の齊に封ぜらるゝや、亦方百里と爲す。地足らざるに非ざるなり、而して百里に儉す。今魯方百里の者五つ、子以爲らく王者作ることあらば則ち魯は損する所に在るか、益する所に在るか、徒に諸を彼に取りて以て此に與ふ。然れども且つ仁者は爲さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に事ふるや、務めて其君を引きて以て道に當り、仁に志さしむるのみ。
魯国は慎子を将軍に任命しようとした。孟子は言った:
「民を教えずにこれを使うことは『民を害する』と言います。民を害する者は、堯や舜のような聖王の時代では容認されません。一度戦いに勝利して斉を破り、南陽を手に入れたとしても、なお許されることではありません。」
慎子はこれを聞いて憤然として言った:
「これは滑釐(孟子の字を音訳したものらしい)が無知だからだ。」
孟子は答えた:
「私が詳しく説明しましょう。天子の領土は四方千里と定められています。それ以下では諸侯を従えることができません。諸侯の領土は四方百里とされています。それ以下では宗廟を守り、典籍を保持することができません。
周公が魯に封じられたとき、その領土は四方百里でした。その土地が不足していたのではありませんが、百里に制限されました。太公が斉に封じられたときも同じく四方百里でした。土地が不足していたわけではなく、百里に制限されました。
今、魯の領土は四方百里の五倍もあります。もし新たな王者が現れたら、魯は減封されるでしょうか?それとも増封されるでしょうか?他国から土地を奪って魯に与えるということでさえ、仁者はこれを行いません。それなのに、人を殺してまで土地を求めることはなおさら許されません。
君子が君主に仕えるときには、君主を正しい道に導くことを務めとし、仁を目指すことだけを志とするのです。」
孟子曰:「今之事君者,皆曰:『我能爲君辟土地,充府庫。』今之所謂良臣,古之所謂民賊也。君不鄉道、不志於仁,而求富之,是富桀也。『我能爲君約與國,戰必克。』今之所謂良臣,古之所謂民賊也。君不鄉道、不志於仁,而求爲之强戰,是輔桀也。由今之道,無變今之俗,雖與之天下,不能一朝居也。」
孟子曰く、今の君に事ふる者は曰く、我は能く君の爲めに土地を辟き府庫を充たさんと。今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君道に鄉はず仁に志さずして之を富まさんことを求む、是れ桀を富ますなり。我れ能く君の爲めに、與國と約し戰へば必ず克たんと。今の所謂良臣は古の所謂民の賊なり。君道に鄉はず仁に志さず、而して之を爲めに强戰することを求む。是れ桀を輔くるなり。今の道に由りて今の俗を變ずること無ければ、之に天下を與ふと雖も、一朝も居ること能はざるなり。
孟子は言った:
「現在の君主に仕える者はこう言います:『私は君主のために領土を広げ、府庫を満たすことができます。』今、これを良臣と呼んでいますが、古の時代ではこれを『民を害する者』と呼んでいました。君主が正しい道を志さず、仁を求めずに富を追求するなら、それは桀を富ませるのと同じです。
また、こう言う者もいます:『私は君主のために諸国と盟約を結び、戦えば必ず勝利を収めます。』これも今では良臣とされていますが、古の時代では『民を害する者』と呼ばれていました。君主が正しい道を志さず、仁を求めずに無理な戦いを追求するなら、それは桀を助けるのと同じです。
このような現代の方法では、今の風習を変えない限り、たとえ天下を与えられても、一日たりとも安らかに治めることはできません。」
白圭曰:「吾欲二十而取一,何如?」孟子曰:「子之道,貉道也。萬室之國,一人陶,則可乎?」曰:「不可,器不足用也。」曰:「夫貉,五穀不生,惟黍生之,無城郭、宮室、宗廟、祭祀之禮,無諸侯幣帛饔飧,無百官有司,故二十取一而足也。今居中國,去人倫,無君子,如之何其可也?陶以寡,且不可以爲國,況無君子乎?欲輕之於堯舜之道者,大貉、小貉也;欲重之於堯舜之道者,大桀、小桀也。」
白圭曰く、吾二十にして一を取らんと欲す何如と。孟子曰く、子の道は貉の道なり。萬室の國一人陶すれば則ち可ならんや。曰く、不可。器用ふるに足らざるなり。曰く、夫れ貉は五穀生ぜず、惟黍のみ之に生ず、城郭宮室宗廟祭祀の禮無く、諸侯の幣帛饔飧無く、百官有司無し。故に二十にして一を取りて足れり。今中國に居り、人倫を去り君子無ければ、之を如何ぞ其れ可ならんや。陶以て寡きも且つ以て國を爲す可からず。況んや君子無きをや。之を堯舜の道より輕くせんと欲する者は大貉小貉なり。之を堯舜の道より重くせんと欲する者は大桀小桀なり。
白圭が言った:
「私は二十分の一の税を取ることを望むが、どう思いますか?」
孟子は答えた:
「あなたのやり方は貉(野蛮民族)のやり方です。万戸の国で、一人だけが陶器を作るとしたら、どうなるでしょうか?」
白圭は言った:
「それは無理です。器が足りなくなります。」
孟子は言った:
「貉の地では五穀は育たず、ただ黍が生えるだけです。城郭も宮室もなく、宗廟や祭祀の礼もありません。また、諸侯からの贈り物や饔飧(ようそん、食物)もなく、百官や有司(行政を担う役人)もいません。そのため、二十分の一を取るだけで足りるのです。
しかし、いま中国に住み、人倫を捨て、君子のいない状態でどうしてそれが可能でしょうか?たとえ陶器を作る人が少ないだけでも国を保つことはできません。それに君子がいなければ、なおさらです。
堯舜の道から軽く逸れる者は大きな貉、小さな貉となり、堯舜の道から大きく逸れる者は大きな桀、小さな桀となるのです。」
白圭曰:「丹之治水也愈於禹。」孟子曰:「子過矣。禹之治水,水之道也。是故禹以四海爲壑。今吾子以鄰國爲壑。水逆行,謂之洚水;洚水者,洪水也,仁人之所惡也。吾子過矣。」
白圭曰く、丹の水を治むるや、禹より愈れり。孟子曰く、子過てり。禹の水を治むるは水の道なり。是の故に禹は四海を以て壑となす。今吾子は鄰國を以て壑と爲す。。水は逆行する之を洚水といふ。洚水とは洪水なり。仁人の惡む所なり。吾子過てり。
白圭が言った:
「丹の治水のやり方は禹よりも優れています。」
孟子は答えた:
「あなたは間違っています。禹が治水を行ったのは、水の道を守るためでした。そのため、禹は四海を水の受け皿としました。しかし、今のあなたは隣国を受け皿としています。
水が逆流することを洚水(洪水)と言います。洚水は洪水であり、仁者が忌み嫌うものです。あなたは間違っています。」
孟子曰:「君子不亮,惡乎執?」
孟子曰く、君子亮ならざれば惡にか執らん。
孟子は言った:
「君子が自らの明徳を明らかにしなければ、どのようにして道を掴むことができるでしょうか?」
魯欲使樂正子爲政。孟子曰:「吾聞之,喜而不寐。」公孫丑曰:「樂正子强乎?」曰:「否。」「有知慮乎?」曰:「否。」「多聞識乎?」曰:「否。」「然則奚爲喜而不寐。」曰:「其爲人也好善。」「好善足乎?」曰:「好善優於天下,而況魯國乎?夫茍好善,則四海之內,皆將輕千里而來吿之以善。夫茍不好善,則人將曰:『訑訑,予既已知之矣。』訑訑之聲音顏色,距人於千里之外。士止於千里之外,則讒諂面諛之人至矣。與讒諂面諛之人居,國欲治,可得乎?」
魯、樂正子をして政を爲さしめんと欲す。孟子曰く、吾之を聞き喜びて寐られず。公孫丑曰く、樂正子は强か。曰く、否。知慮あるか。曰く、否。聞識多きか。曰く、否。然らば則ち奚爲ぞ喜びて寐られざる。曰く、其の人となりや善を好む。善を好めば足るか。曰く、善を好めば天下に優なり。而るを況んや魯國をや。夫れ茍も善を好めば、則ち四海の內、皆千里を輕んじて、來つて之に吿ぐるに善を以てせんとす。夫れ茍も善を好まざれば、則ち人將に曰はんとす、訑訑として予既に已に之を知ると。訑訑の聲音顏色人を千里の外に距む。士千里の外に止まらば、則ち讒諂面諛の人至らん。讒諂面諛の人と居らば、國治を欲すとも得べけんや。
魯国が樂正子に政を任せようとした。
孟子は言った:
「その話を聞いて、喜びのあまり眠れませんでした。」
公孫丑が尋ねた:
「樂正子は剛毅な人物なのですか?」
孟子は答えた:
「いいえ。」
「知恵が深いのですか?」
「いいえ。」
「多くの知識を持っているのですか?」
「いいえ。」
「ではなぜ、喜びのあまり眠れなかったのですか?」
孟子は答えた:
「彼は善を好む人物だからです。」
公孫丑が続けて尋ねた:
「善を好むだけで十分なのですか?」
孟子は答えた:
「善を好むことは天下を治めるのに優れており、ましてや魯国を治めることにおいては言うまでもありません。もし善を好む者であれば、四海の内の人々は千里の道を厭わずに善を知らせに来るでしょう。しかし、善を好まない者であれば、人々は『もう知っています』と言って近寄らなくなるでしょう。そのような態度や表情、声色が人を千里先に遠ざけるのです。士が千里先で立ち止まり近づいてこないならば、讒言をする者や阿諛追従する者が集まってくるでしょう。そのような者たちと共に過ごして、国を治めようとしても、それは不可能です。」
陳子曰:「古之君子,何如則仕?」孟子曰:「所就三,所去三。迎之致敬以有禮,言將行其言也,則就之;禮貌未衰,言弗行也,則去之。其次,雖未行其言也,迎之致敬以有禮,則就之;禮貌衰,則去之。其下,朝不食,夕不食,饑餓不能出門戶;君聞之,曰:『吾大者不能行其道,又不能從其言也,使饑餓於我土地,吾恥之。』周之,亦可受也,免死而已矣。」
陳子曰く、古の君子何如なれば則ち仕ふる。孟子曰く、就く所三つ、去る所三つ。之を迎ふるに敬を致して以て禮あり。言ひて將に其言を行はんとすれば、則ち之に就く。禮貌未だ衰へざるも、言行はれざれば則ち之を去る。其次は未だ其言を行はずと雖も、之を迎ふるに敬を致し、以て禮あれば則ち之に就く。禮貌衰ふれば則ち之を去る。其下は朝に食はず夕に食はず、饑餓門戶を出づる能はず。君之を聞きて曰く、吾大にしては其道を行ふ能はず。又其言に從ふ能はず。我土地に饑餓せしむるは、吾之を恥づとて、之を周はば亦受くべきなり、死を免るゝのみ。
陳子が尋ねた:
「古の君子はどのような状況で仕官したのですか?」
孟子は答えた:
「仕官するには三つの条件があり、去るには三つの条件があります。まず、迎えに来た際、礼を尽くして敬意を示し、さらにその人物が自らの言葉を実行すると約束すれば、仕官します。しかし、礼儀が衰え、自らの言葉を実行しない場合は去ります。
次に、たとえその人物がまだ言葉を実行していなくても、迎えに来た際に礼を尽くして敬意を示すならば、仕官します。しかし、礼儀が衰えれば去ります。
最後に、朝に食事がなく、夕方にも食事がなく、飢餓のために門戸を出ることもできない状況です。この場合、君主がそれを知り『私は大いなる人物としてその道を行うことができず、その言葉に従うこともできない。それゆえにこの人物が私の領土で飢えに苦しむことを私は恥じる』と言って支援を申し出るならば、その助けを受け、飢え死にを免れることが許されますが、それだけです。」
孟子曰:「舜發於畎畝之中,傅說舉於版筑之間,膠鬲舉於魚鹽之中,管夷吾舉於士,孫叔敖舉於海,百里奚舉於市。故天將降大任於是人也,必先苦其心志,勞其筋骨,餓其體膚,空乏其身,行拂亂其所爲;所以動心忍性,曾益其所不能。人恆過,然後能改。困於心,衡於慮,而後作。徵於色,發於聲,而後喻。入則無法家拂士、出則無敵國外患者,國恆亡。然後知生於憂患,而死於安樂也。」
孟子曰く、舜は畎畝の中に發し、傅說は版筑の間に舉げられ、膠鬲は魚鹽の中に舉げられ、管夷吾は士に舉げられ、孫叔敖は海に舉げられ、百里奚は市に舉げらる。故に天の將に大任を是人に降さんとするや、必ず先づ其心志を苦め、其筋骨を勞し、其體膚を餓し、其の身を空乏にし、行其の爲す所に拂亂す。心を動し性を忍び其の能くせざる所を曾益する所以なり。人恆に過ちて然る後に能く改む。心に困し慮に衡して後に作る。色に徵し聲に發して後に喻る。入りては則ち法家拂士無く、出ては則ち敵國外患無き者は國恆に亡ぶ。然して後に知る、憂患に生きて安樂に死することを。
孟子が述べた:
「舜は畎畝(農作業)の中から現れ、傅説は版築(壁作り)の間から抜擢され、膠鬲は魚や塩の商いの中から選ばれ、管夷吾は士(囚人)の中から引き上げられ、孫叔敖は海辺から、百里奚は市場から見出された。ゆえに、天が大任をある人に授けようとする際には、必ずその心志を苦しめ、筋骨を労し、体膚を飢えさせ、身を空乏にし、その行為を混乱させる。これはその心を動かし性格を鍛えることで、以前できなかったことをさらにできるようにさせるためである。
人は常に過ちを犯し、それを通じて改める。心に困難を抱え、思慮が行き詰まることで創意が生まれる。外見に現れ、声に出ることで理解が深まる。国の内には法家や正しい士がいなく、外には敵国や外患がないならば、その国は必ず滅びる。そして、人は憂患の中で生き延び、安楽の中で死ぬということを知るのである。」
孟子曰:「敎亦多術矣。予不屑之敎誨也者,是亦敎誨之而已矣。」
孟子曰く、敎も亦術多し。予が之を屑しとして敎誨せざる者は、是れ亦之を敎誨するのみ。
孟子が述べた:
「教える方法は多様である。私があえて教え導かないということも、実は教え導いていることなのだ。」
孟子曰:「盡其心者,知其性也。知其性,則知天矣。存其心,養其性,所以事天也。夭壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」
孟子曰く、其心を盡す者は其性を知る。其性を知れば則ち天を知る。其心を存して其性を養ふは、天に事ふる所以なり。夭壽貳せず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。
孟子曰:
「心を尽くす者は、自分の性を知る者である。性を知れば、天を知ることになる。心を保ち、性を養うことは天に仕える道である。寿命が長かろうと短かろうと、それに惑わされることなく、身を修めてそれに備える。これが運命を立てる方法である。」
孟子曰:「莫非命也,順受其正。是故知命者,不立乎巖墻之下。盡其道而死者,正命也。桎梏死者,非正命也。」
孟子曰く、命に非ざること莫きなり。順ひて其正を受く。是故に命を知る者は巖墻の下に立たず。其道を盡くして死する者は正命なり。桎梏して死する者は正命に非ざるなり。
孟子曰:
「すべては命によるものである。それを正しく受け入れるべきである。ゆえに、命を知る者は危険な崖や壁の下に身を置かない。道を尽くして死ぬ者は正命である。罪による縛めや枷で死ぬ者は正命ではない。」
孟子曰:「『求則得之,舍則失之』,是求有益於得也,求在我者也。『求之有道,得之有命』,是求無益於得也,求在外者也。」
孟子曰く、求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失ふ。是れ求め得るに益あるなり。我に在る者を求むればなり。之を求むるに道あり。之を得るに命あり。是れ求め得るに益無きなり。外に在る者を求むればなり。
孟子曰:
「求めれば得られ、放棄すれば失う。これは求めることが得るために役立つからであり、求めるものが自分の内にあるからである。一方、正しい道を通じて求めることは、得ることが運命によるものであり、求めることが得るために役立たない。これは求めるものが外にあるからである。」
孟子曰:「萬物皆備於我矣,反身而誠,樂莫大焉。强恕而行,求仁莫近焉。」
孟子曰く、萬物皆我に備る。身に反みて誠なれば樂焉より大なるは莫し。强恕して行ふ。仁を求むること焉より近きは莫し。
孟子曰:
「万物はすでに私の中に備わっている。自分自身を振り返り、誠実であることに努めれば、それ以上の喜びはない。寛容を強めて実践すれば、仁を求める道はこれほど近いものはない。」
孟子曰:「行之而不著焉,習矣而不察焉,終身由之而不知其道者,衆也。」
孟子曰く、之を行ひて著しからず。習ひて察せず。終身之に由りて而も其道を知らざる者は衆し。
孟子曰:
「それを実行してもその意義に気づかず、習慣化しても気に留めず、生涯それに従いながらも道理を知らない者は、世間一般の人々である。」
孟子曰:「人不可以無恥。無恥之恥,無恥矣。」
孟子曰く、人以て恥づること無かるべからず。恥無きを之れ恥づれば恥づること無し。
孟子曰:
「人は恥じる心を失ってはならない。恥じるべきことを恥じないことこそ、本当に恥ずべきことである。」
孟子曰:「恥之於人大矣。爲機變之巧者,無所用恥焉。不恥不若人,何若人有?」
孟子曰く、恥の人に於けるや大なり。機變の巧を爲す者は恥を用ふるに所なし。人に若かざるを恥ぢざれば何ぞ人に若くことか有らむ。
孟子曰:
「恥を知ることは人間にとって大きな徳である。策略や技巧にばかり頼る者には、恥を知る余地がない。自分が他人より劣っていることを恥じることがなければ、どうして他人に追いつけようか?」
孟子曰:「古之賢王,好善而忘勢。古之賢士,何獨不然?樂其道而忘人之勢。故王公不致敬盡禮,則不得亟見之。見且猶不得亟,而況得而臣之乎?」
孟子曰く、古の賢王は善を好みて勢を忘る。古の賢士は何ぞ獨り然らざらん。其道を樂みて人の勢を忘る。故に王公も敬を致し禮を盡さざれば則ち亟〻之を見ることを得ず。見ることすら且つ猶ほ亟〻することを得ず。而るを況んや得て之を臣とするをや。
孟子曰:
「古の賢王は善を愛し、自らの権勢を忘れた。古の賢士もまた同じである。道を楽しみ、人の権勢を意識しなかった。したがって、王公が敬意を尽くし礼を尽くさなければ、賢士に容易に会うことはできなかった。会うことさえ難しいのに、ましてや臣下として仕えることなど望めるだろうか?」
孟子謂宋句踐曰:「子好游乎?吾語子游:人知之亦囂囂,人不知亦囂囂。」曰:「何如斯可以囂囂矣?」曰:「尊德樂義,則可以囂囂矣。故士窮不失義,達不離道。窮不失義,故士得己焉。達不離道,故民不失望焉。古之人,得志,澤加於民;不得志,修身見於世。窮則獨善其身;達則兼善天下。」
孟子、宋句踐に謂ひて曰く、子、游を好むか。吾、子に游を語らん。人之れを知れども亦囂囂、人知らざれども亦囂囂たり。曰く、何如せば斯に以て囂囂たるべき。曰く、德を尊び義を樂めば則ち以て囂囂たるべし。故に士は窮して義を失はず。達して道を離れず。窮して義を失はず、故に士己を得。達して道を離れず、故に民望を失はず。古の人志を得れば澤民に加はり、志を得ざれば身を修めて世に見はる。窮すれば則ち獨り其身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす。
孟子が宋句践に言った:
「君は遊ぶことが好きですか?私が君に遊びについて語りましょう。人が君を知っても、穏やかに遊び、人が君を知らなくても、穏やかに遊ぶのです。」
宋句践が尋ねた:
「どのようにすれば、そのように穏やかでいられるでしょうか?」
孟子が答えた:
「徳を尊び義を楽しむことです。これにより穏やかでいられるのです。ゆえに士(学問を志す人)は困窮しても義を失わず、地位を得ても道を離れません。困窮しても義を失わないからこそ、士は自分に満足でき、地位を得ても道を離れないからこそ、民は期待を裏切られません。古の人は、志を得た時にはその恩恵を民に施し、志を得られなかった時には身を修めて世に姿を現しました。困窮していれば自分を善くし、成功していれば天下を善くするのです。」
孟子曰:「待文王而後興者,凡民也。若夫豪杰之士,雖無文王猶興。」
孟子曰く、文王を待つて後に興る者は凡民なり。夫の豪杰の士の若きは、文王無しと雖も猶ほ興る。
孟子曰:
「文王を待って初めて奮起するのは、普通の民衆です。しかし、豪傑の士に至っては、文王がいなくとも自ら奮起するものです。」
孟子曰:「附之以韓魏之家,如其自視欿然,則過人遠矣。」
孟子曰く、之に附するに韓魏の家を以てするも、如し其れ自ら視ること欿然たらば、則ち人に過ぐること遠し。
孟子曰:
「もし韓や魏のような有力者の家に寄り添うとしても、自らを振り返り謙虚な心を持つことができれば、その人は他人をはるかに超える存在となるだろう。」
孟子曰:「以佚道使民,雖勞不怨。以生道殺民,雖死不怨殺者。」
孟子曰く、佚道を以て民を使へば、勞すると雖も怨みず。生道を以て民を殺せば、死すと雖も殺す者を怨みず。
孟子曰:
「民を労わりの道をもって使えば、たとえ苦労させても恨まれることはない。民を生きる道をもって殺せば、たとえ死んでも殺した者を恨まれることはない。」
孟子曰:「霸者之民,驩虞如也;王者之民,皞皞如也。殺之而不怨,利之而不庸,民日遷善而不知爲之者。夫君子所過者化,所存者神,上下與天地同流,豈曰小補之哉!」
孟子曰く、霸者の民は驩虞如たり。王者の民は皞皞如たり。之を殺して怨みず、之を利して庸とせず。民日に善に遷りて之を爲す者を知らず。夫れ君子過ぐる所の者は化し、存する所の者は神、上下天地と流を同じうす。豈に之を小補すと曰はんや。
孟子曰:
「覇者の下にある民は喜びつつ慎み深く生きる。王者の下にある民は朗々と晴れやかに生きる。たとえ殺されても恨まず、恩恵を受けても恩着せがましいとは思わない。民は日々善行を積むようになるが、その導いた者を知らない。君子が訪れる場所では変化が起き、存在するところでは神秘が宿る。それは天地と調和し流れるものであり、どうして小さな助けにとどまるものだと言えようか?」
孟子曰:「仁言,不如仁聲之入人深也。善政,不如善敎之得民也。善政民畏之;善敎民愛之。善政得民財;善敎得民心。」
孟子曰く、仁言は仁聲の人に入るの深きに如かざるなり。善政は善敎の民を得るに如かざるなり。善政は民之を畏れ、善敎は民之を愛す。善政は民の財を得、善敎は民の心を得。
孟子曰:
「仁愛を語る言葉は、仁愛そのものが発する響きほど人の心に深く届くことはない。善政よりも、善い教えの方が民の心を得る。善政は民がそれを恐れ、善い教えは民がそれを愛する。善政は民の財産を得るが、善い教えは民の心を得るのだ。」
孟子曰:「人之所不學而能者,其良能也。所不慮而知者,其良知也。孩提之童,無不知愛其親者,及其長也,無不知敬其兄也。親親,仁也。敬長,義也。無他,達之天下也。」
孟子曰く、人の學ばざる所にして能くする者は其良能なり。慮らざる所にして知る者は其良知なり。孩提の童も其親を愛することを知らざること無し。其長ずるに及びて其兄を敬することを知らざること無し。親を親しむは仁なり。長を敬するは義なり。他無し之を天下に達するなり。
孟子曰:
「人が学ばずしてできることは、それがその人の天賦の能力である。思索せずに知ることは、その人の天賦の知恵である。幼子は誰もが自分の親を愛することを知り、成長すれば誰もが兄を敬うことを知る。親を愛することが仁であり、長を敬うことが義である。それ以外には何もない。ただ、それを天下に広めるだけである。」
孟子曰:「舜之居深山之中,與木石居,與鹿豕游,其所以異於深山之野人者幾希。及其聞一善言,見一善行,若決江河,沛然莫之能御也。」
孟子曰く、舜の深山の中に居る、木石と居り、鹿豕と游ぶ、其の深山の野人と異なる所以の者幾ど希なり。其の一の善言を聞き、一の善行を見るに及びて、江河を決して沛然として之を能く御むること莫きが若し。
「舜が深山の中で暮らし、木や石と共に過ごし、鹿や猪と遊んでいた頃、彼がその深山の野人と異なるところはわずかであった。しかし、善い言葉を一つ聞き、善い行いを一つ見るたびに、それが江河のように溢れ出し、何物もそれを阻むことはできなかった。」
孟子曰:「無爲其所不爲,無欲其所不欲,如此而已矣。」
孟子曰く、其の爲さざる所を爲すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無かれ、此の如くせんのみ。
孟子曰:
「すべきでないことは決してせず、欲するべきでないものは決して欲しがらない。それだけでよい。」
孟子曰:「人之有德慧術知者,恆存乎疢疾。獨孤臣孽子,其操心也危,其慮患也深,故達。」
孟子曰く、人の德慧術知ある者、恆に疢疾に存す。獨り孤臣孽子其の心を操るや危く、其の患を慮るや深し。故に達す。
孟子曰:
「人が徳や知恵、技術、知識を持っている場合、その人は常に疢疾に直面する。特に孤立した臣下や不遇の子どもたちは、心を磨く際に危険を感じ、深く考え悩むことが多い。だからこそ、彼らは道を極めるのである。」
孟子曰:「有事君人者,事是君,則爲容悅者也。有安社稷臣者,以安社稷爲悅者也。有天民者,達可行於天下而後行之者也。有大人者,正己而物正者也。」
孟子曰く、君に事ふる人といふ者あり。是の君に事ふれば則ち容悅を爲す者なり。社稷を安ずる臣といふ者あり。社稷を安ずるを以て悅と爲す者なり。天民といふ者あり。達して天下に行ふべくして、而る後に之を行ふ者なり。大人といふ者あり。己を正しうして物正しき者なり。
孟子曰:
「君に仕える者という、君の喜ぶ顔を見るために仕える者がいる。国家を安んじる臣という、社稷(国家の安定)を喜びとする者がいる。天民(天下の民)という、行うべきことが天下に通じるとわかった上で行動する者がいる。そして、大人(偉人)という、まず自分を正し、そこから他者を正す者がいる。」
孟子曰:「君子有三樂,而王天下不與存焉。父母俱存,兄弟無故,一樂也。仰不愧於天,俯不怍於人,二樂也。得天下英才而敎育之,三樂也。君子有三樂,而王天下不與存焉。」
孟子曰く、君子に三樂あり。而して天下に王たるは與り存せず。父母俱に存し兄弟故無きは一樂なり。仰いで天に愧ぢず俯して人に怍ぢざるは二樂なり。天下の英才を得て之を敎育するは三樂なり。君子に三樂あり。而して天下に王たるは與り存せず。
「君子には三つの楽しみがあり、天下を治めることはその中には含まれない。両親がともに健在で、兄弟に問題がないこと、これが一つ目の楽しみである。天に恥じることなく、人に後ろめたさを感じないこと、これが二つ目の楽しみである。天下の優れた人材を得て、これを教育すること、これが三つ目の楽しみである。君子には三つの楽しみがあり、天下を治めることはその中に含まれない。」
孟子曰:「廣土衆民,君子欲之,所樂不存焉。中天下而立,定四海之民,君子樂之,所性不存焉。君子所性,雖大行不加焉,雖窮居不損焉,分定故也。君子所性,仁義禮智根於心。其生色也,睟然見於面、盎於背。施於四體,四體不言而喻。」
孟子曰く、廣土衆民は君子之を欲す。樂しむ所は存せず。天下に中して立ち四海の民を定む。君子之を樂しむ。性とする所は存せず。君子の性とする所は大に行ふと雖も加へず。窮居すと雖も損せず。分定まるが故なり。君子の性とする所は、仁義禮智心に根ざす。其の色に生ずるや、睟然として面に見はれ、背に盎れ、四體に施き、四體言はずして喻る。
孟子曰:
「広大な土地と多くの民を得ることを君子は望むが、それを楽しみとはしない。天下の中心に立ち、四海の民を安定させることを君子は喜ぶが、それを本性とはしない。君子の本性は、大いに行動しても増すことはなく、困窮して暮らしても損なわれることはない。それは定まった分を守るからである。君子の本性、すなわち仁・義・礼・智は心に根ざしている。その表れは顔に輝きとなり、背に満ち溢れ、四肢に行き渡り、四肢が語らずとも人々に伝わる。」
孟子曰:「伯夷辟紂,居北海之濱,聞文王作興,曰:『盍歸乎來!吾聞西伯善養老者。』太公辟紂,居東海之濱,聞文王作興,曰:『盍歸乎來!吾聞西伯善養老者。』天下有善養老,則仁人以爲己歸矣。五畝之宅,樹墻下以桑,匹婦蠶之,則老者足以衣帛矣。五母雞,二母彘,無失其時,老者足以無失肉矣。百畝之田,匹夫耕之,八口之家,足以無饑矣。所謂西伯善養老者,制其田里,敎之樹畜,導其妻子,使養其老。五十非帛不暖,七十非肉不飽。不暖不飽,謂之凍餒。文王之民,無凍餒之老者,此之謂也。」
孟子曰く、伯夷紂を辟けて北海の濱に居り、文王作興すと聞き、曰く、盍ぞ歸せざる、吾聞く西伯は善く老を養ふ者と。太公紂を辟けて東海の濱に居り、文王作興すと聞き、曰く、盍ぞ歸せざる、吾聞く西伯は善く老を養ふ者と。天下に善く老を養ふあれば則ち仁人以て己の歸となす。五畝の宅墻下に樹うるに桑を以てし、匹婦之に蠶せば、則ち老者は以て帛を衣るに足れり。五母雞二母彘其時を失ふ無くば、老者は以て肉を失ふ無きに足れり。百畝の田、匹夫之を耕せば、八口の家を以て饑うる無かるべし。所謂西伯善く老を養ふとは其田里を制し、之に樹畜を敎へ、其妻子を導き其老を養はしむ。五十は帛に非ざれば暖ならず。七十は肉に非ざれば飽かず。暖ならず飽かざる之を凍餒と謂ふ。文王の民凍餒の老無しとは此の謂なり。
孟子曰:
「伯夷は紂王を避け、北海のほとりに住んだ。文王が興ると聞き、『帰ろうではないか。西伯(文王)は老人を養うのが上手いと聞いた。』と言った。太公望もまた紂王を避け、東海のほとりに住んでいたが、文王が興ると聞き、『帰ろうではないか。西伯は老人を養うのが上手いと聞いた。』と言った。天下に老人を良く養う人がいれば、仁者はその人を頼りにするのである。
五畝の宅地があれば、その垣の下に桑を植え、妻が蚕を飼えば、老人は絹で暖を取ることができる。五羽の雌鶏と二頭の雌豚を飼い、時節を失わなければ、老人は肉に困らなくなる。百畝の田を一人が耕せば、八口の家族が飢えることはない。このように西伯(文王)は田地を整備し、人々に木を植え、家畜を飼わせ、家族を導いて老人を養わせた。五十歳の者には絹を着せて暖を取り、七十歳の者には肉を食べさせて飽き足らせた。不暖不飽の状態を『凍餒』と言う。文王の民に凍餒する老人はいなかった。これが『西伯は老人を良く養う』という意味である。」
孟子曰:「易其田疇,薄其稅斂,民可使富也。食之以時,用之以禮,財不可勝用也。民非水火不生活,昏暮叩人之門戶,求水火,無弗與者,至足矣。聖人治天下,使有菽粟如水火。菽粟如水火,而民焉有不仁者乎?」
孟子曰く、其田疇を易め其稅斂を薄くせば、民は富ましむべきなり。之を食ふに時を以てし、之を用ふるに禮を以てせば、財勝げて用ふべからざるなり。民水火に非ざれば生活せず。昏暮に人の門戶を叩きて水火を求むるに與へざる者無し。至りて足ればなり。聖人の天下を治むる、菽粟有る水火の如くならしむ。菽粟水火の如くにして、民焉ぞ不仁なる者有らんや。
孟子曰:
「田地の区画を整備し、税の取り立てを軽くすれば、民は富ませることができる。作物は適切な時期に収穫し、礼をもって使用すれば、財は使い切れないほどに豊かになる。民は水や火がなければ生きていけない。夜になって他人の家を訪ね、水や火を求めても与えられないことはない。これが十分であるということだ。
聖人が天下を治めるならば、穀物を水や火のように豊富に行き渡らせる。穀物が水や火のように手に入るようになれば、民の間に不仁(思いやりのない行い)をする者がいるだろうか。」
孟子曰:「孔子登東山而小魯,登泰山而小天下。故觀於海者難爲水;游於聖人之門者難爲言。觀水有術,必觀其瀾。日月有明,容光必照焉。流水之爲物也,不盈科不行;君子之志於道也,不成章不達。」
孟子曰く、孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海に觀る者は水を爲し難く、聖人の門に游ぶ者は言を爲し難し。水を觀るに術あり。必ず其瀾を觀る。日月明有り。容光必ず照らす。流水の物爲るや、科に盈たざれば行かず、君子の道に志すや、章と成さざれば達せず。
孟子曰:
「孔子が東山に登れば魯が小さく見え、泰山に登れば天下が小さく見える。ゆえに、海を見れば他の水が小さく見え、聖人の教えを受ければ他の言葉が小さく見える。
水を見るには技法があり、その流れを観察しなければならない。日や月が明るければ、その光は必ず物を照らす。流水というものは、障害物を満たして流れ出さない限り、進むことはない。君子が道を求める志も同様で、章を成さなければ通じることはない。」
孟子曰:「雞鳴而起,孳孳爲善者,舜之徒也。雞鳴而起,孳孳爲利者,跖之徒也。欲知舜與跖之分,無他,利與善之間也。」
孟子曰く、雞鳴きて起き、孳孳として善を爲す者は舜の徒なり。雞鳴きて起き孳孳として利を爲す者は跖の徒なり。舜と跖との分を知らんと欲せば、他無し、利と善との間なり。
孟子曰:
「鶏が鳴くと起き、ひたすら善を求める者は舜の一派である。鶏が鳴くと起き、ひたすら利益を追い求める者は蹠(盗跖、古代の盗賊)の一派である。舜と蹠の違いを知りたいなら、ほかに見るべきものはない。利と善の違いだけだ。」
※盗跖もしくは盗蹠(とうせき)は、中国の古文献に登場する春秋時代魯の盗賊団の親分。魯の孝公の子の姫無駭(字は子展)の末裔である展獲(字は子禽、柳下恵(中国語版)の名で知られる)の弟。九千人の配下を従えて各地を横行し、強盗略奪をほしいままにしたといい、しばしば盗賊の代名詞のように語られる。一説には黄帝時代の盗賊団の親分。
孟子曰:「楊子取『爲我』,拔一毛而利天下,不爲也。墨子『兼愛』,摩頂於踵利天下,爲之。子莫『執中』,執中爲近之。執中無權,猶執一也。所惡執一者,爲其賊道也,舉一而廢百也。」
孟子曰く、楊子は我が爲に爲るを取る。一毛を拔きて天下を利するも爲さざるなり。墨子は兼ね愛す。頂を摩し踵に至るも、天下を利するは之を爲す。子莫は中を執る。中を執るは之に近しと爲す。中を執りて權なきは猶ほ一を執るがごとし、一を執ることを惡む所の者は、其の道を賊ふが爲めなり。一を舉げて百を廢すればなり。
孟子曰:
「楊朱は『私のため』を貫き、天下のために一本の毛を抜くことすらしなかった。墨子は兼愛を説き、頭から足の先まで削るような苦労をしてでも天下のために尽くした。だが、中庸を取るという子莫の考えは近いようでありながら危うい。中庸にこだわりすぎて柔軟さを失うと、ただ一方に偏るのと変わらなくなる。執着が道を損なうのは、一つを掲げて百を捨てるようなものだからだ。」
孟子曰:「饑者甘食,渴者甘飮,是未得飮食之正也,饑渴害之也。豈惟口腹有饑渴之害?人心亦皆有害。人能無以饑渴之害爲心害,則不及人不爲憂矣。」
孟子曰く、饑ゑたるものは食を甘んじ、渴する者は飮を甘んず。是れ未だ飮食の正を得ざるなり。饑渴之を害すればなり。豈に惟に口腹の饑渴の害あるらんや。人心も亦皆害有り。人能く饑渴の害を以て心の害と爲すこと無ければ、則ち人に及ばざるは憂と爲さず。
孟子曰:
「飢えた者は食べ物をうまいと感じ、渇いた者は飲み物をうまいと感じる。これはまだ正しい飲食の状態ではない。飢えと渇きが心身を害しているからそう感じるだけだ。口腹に飢えと渇きが害を及ぼすように、人の心にも害がある。もし人が飢えや渇きのような心の害を取り除ければ、他人に及ばないことを心配する必要はなくなる。」
孟子曰:「柳下惠不以三公易其介。」
孟子曰く、柳下惠は三公を以て其介を易へず。
孟子曰:
「柳下惠は三公の地位と引き換えにその清廉さを捨てなかった。」
孟子曰:「有爲者,辟若掘井。掘井九軔而不及泉,猶爲棄井也。」
孟子曰く、爲すこと有る者は辟へば井を掘るが若し。井を掘ること九軔にして泉に及ばざれば猶ほ井を棄つとなす。
孟子曰:
「何かを成し遂げようとする者は井戸を掘るようなものである。井戸を九仭(仭は長さの単位、約7尺または8尺)掘りながら水に達しなければ、それは結局放棄された井戸に等しい。」
孟子曰:「堯舜,性之也;湯武,身之也;五霸,假之也。久假而不歸,惡知其非有也?」
孟子曰く、堯舜は之を性にするなり。湯武は之を身にするなり。五霸は之を假るなり。久しく假りて歸さず。惡んぞ其の有に非ざるを知らんや。
孟子曰:
「堯と舜は生まれながらにして徳を備えた者であり、湯と武王は自らの努力によって徳を身に備えた者である。五覇は徳を借りていたに過ぎない。長らく借りたまま返さなければ、それが自分のものでないことをどうしてわからないことがあるだろうか。」
公孫丑曰:「伊尹曰:『予不狎于不順。』放太甲于桐,民大悅;太甲賢,又反之,民大悅。賢者之爲人臣也,其君不賢,則固可放與?」孟子曰:「有伊尹之志,則可;無伊尹之志,則篡也。」
公孫丑曰く、伊尹曰く、予不順に狎れずと。太甲を桐に放く。民大に悅ぶ。太甲賢にして又之を反す。民大に悅ぶ。賢者の人臣たるや、其君不賢ならば則ち固より放くべきか。孟子曰く、伊尹の志有らば則ち可なり。伊尹の志無くば則ち篡へるなり。
公孫丑曰:「伊尹は『私は不順な者には親しまず』と言いました。太甲を桐に追放したとき、民は大いに喜びました。後に太甲が賢くなって戻されたとき、民は再び大いに喜びました。賢者が臣下となる場合、もしその君主が賢くなければ、追放することも許されるのでしょうか?」
孟子曰:「伊尹の志を持っていれば許される。しかし、伊尹の志がなければ、それは簒奪に等しい。」
公孫丑曰:「《詩》曰:『不素餐兮』,君子之不耕而食,何也?」
孟子曰:「君子居是國也,其君用之,則安富尊榮;其子弟從之,則孝弟忠信。『不素餐兮』,孰大於是?」
公孫丑に曰く、詩に曰く、素餐せずと。君子の耕さずして食ふは何ぞや。孟子曰く、君子の是の國に居るや、其君之を用ふれば則ち安富尊榮、其子弟之に從へば則ち孝弟忠信、素餐せざること、孰れか是より大ならん。
公孫丑曰:「『詩経』には『ただ食べて無為に日を送ることはない』とあります。君子が耕作せずに食べるのは、どうしてでしょうか?」
孟子曰:「君子がその国に居れば、その君主が彼を用いることで安定し、国は富み、尊敬される地位に至ります。君子の子弟がその君子に従えば、孝行であり、兄弟を敬い、忠実で誠実となります。『ただ食べて無為に日を送ることはない』という言葉よりも、この働きの方が重要なのではありませんか?」
王子墊問曰:「士何事?」孟子曰:「尚志。」曰:「何謂尚志?」曰:「仁義而已矣。殺一無罪,非仁也;非其有而取之,非義也。居惡在?仁是也;路惡在?義是也。居仁由義,大人之事備矣。」
王子墊問ひて曰く、士何をか事とする。孟子曰く、志を尙くす。曰く、何をか志を尙くすると謂ふ。曰く、仁義のみ。一無罪を殺すは仁に非ざるなり。其有に非ずして之を取るは義に非ざるなり。居惡にか在る。仁是なり。路惡にか在る。義是なり。仁に居り義に由る、大人の事備れり。
王子墊が尋ねた:「士とは何をする者ですか?」
孟子曰:「志を重んじる者です。」
王子墊がさらに尋ねた:「志を重んじるとは何を意味しますか?」
孟子曰:「仁と義のことです。罪のない者を殺すことは仁ではありません。自分のものでないものを取ることは義ではありません。『住むべき場所はどこか』と問われれば、『仁にある』と答えます。『歩むべき道はどこか』と問われれば、『義にある』と答えます。仁に住み、義に従うことで、大人(徳のある人物)の役割は全うされるのです。」
孟子曰:「仲子,不義與之齊國而弗受,人皆信之,是舍簞食豆羹之義也。人莫大焉亡親戚、君臣、上下。以其小者,信其大者,奚可哉?」
孟子曰く、仲子は不義にして之に齊國に與ふるも受けず。人皆之を信ず。是れ簞食豆羹を舍つるの義なり。人親戚君臣上下を亡するより大なるは莫し。其小なる者を以て其大なる者を信ず、奚ぞ可ならんや。
孟子曰:「仲子が、不義に得た斉国を受け取らなかったことで、誰もが彼を信じました。しかし、それは簞食や豆羹(簡素な食事)を捨てるという小さな義を守ったにすぎません。親戚や君臣、上下といった大きなものを失うことに比べれば、何ほどのことでしょうか。小さな義を守って大きな義を損なうことが、どうして正しいと言えるでしょうか?」
桃應問曰:「舜爲天子,皋陶爲士,瞽瞍殺人,則如之何?」孟子曰:「執之而已矣。」「然則舜不禁與?」曰:「夫舜惡得而禁之?夫有所受之也。」「然則舜如之何?」曰:「舜視棄天下,猶棄敝蹝也。竊負而逃,遵海濱而處,終身欣然,樂而忘天下。」
桃應問ひて曰く、舜天子たり。皋陶士たり。瞽瞍人を殺さば則ち之を如何にせん。孟子曰く、之を執へんのみ。然らば則ち舜禁ぜざるか。曰く、夫れ舜惡んぞ得て之を禁ぜん。夫れ之を受くる所有るなり。然らば則ち舜之を如何にせん。曰く、舜天下を棄つる視るがこと猶ほ敝蹝を棄つるがごとし。竊かに負ひて逃れ、海濱に遵ひて處り、身を終ふるまで欣然として樂みて天下を忘れん。
桃応が問った:「舜が天子であり、皋陶(伝説上の人物、舜堯時代の裁判官)が士(法を司る役職)であったときに、瞽瞍(舜の父)が人を殺した場合、どうするのですか?」
孟子曰:「その罪を捉えるだけです。」
桃応がさらに尋ねた:「それでは舜は(父を)止めなかったのですか?」
孟子曰:「そもそも舜にどうして止めることができるでしょうか?舜には法を施行する者としての責任があるのです。」
桃応が続けて問った:「それでは舜はどのように対応したのですか?」
孟子曰:「舜にとって天下を捨てることは、古びた履物を捨てるようなものです。もし父を守るためならば、天子の地位を捨てて父を背負い逃れ、海辺に隠れて暮らすでしょう。そして生涯、満ち足りた気持ちで楽しく暮らし、天下のことなど忘れてしまうのです。」
孟子自范之齊,望見齊王之子,喟然嘆曰:「居移氣,養移體,大哉居乎!夫非盡人之子與?」孟子曰:「王子宮室、車馬、衣服多與人同,而王子若彼者,其居使之然也。況居天下之廣居者乎?魯君之宋,呼於垤澤之門。守者曰:『此非吾君也,何其聲之似我君也?』此無他,居相似也。」
孟子、范より齊に之き、齊王の子を望み見、喟然として嘆じて曰く、居は氣を移し、養は體を移す。大なるかな居や。夫れ盡く人の子に非ざるか。孟子曰く、王子の宮室車馬衣服多く人と同じくして、王子彼の若きは、其居之をして然りしむるなり。況んや天下の廣居に居る者をや。魯の君宋に之き、垤澤の門に呼ぶ。守る者曰く、此れ吾が君に非ざるなり。何ぞ其聲の我が君に似たるや。此れ他なし、居相似たればなり。
孟子が范から斉に向かう途中、斉王の息子を遠くから見て、感慨深げに言った:
「環境は気質を変え、養育は体を変える。居住する場所の重要性は大きいものだ。あれは(王の息子ではなく)普通の人の子ではないだろうか?」
孟子曰:「王子の宮殿や乗り物、衣服など、多くは他人と同じだが、それにもかかわらず王子があのようであるのは、その居住環境が原因だ。ましてや天下の広大な居住地に住む者にとってはなおさらだ。魯国の君主が宋国を訪れたとき、垤沢の門で呼びかけた。守衛が言った:『これは我が君ではない、しかし声が我が君に似ている。』これは他でもなく、居住環境が似ていたからだ。」
孟子曰:「食而弗愛,豕交之也。愛而不敬,獸畜之也。恭敬者,幣之未將者也。恭敬而無實,君子不可虛拘。」孟子曰:「形色,天性也。惟聖人然後可以踐形。」
孟子曰く、食ひて愛せざるは之を豕交するなり。愛して敬せざるは之を獸畜するなり。恭敬は幣の未だ將はざる者なり。恭敬して實なければ君子は虛しく拘す可からず。
孟子曰:「食事を与えて愛情を示さなければ、それは豚と交わるようなものだ。愛情を示しても敬意を持たなければ、それはただの家畜扱いだ。敬意を持つというのは、贈り物がまだ渡されていなくても態度で示されるものだ。しかし、敬意があっても中身が伴わなければ、君子は空虚な形式に縛られることを良しとしない。」
孟子曰:「形色,天性也。惟聖人然後可以踐形。」
孟子曰く、形色は天性なり。惟聖人にして然る後に以て形を踐む可し。
孟子曰:「形(外見)と色(容姿)は天性である。ただし聖人のみがその形を完全に生かし実現することができる。」
齊宣王欲短喪。公孫丑曰:「爲期之喪,猶愈於已乎?」孟子曰:「是猶或紾其兄之臂,子謂之『姑徐徐』云爾。亦敎之孝弟而已矣。」王子有其母死者,其傅爲之請數月之喪。公孫丑曰:「若此者何如也?」曰:「是欲終之而不可得也,雖加一日愈於已。謂夫莫之禁而弗爲者也。」
齊の宣王喪を短くせんと欲す。公孫丑曰く、期の喪をなすは猶ほ已むに愈るか。孟子曰く、是れ猶ほ其兄の臂を紾らすものあり、子之に謂つて姑く徐徐にせよと言ふがごとし。亦之に孝弟を敎へんのみ。王子其母死する者あり。其傅之が爲めに數月の喪を請ふ。公孫丑曰く、此の若き者は何如ぞや。曰く、是れ之を終へんと欲して得可からざるものなり。一日を加ふと雖も已むに愈れり。夫の之を禁ずる莫くして爲さざる者を謂ふなり。
斉の宣王は喪の期間を短くしたいと望んだ。公孫丑が尋ねた:「一年の喪でも、全くしないよりは良いのではありませんか?」
孟子曰:「それは、誰かが兄の腕をひねった時に、『まあ少しずつ落ち着け』と言うのに似ている。それも一種の孝と弟(兄弟愛)を教えることにすぎない。」
ある王子が母を亡くし、その教育係が数か月間の喪を行うよう提案した。公孫丑が尋ねた:「このような場合、どう評価すべきでしょうか?」
孟子曰:「それは喪を完全に終えることを望むが、叶えられない例である。一日でも長くすることは、全く行わないより良いといえる。それは何者にも禁じられることなく、それでも行わない者への批判でもある。」
孟子曰:「君子之所以敎者五:有如時雨化之者,有成德者,有達財者,有答問者,有私淑艾者。此五者,君子之所以敎也。」
孟子曰く、君子の敎ふる所以の者五、時雨の之を化するが如き者有り。德を成す者有り。財を達する者有り。問に答ふる者あり。私に淑艾する者あり。此五者は君子の敎ふる所以なり。
孟子曰:「君子が教える方法は五つある。一つ目は、時雨が地を潤すように自然に影響を与えるもの。二つ目は、徳を完成させるもの。三つ目は、才能を伸ばすもの。四つ目は、質問に答えるもの。五つ目は、密かに模範となり、良い影響を与えるもの。この五つが君子の教え方である。」
公孫丑曰:「道則高矣、美矣,宜若登天然,似不可及也。何不使彼爲可幾及而日孳孳也?」孟子曰:「大匠不爲拙工改廢繩墨;羿不爲拙射變其彀率。君子引而不發,躍如也。中道而立,能者從之。」
公孫丑曰く、道は則ち高し美し。宜しく天に登るが若く然るべし。及ぶ可からざるに似たり。何ぞ彼をして幾及す可きを爲して日〻に孳孳せしめざる。孟子曰く、大匠は拙工の爲めに繩墨を改廢せず。羿は拙射の爲めに其彀率を變ぜず。君子は引きて發せず、躍如たり。中道にして立つ。能者之に從ふ。
公孫丑曰:「道は高尚で美しいものです。しかし、それはまるで天に登るように見え、手が届かないようです。もっと身近で努力すれば到達できるように見せるべきではありませんか?」
孟子曰:「名匠は不器用な者のために定規や墨縄を変えたりはしない。羿(名射手)は下手な射手のために弓の引き方を変えたりはしない。君子は指導するが、強要はしない。あたかも飛び跳ねるようにして、その道に立ち、能力のある者がそれに従うのを待つのである。」
孟子曰:「天下有道,以道殉身;天下無道,以身殉道。未聞以道殉乎人者也。」
孟子曰く、天下道有れば道を以て身に殉ず、天下道無ければ身を以て道に殉ず。未だ道を以て人に殉ずる者を聞かざるなり。
孟子曰:「天下に道があるときは、その道に従って身を捧げる。天下に道がないときは、自らの身をもって道を守る。道を守るために人に従うということは、聞いたことがない。」
公都子曰:「滕更之在門也,若在所禮,而不答,何也?」孟子曰:「挾貴而問,挾賢而問,挾長而問,挾有勛勞而問,挾故而問,皆所不答也。滕更有二焉。」
公都子曰く、滕更の門に在るや、禮する所にあるが若し。而も答へざるは何ぞや。孟子曰く、貴を挾みて問ひ、賢を挾みて問ひ、長を挾みて問ひ、勛勞有るを挾みて問ひ、故を挾みて問ふは、皆答へざる所なり。滕更二つあり。
公都子曰:「滕更が門の前に立ち、礼を尽くしているように見えましたが、先生は応答されませんでした。それはなぜですか?」
孟子曰:「身分の高さを誇って問いかける者、賢さを誇って問いかける者、年長を誇って問いかける者、功績を誇って問いかける者、過去の縁を誇って問いかける者、これらすべての問いには答えない。滕更はこれらのうち二つを持っていた。」
孟子曰:「於不可已而已者,無所不已。於所厚者薄,無所不薄也。其進銳者,其退速。」
孟子曰く、已むべからざるに於て已む者は、已まざる所無し。厚くする所の者に於て薄くすれば薄うせざる所なし。其進むこと銳き者は其退くこと速かなり。
孟子曰:「やむを得ない時にやむを得ず止める者は、どこまでもやむを得ず止めるだろう。重きを置くべきところで軽くする者は、どこまでも軽んじるだろう。急いで進む者は、退くのも速い。」
孟子曰:「君子之於物也,愛之而弗仁;於民也,仁之而弗親。親親而仁民,仁民而愛物。」
孟子曰く、君子の物に於けるや、之を愛して仁せず。民に於けるや、之を仁して親しまず。親を親しみて民に仁し、民に仁して物を愛す。
孟子曰:「君子は万物に対して愛情を持つが、万物を仁で扱うわけではない。民に対しては仁で接するが、親密に接するわけではない。親しい者を親しみつつ民を仁で扱い、民を仁で扱いつつ万物を愛するのが道理である。」
孟子曰:「知者無不知也,當務之爲急;仁者無不愛也,急親賢之爲務。堯舜之知而不遍物,急先務也。堯舜之仁不遍愛人,急親賢也。不能三年之喪,而緦小功之察:放飯流歠,而問無齒決:是之謂不知務。」
孟子曰く、知者は知らざる無きなり。務むべきを之れ急と爲す。仁者は愛せざる無きなり。賢を親しむを急にするを之れ務と爲す。堯舜の知にして、物に遍からざるは先務を急にするなり。堯舜の仁にして人を愛するに遍からざるは賢を親しむことを急にするなり。三年の喪を能くせずて緦小功を之れ察し、放飯流歠して齒決無きを問ふ。是れ之を務を知らずと謂ふ。
孟子曰:「知者は何事も知り尽くしているわけではなく、急務に専念する。仁者はすべてを愛するわけではなく、賢者を親しくすることを急務とする。堯や舜の知恵も、すべての物事に及んだわけではなく、重要なことを優先した。堯や舜の仁も、すべての人に及んだわけではなく、賢者を親しむことを優先した。三年の喪を全うできず、小さな功績や儀式にこだわり、満腹になるまで食べながら些細なことを尋ねる――これは務めるべきことを知らないということである。」
孟子曰:「不仁哉,梁惠王也!仁者,以其所愛及其所不愛;不仁者,以其所不愛及其所愛。」公孫丑問曰:「何謂也?」「梁惠王以土地之故,糜爛其民而戰之,大敗;將復之,恐不能勝,故驅其所愛子弟以殉之;是之謂以其所不愛及其所愛也。」
孟子曰く、不仁なるかな、梁の惠王、仁者は其の愛する所を以て其の愛せざる所に及ぼし不仁者は其の愛せざる所を以て其の愛する所に及ぼす。公孫丑曰く、何の謂ぞや。梁の惠王は土地の故を以て其民を糜爛して之を戰はせ、大に敗る。將に之を復せんとす。勝つ能はざるを恐る。故に其の愛する所の子弟を驅りて以て之に殉ず。是れ之を其の愛せざる所を以て其の愛する所に及ぼすと謂ふなり。
孟子曰:「梁の恵王は仁ではない!仁者は、自らが愛するものの愛を広げて自ら愛さないものにまで及ぼすが、不仁者は、自ら愛さないものを愛するものにまで及ぼしてしまう。」
公孫丑が尋ねた。「どういう意味ですか?」
孟子は答えた。「梁の恵王は土地のために民を疲弊させ、戦争に駆り出した。そして大敗を喫した後、再び戦おうとしたが、勝つ自信がなかった。そのため愛する子弟を犠牲にして戦争を続けた。これが、自分の愛さないもの(利益や土地)を、自分の愛するもの(子弟)に及ぼすということだ。」
孟子曰:「《春秋》無義戰,彼善於此,則有之矣。征者,上伐下也,敵國不相征也。」
孟子曰く、春秋に義戰無し。彼此より善きは則ち之れ有り。征とは上下を伐つなり。敵國は相征せざるなり。
孟子曰:「『春秋』には義戦というものはない。ただし、ここに善があり、そこに悪がある場合のみ、それがあると言える。『征』というのは上が下を討つことであり、敵対する国同士が『征』と呼ばれることはない。」
孟子曰:「盡信書,則不如無書。吾於《武成》,取二三策而已矣。仁人無敵於天下。以至仁伐至不仁,而何其血之流杵也?」
孟子曰く、盡く書を信ずれば書無きに如かず。吾武成に於て二三策を取るのみ。仁人は天下に敵無し。至仁を以て至不仁を伐つ。而るに何ぞ其れ血の杵を流さん。
孟子曰:「『書経』をすべて信じるなら、むしろ『書経』がないほうがよい。私は『武成』から二、三の策を取るにすぎない。仁者は天下に敵なし。至仁をもって至不仁を討つというのに、どうして血が杵を流れるように溢れることがあろうか?」
孟子曰:「有人曰:『我善爲陳,我善爲戰』,大罪也。國君好仁,天下無敵焉,南面而征北狄怨,東面而征西夷怨,曰:『奚爲後我?』武王之伐殷也,革車三百兩,虎賁三千人。王曰:『無畏!寧爾也,非敵百姓也。』若崩厥角稽首。征之爲言正也,各欲正己也,焉用戰?」
孟子曰く、人あり、曰く、我善く陳を爲し、我善く戰を爲すと。大罪なり。國君仁を好めば天下に敵無し。南面して征すれば北狄怨み、東面して征すれば西夷怨む。曰く、奚爲れぞ我を後にすると。武王の殷を伐つや、革車三百兩、虎賁三千人。王曰く、畏るゝ無かれ、爾を寧ぜん、百姓を敵とするに非ざるなりと。崩るゝが若く角を厥して稽首す。征の言たる正なり。各己を正しくせんと欲するなり。焉んぞ戰を用ひん。
孟子曰:「『私は戦略に優れ、戦に長けている』と自ら言う者がいるが、それは大罪である。国君が仁を好むなら、天下に敵はいない。南を向いて北狄を討てば、北狄が怨みを持ち、東を向いて西夷を討てば、西夷が怨みを持つ。そして言う、『なぜ我々を後回しにするのか?』と。武王が殷を討った時、革車三百輛、虎賁三千人であった。王は言った、『恐れるな!これはお前たち(人民)のためであり、敵対する百姓に向けたものではない。』もし彼らが頭を垂れて帰順するなら、それでよい。『征』という言葉は正すことを意味する。各々が己を正そうとするのであれば、戦争に何の必要があるだろうか?」
孟子曰:「梓匠輪輿,能與人規矩,不能使人巧。」
孟子曰く、梓匠輪輿は能く人に規矩を與ふるも、人をして巧ならしむる能はず。
孟子曰:「木工や車大工は人に規矩(定規やコンパス)を教えることはできるが、人を巧みにすることはできない。」
孟子曰:「舜之飯糗茹草也,若將終身焉。及其爲天子也,被袗衣,鼓琴,二女果若固有之。」
孟子曰く、舜の糗を飯ひ草を茹ふや、將に身を終へんとするが若し。其の天子と爲るに及びて袗衣を被り琴を鼓し二女果す。之を固有するが若し。
孟子曰:「舜が糗(ほしいい)を食べ、草を口にしていた時、その様子はまるで一生そうして過ごすかのようであった。しかし、天子となってからは袗衣(礼服)を着て琴を奏で、二人の妃と共に果物を楽しむ。その様子は、まるでそれらがもともと彼のものであったかのようである。」
孟子曰:「吾今而後知殺人親之重也:殺人之父,人亦殺其父;殺人之兄,人亦殺其兄。然則非自殺之也?一間耳。」
孟子曰く、吾今にして後人の親を殺すの重きを知る。人の父を殺せば人も亦其父を殺す。人の兄を殺せば人も亦其兄を殺す。然らば則ち自ら之を殺すに非ざるなるや一間のみ。
孟子曰:「私は今になって人の親を殺すことの重大さを知った。人の父を殺せば、他人も自分の父を殺すだろう。人の兄を殺せば、他人も自分の兄を殺すだろう。こうしてみれば、それは自分から殺されるのではなく、ただ一つのきっかけに過ぎないのだ。」
孟子曰:「古之爲關也,將以御暴;今之爲關也,將以爲暴。」
孟子曰く、古の關を爲くるや、將に以て暴を御がんとす。今の關を爲くるや、將に以て暴を爲さんとす。
孟子曰:「古代において関所を設けたのは、暴力を防ぐためであった。だが、今の関所は、むしろ暴力を行うために作られている。」
孟子曰:「身不行道,不行於妻子;使人不以道,不能行於妻子。」
孟子曰く、身道を行はざれば妻子に行はれず。人を使ふに道を以てせざれば妻子に行ふ能はず。
孟子曰:「自ら道を行わなければ、妻子にもその道を示すことができない。人を使う際に道によらなければ、その人も妻子に道を行わせることはできない。」
孟子曰:「周于利者,兇年不能殺;周於德者,邪世不能亂。」
孟子曰く、利に周ねき者は兇年も殺すこと能はず。德に周き者は邪世も亂すこと能はず。
孟子曰:「利益に基づいて行動する者は、凶年(凶作の年)であっても命を失うことはない。徳に基づいて行動する者は、乱れた世でも惑わされることはない。」
孟子曰:「好名之人,能讓千乘之國。茍非其人,簞食豆羹見於色。」
孟子曰く、名を好む人は能く千乘の國を讓る。茍も其人に非ざれば簞食豆羹も色に見はる。
孟子曰:「名誉を好む者は、千乗の国(大国)を譲ることができる。しかし、真にその徳を備えた者でなければ、簡素な食事を与えられても、その態度に現れる。」
孟子曰:「不信仁賢,則國空虛。無禮義,則上下亂。無政事,則財用不足。」
孟子曰く、仁賢を信ぜざれば則ち國空虛す。禮義無ければ則ち上下亂る。政事無ければ則ち財用足らず。
孟子曰:「仁賢を信じなければ、国は空虚となる。礼義がなければ、上下の秩序が乱れる。政事がなければ、財政も十分にはならない。」
孟子曰:「不仁而得國者,有之矣。不仁而得天下者,未之有也。」
孟子曰く、不仁にして國を得る者之れ有り。不仁にして天下を得るは未だ之れあらざるなり。
孟子曰:「不仁で国を得た者はいたが、不仁で天下を得た者はいまだかつて存在しない。」
孟子曰:「民爲貴,社稷次之,君爲輕。是故得乎丘民而爲天子;得乎天子爲諸侯;得乎諸侯爲大夫。諸侯危社稷,則變置;犧牲既成,粢盛既潔,祭祀以時,然而旱乾水溢,則變置社稷。」
孟子曰く、民を貴しと爲す。社稷之に次ぎ、君を輕しと爲す。是故に丘民に得て天子となり、天子に得て諸侯と爲り、諸侯に得て大夫となる。諸侯社稷を危くせんとすれば則ち變置す。犧牲既に成り、粢盛既に潔く、祭祀時を以てす。然り而して旱乾水溢あれば則ち社稷を變置す。
孟子曰:「民は最も尊く、社稷(国家・土地)はそれに次ぎ、君主は最も軽い。このため、広く民心を得て天子となり、天子に認められて諸侯となり、諸侯に認められて大夫となる。諸侯が社稷を危うくするならば、地位を改められる。祭祀が整い、供物が潔いにもかかわらず、旱魃や洪水が続く場合、社稷そのものを改める。」
孟子曰:「聖人,百世之師也,伯夷、柳下惠是也。故聞伯夷之風者,頑夫廉,懦夫有立志。聞柳下惠之風者,薄夫敦,鄙夫寬。奮乎百世之上,百世之下聞者莫不興起也。非聖人而能若是乎?而況於親炙之者乎?」
孟子曰く、聖人は百世の師なり。伯夷・柳下惠是なり。故に伯夷の風を聞く者は頑夫も廉に、懦夫も志を立つること有り。柳下惠の風を聞く者は薄夫も敦く、鄙夫も寬なり。百世の上に奮ひて、百世の下聞く者興起せざるは莫し。聖人に非ずして能く是くの若くならんや。而るに況んや之に親炙する者に於てをや。
孟子曰:「聖人は百世の師である。伯夷や柳下惠がその例だ。伯夷の風を聞いた者は、頑固な者でさえ廉直となり、臆病な者でさえ志を立てる。柳下惠の風を聞いた者は、薄情な者が厚情になり、粗野な者が寛容となる。彼らの徳は百世を超えて感動を与え、百世後に聞いた者でさえ奮い立たせる。聖人でなければこれほどの影響を及ぼせるだろうか?ましてや彼らと直接接した者においてはなおさらである。」
孟子曰:「仁也者,人也;合而言之,道也。」
孟子曰く、仁とは人なり。合して之を言へば道なり。
孟子曰:「仁とは人そのものである。一つにまとめて言えば、それは道である。」
孟子曰:「孔子之去魯,曰:『遲遲吾行也』,去父母國之道也。去齊,接淅而行,去他國之道也。」
孟子曰く、孔子の魯を去るに曰く、遲遲として吾れ行くなりと。父母の國を去るの道なり。齊を去るに淅を接して行く。他國を去るの道なり。
孟子曰:「孔子が魯を去るとき、『遅々として我が行く』と言った。それは父母の国を去る道理によるものである。斉を去る際には、ひどく慌ただしく去った。それは他国を去る道理によるものである。」
孟子曰:「君子之厄於陳蔡之間,無上下之交也。」
孟子曰く、君子の陳蔡の閒に厄するは上下の交無ければなり。
孟子曰:「君子が陳と蔡の間で窮地に陥ったのは、上下の交わりがなかったためである。」
貉稽曰:「稽大不理於口。」孟子曰:「無傷也。士憎茲多口。《詩》云:『憂心悄悄,慍于群小』,孔子也。『肆不殄厥慍,亦不隕厥問』,文王也。」
貉稽曰く、稽大に口に理ならず。孟子曰く、傷む無かれ。士憎茲に多口なり。詩に云く、憂心悄悄、群小に慍みらるとは孔子なり。肆に厥の慍を殄たず。亦厥の問を隕さずとは文王なり。
貉稽曰:「稽は口が全く達者ではない。」
孟子曰:「それは傷ではない。士は多弁を嫌うものである。『詩』に曰く:『憂心悄悄たり、群小に慍る。』これは孔子のことを指す。『肆にしてその慍を殄たず、またその問を隕とさず。』これは文王のことを指す。」
孟子曰:「賢者以其昭昭,使人昭昭;今以其昏昏,使人昭昭。」
孟子曰く、賢者は其昭昭を以て人をして昭昭たらしむ。今は其昏昏を以て人をして昭昭たらしむ。
孟子曰:「賢者はその明らかなものをもって人を明らかにする。しかし、今はその昏昏たるものをもって人を明らかにしようとしている。」
孟子謂高子曰:「山徑之蹊間,介然用之而成路;爲間不用,則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。」
孟子、高子に謂つて曰く、山徑の蹊、間く介然として之を用ふれば路を成す。間くも用ひざるを爲せば則ち茅之を塞ぐ。今茅子の心を塞げり。
孟子は高子に言った:「山道の小径は、人が頻繁に通れば道として整う。しかし、通らなければ草が茂り塞がれてしまう。今、あなたの心は茅で塞がれてしまっている。」
高子曰:「禹之聲,尙文王之聲。」孟子曰:「何以言之?」曰:「以追蠡。」曰:「是奚足哉?城門之軌,兩馬之力與?」
高子曰く、禹の聲は文王の聲に尙れり。孟子曰く、何を以て之を言ふ。曰く、追の蠡せるを以てなり。曰く、是れ奚んぞ足らむや。城門の軌は兩馬の力ならんや。
高子曰:「禹の音楽は文王の音楽に優れている。」
孟子曰:「何を根拠にそう言うのか?」
高子曰:「追蠡による。」
孟子曰:「それがどうして十分と言えるだろうか?城門の轍は、二頭の馬の力で形成されるものだ。」
齊饑。陳臻曰:「國人皆以夫子將復爲發棠;殆不可復。」孟子曰:「是爲馮婦也。晉人有馮婦者,善搏虎,卒爲善士;則之野,有衆逐虎,虎負嵎,莫之敢攖;望見馮婦,趨而迎之;馮婦攘臂下車,衆皆悅之,其爲士者笑之。」
齊饑う。陳臻曰く、國人皆以らく、夫子將に復た爲めに棠を發せんとすと。殆ど復すべからざるか。孟子曰く、是れ馮婦を爲すなり。晉人馮婦といふ者あり。善く虎を搏つ。卒に善士となる。則ち野に之く。衆有り虎を逐ふ。虎嵎を負ふ。之に敢て攖る莫し。馮婦を望み見て趨りて之を迎ふ。馮婦臂を攘げ車を下る。衆皆之を悅ぶ。其の士たる者は之を笑ふ。
斉国に飢饉が起こった。陳臻が言った:「国民は皆、夫子が再び棠を設けて施しを行うことを期待していますが、それを再び行うのは危険ではないでしょうか。」
孟子は言った:「それは馮婦のようなものだ。晋の人に馮婦という者がいた。彼は虎と戦う名手だったが、後に立派な人物となった。彼が野に出ると、多くの人々が虎を追い立てていた。虎が巣穴に隠れると、誰も敢えて近づこうとはしなかった。しかし、馮婦が見えると、人々は駆け寄り、彼を迎えた。馮婦は腕をまくり、車から降りて向かった。群衆は皆これを喜んだが、その士の品格を知る者は彼を嘲笑した。」
孟子曰:「口之於味也,目之於色也,耳之於聲也,鼻之於臭也,四肢之於安佚也;性也,有命焉,君子不謂性也。仁之於父子也,義之於君臣也,禮之於賓主也,知之於賢者也,聖人之於天道也;命也,有性焉,君子不謂命也。」
孟子曰く、口の味に於ける、目の色に於ける、耳の聲に於ける、鼻の臭に於ける、四肢の安佚に於ける、性なり。命有り。君子は性と謂はざるなり。仁の父子に於ける、義の君臣に於ける、禮の賓主に於ける、知の賢者に於ける、聖人の天道に於ける、命なり。性有り。君子は命と謂はざるなり。
孟子は言った:「口が味を求め、目が色彩を求め、耳が音を求め、鼻が香りを求め、四肢が快適さを求めるのは、本性である。しかし、それには天命というものがあり、君子はこれを本性とは呼ばない。仁が父子の間にあること、義が君臣の間にあること、礼が賓主の間にあること、智が賢者の間にあること、聖人が天道に従うこと、これらは天命であり、本性の中にその意味があるが、君子はこれを天命とは呼ばない。」
浩生不害問曰:「樂正子,何人也?」孟子曰:「善人也,信人也。」「何謂善?何謂信?」曰:「可欲之謂善。有諸己之謂信。充實之謂美。充實而有光輝之謂大。大而化之之謂聖。聖而不可知之之謂神。樂正子,二之中,四之下也。」
浩生不害問ひて曰く、樂正子は何人ぞや。孟子曰く、善人なり、信人なり。何をか善と謂ひ、何をか信と謂ふ。曰く、欲すべき之を善と謂ひ、諸れを己に有する之を信と謂ひ、充實する之を美と謂ひ、充實して光輝ある之を大と謂ひ、大にして之を化する之を聖と謂ひ、聖にして之を知るべからざる之を神と謂ふ。樂正子は二の中四の下なり。
浩生不害が問うた:「楽正子とはどのような人物ですか?」
孟子は答えた:「善人であり、信頼できる人です。」
浩生不害がさらに問うた:「『善』とは何ですか?『信』とは何ですか?」
孟子は言った:「望ましいものを『善』といい、それを自ら持っていることを『信』といいます。内面が充実していることを『美』といい、それが充実し輝きを放つことを『大』といいます。それがさらに広がり、他者に影響を与えることを『聖』といい、その聖さが計り知れないものになると『神』と呼ばれます。楽正子は、その中で『善』と『信』を備えていますが、『美』や『大』には及びません。」
孟子曰:「逃墨必歸於楊,逃楊必歸於儒。歸,斯受之而已矣。今之與楊、墨辯者,如追放豚,既入其苙,又從而招之。」
孟子曰く、墨を逃るれば必ず楊に歸し、楊を逃るれば必ず儒に歸す。歸すれば斯に之を受けんのみ。今の楊墨と辯ずる者は放豚を追ふが如し。既に其苙に入れば又從つて之を招ぐ。
孟子は言った:「墨家の思想を避ける者は必ず楊家の思想に帰し、楊家の思想を避ける者は必ず儒家に帰します。儒家に帰す者は、それを受け入れるだけのことです。今、楊墨の思想と議論する者たちは、逃げた子豚を追うようなものです。豚が既に牧場に戻った後にも、さらに追いかけて呼び寄せようとしています。」
孟子曰:「有布縷之征,粟米之征,力役之征。君子用其一,緩其二。用其二而民有殍;用其三而父子離。」
孟子曰く、布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其一を用ひて其二を緩くす。其二を用ふれば民殍有り。其三を用ふれば父子離る。
孟子は言った:「租税には布や麻の納付、粟や米の納付、そして労役の三種がある。君子たる者はこれらのうち一つだけを用い、残りの二つは控えめにするべきである。二つを用いると民は飢え死にし、三つすべてを課すと父子が離散することになる。」
孟子曰:「諸侯之寶三:土地、人民、政事。寶珠玉者,殃必及身。」
孟子曰く、諸侯の寶は三。土地人民政事。珠玉を寶とする者は殃必ず身に及ぶ。
孟子は言った:「諸侯の宝は三つある。それは土地、人民、政事である。珠玉を宝とする者には必ず災いが及ぶだろう。」
盆成括仕於齊。孟子曰:「死矣盆成括!」盆成括見殺,門人問曰:「夫子何以知其將見殺?」曰:「其爲人也,小有才,未聞君子之大道也,則足以殺其軀而已矣。」
盆成括、齊に仕ふ。孟子曰く、死なんかな盆成括と。盆成括殺さる。門人問ひて曰く、夫子何を以て其の將に殺されんとするを知る。曰く、其の人と爲りや小にして才あり。未だ君子の大道を聞かず。則ち以て其軀を殺すに足るのみ。
盆成括が斉に仕えた。孟子は言った:「盆成括は死ぬだろう!」
後に盆成括が殺された。弟子たちが問うた:「先生はなぜ盆成括が殺されると分かったのですか?」
孟子は答えた:「彼は少しばかりの才能はあったが、君子の大道を学んでいなかった。それゆえに、自身の身を滅ぼす結果に至ったのだ。」
孟子之滕,館於上宮。有業屨於牖上,館人求之弗得。或問之曰:「若是乎從者之廋也。」曰:「子以是爲竊屨來與?」曰:「殆非也。夫子之設科也,往者不追,來者不拒。茍以是心至,斯受之而已矣。」
孟子滕に之きて上宮に館す。牖上に業屨有り。館人之を求めて得ず。或ひと之を問ひて曰く、是の若きか、從者の廋せるや。曰く、子是れ屨を竊むが爲めに來ると以へるか。曰く、殆ど非なり。夫れ子の科を設くるや、往く者は追はず、來る者拒まず。茍も是の心を以て至らば、斯に之を受けんのみ。
孟子が滕国を訪れた際、上宮に宿泊した。そこに履物が窓の上に置かれており、宿舎の人々がそれを探したが見つからなかった。ある人が尋ねた:「これほどまでに従者たちは物を隠すのでしょうか?」
孟子は答えた:「あなたはこの履物が盗まれたと思いますか?」
その人は言った:「おそらくそうではないでしょう。先生の教えは、過ぎ去った者を追わず、来たる者を拒まずというものでした。この心を持って訪れる者であれば、誰であれ受け入れるのです。」
孟子曰:「人皆有所不忍,達之於其所忍,仁也;人皆有所不爲,達之於其所爲,義也。人能充『無欲害人』之心,而仁不可勝用也。人能充『無穿窬』之心,而義不可勝用也。人能充無受『爾』、『汝』之實,無所往而不爲義也。士未可以言而言,是以言餂之也;可以言而不言,是以不言餂之也。是皆穿逾之類也。」
孟子曰く、人皆な忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは仁なり。人皆爲さざる所有り。之を其の爲す所に達するは義なり。人能く人を害するを欲する無きの心を充てば、仁勝げて用ふ可からざるなり。人能く穿窬する無きの心充てば、義勝げて用ふ可からざるなり。人能く爾汝を受くる無きの實を充てば、往く所として義たらざるは無きなり。士未だ以て言ふ可からずして言ふは、是れ言ふを以て之を餂るなり。以て言ふ可くして言はざるは、是れ言はざるを以て之を餂るなり。是れ皆穿逾の類なり。
孟子は言った:「人には誰しも忍びないと思うことがある。それを拡大して忍ぶことへ至るのが仁である。人には誰しも為すべきでないと思うことがある。それを拡大して為すべきことへ至るのが義である。人が他人を害さない心を十分に満たせば、仁は無限に使えるものである。人が境界を越えたり侵したりしない心を十分に満たせば、義は無限に使えるものである。人が馴れ馴れしい振る舞いをしない心を満たせば、どこに行っても義を行うことができる。士が未だ話すべきでないのに話すのは、軽々しく言葉を使うことになる。話すべきであるのに話さないのは、慎重さに欠けることである。この二つはどちらも境界を越える行為に属する。」
孟子曰:「言近而指遠者,善言也;守約而施博者,善道也。君子之言也,不下帶而道存焉。君子之守,修其身而天下平。人病舍其田而芸人之田,所求於人者重,而所以自任者輕。」
孟子曰く、言近くして指遠きは善言なり。守ること約にして施すこと博きは善道なり。君子の言や帶を下らずして道存す。君子の守其身を修めて天下平かなり。人其田を舍てて人の田を芸るを病む。人に求むる所重くして、自ら任ずる所以の者輕ければなり。
孟子は言った:「言葉が短くても遠くを指し示すものは、優れた言葉である。簡潔でありながら広く行き渡る行いは、優れた道である。君子の言葉は、腰以下に落ちることなくその中に道が存する。君子の守りは、自らを修めて天下を平らかにすることである。人が自分の田を放置して他人の田を耕すようなことがあれば、他人に求めることが重くなり、自らに課す責任が軽くなる。」
孟子曰:「堯、舜,性者也;湯、武,反之也。動容周旋中禮者,盛德之至也。哭死而哀,非爲生者也。經德不回,非以干祿也。言語必信,非以正行也。君子行法,以俟命而已矣。」
孟子曰く、堯舜は性なる者なり。湯武は之に反るものなり。動容周旋禮に中る者は盛德の至なり。死を哭して哀むは生者の爲めに非ざるなり。經德回ならざるは以て祿を干むるに非ざるなり。言語必ず信なるは以て行を正すに非ざるなり。君子は法を行ひて以て命を俟つのみ。
孟子は言った:「堯や舜は、生まれながらの本性によって聖人であった。一方、湯や武王は努力して聖人になった。容姿や振る舞いが礼にかなっていることは、徳が極めて高いことの表れである。死者を哭して哀しむのは、生きている者のためではない。正しい道を貫くのは、官職を求めるためではない。言葉を必ず信実にするのは、行いを正すためではない。君子は法を守り、天命を待つだけである。」
孟子曰:「說大人,則藐之,勿視其巍巍然。堂高數仞,榱題數尺,我得志弗爲也。食前方丈,侍妾數百人,我得志弗爲也。般樂飮酒,驅騁田獵,後車千乘,我得志弗爲也。在彼者,皆我所不爲也;在我者,皆古之制也,吾何畏彼哉?」
孟子曰く、大人を說くには則ち之を藐ぜよ。其巍巍然たるを視ること勿かれ。堂の高さ數仞、榱題數尺、我志を得るも爲さざるなり。食前方丈侍妾數百人、我志を得るも爲さざるなり。般樂して酒を飮み、驅騁田獵し、後車千乘、我志を得るも爲さざるなり。彼に在るもの皆我が爲さざる所なり。我に在る者は皆古の制なり。吾何ぞ彼を畏れんや。
孟子は言った:「大人物について話す時には、威厳に圧倒されずに軽く見るべきである。その居所が高く数仞の建物であろうと、梁や柱が立派であろうと、自分が成功してもそれをしようとは思わない。食事が豪華で、侍妾が何百人もいるような生活も、成功しても望まない。楽しく酒を飲み、狩猟に興じ、千台の車を従えるような生活も、成功しても望まない。彼らが持つものは全て自分が望まないものであり、自分が持つものは全て古の定めに基づくものである。私は彼らを恐れることはない。」
孟子曰:「養心莫善於寡欲。其爲人也寡欲,雖有不存焉者,寡矣。其爲人也多欲,雖有存焉者,寡矣。」
孟子曰く、心を養ふは寡欲より善きは莫し。其の人と爲りや欲寡ければ存ぜざる者ありと雖も寡し。其の人と爲りや欲多ければ存する者ありと雖も寡し。
孟子は言った:「心を養うことにおいて、欲望を少なくするほど優れたものはない。人が欲望を少なくすれば、仮に得られないものがあったとしてもそれはわずかである。しかし、欲望が多い人は、たとえ何かを得たとしてもそれは非常に少ないものにすぎない。」
曾晳嗜羊棗,而曾子不忍食羊棗。公孫丑問曰:「膾炙與羊棗孰美?」孟子曰:「膾炙哉!」公孫丑曰:「然則曾子何爲食膾炙而不食羊棗?」曰:「膾炙所同也,羊棗所獨也。諱名不諱姓,姓所同也,名所獨也。」
曾晳羊棗を嗜む。曾子羊棗を食ふに忍びず。公孫丑問うて曰く、膾炙と羊棗と孰か美なる。孟子曰く、膾炙なるかな。公孫丑曰く、然らば則ち曾子何爲れぞ膾炙を食ひて羊棗を食はざる。曰く、膾炙は同する所なり。羊棗は獨する所なり。名を諱みて姓を諱まず。姓は同じくする所なり。名は獨する所なり。
曾皙は羊棗(ナツメ)が好物であったが、曾子は羊棗を食べることをためらった。公孫丑が尋ねた。「膾炙(焼肉)と羊棗ではどちらが美味しいですか?」
孟子は答えた。「膾炙です。」
公孫丑がさらに問うた。「それなら、曾子はどうして膾炙を食べて羊棗を食べないのですか?」
孟子は答えた。「膾炙は皆が共に食べるものですが、羊棗は曾皙だけの特別なものです。名前を避けるのは個人に固有のものを敬うためであり、姓を避けないのは皆に共通するものだからです。」
萬章問曰:「孔子在陳,曰:『盍歸乎來!吾黨之士狂簡,進取不忘其初。』孔子在陳,何思魯之狂士?」孟子曰:「孔子『不得中道而與之,必也狂狷乎!狂者進取;狷者有所不爲也。』孔子豈不欲中道哉?不可必得,故思其次也。」「敢問何如斯可謂狂矣?」曰:「如琴張、曾晳、牧皮者,孔子之所謂狂矣。」「何以謂之狂也?」曰:「其志嘐嘐然,曰:『古之人,古之人』,夷考其行而不掩焉者也。狂者又不可得;欲得不屑不潔之士而與之,是獧也。是又其次也。孔子曰:『過我門而不入我室,我不憾焉者,其惟鄉原乎!鄉原,德之賊也。』曰:何如斯可謂之鄉原矣?」「曰:『何以是嘐嘐也?言不顧行,行不顧言,則曰:古之人古之人。行何爲踽踽涼涼?生斯世也,爲斯世也,善斯可矣。』閹然媚於世也者,是鄉原也。」萬章曰:「一鄉皆稱原人焉,無所往而不爲原人;孔子以爲德之賊,何哉?」曰:「非之無舉也,剌之無剌也;同乎流俗,合乎污世;居之似忠信,行之似廉潔;衆皆悅之;自以爲是,而不可與入堯舜之道,故曰『德之賊也』。孔子曰:『惡似而非者:惡莠,恐其亂苗也;惡佞,恐其亂義也;惡利口,恐其亂信也;惡鄭聲,恐其亂樂也;惡紫,恐其亂朱也;惡鄉原,恐其亂德也。』君子反經而已矣。經正,則庶民興;庶民興,斯無邪慝矣。」
萬章問ひて曰く、孔子陳に在り。曰く、盍ぞ歸らざる。吾黨の士、狂簡進んで取り其初を忘れずと。孔子陳にあり、何ぞ魯の狂士を思ふ。孟子曰く、孔子中道を得て之に與せざれば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は爲さざる所有り。孔子豈に中道を欲せざらんや。必ずしも得べからず、故に其次を思ふ。敢て問ふ、何如なる斯に狂と謂ふ可きと。曰く、琴張、曾晳、牧皮の如きは孔子の所謂狂なり。何を以て之を狂と謂ふ。曰く、其志嘐嘐然たり。曰く、古の人、古の人と、夷に其行を考へて掩はざる者なり。狂者又得べからず。不潔を屑しとせざるの士を得て之に與せんと欲す。是れ獧なり。是れ又其次なり。孔子曰く、我門を過ぎて、我室に入らざるも我憾みざる者は其れ惟鄉原かと。鄉原は德の賊なればなり。曰く、何如なる斯に之を鄉原と謂ふべき。曰く、何を以てか是れ嘐嘐たるや。言行を顧みず、行ひ言を顧みず。則ち曰く、古の人、古の人と。行何爲れぞ踽踽涼涼たる。斯の世に生れては斯の世に爲すなり。善なれば斯に可なりと。閹然世に媚ぶる者は是れ鄉原なり。萬章曰く、一鄉皆原人と稱す。往く所として原人爲らざることなし。孔子以て德の賊となすは何ぞや。曰く、之を非らんとするも舉ぐる無きなり。之を剌らんとするも剌る無きなり。流俗に同じ污世に合はせ、之に居ること忠信に似、之を行ふこと廉潔に似、衆皆之を悅び、自ら以て是と爲して、而して與に堯舜の道に入る可からず。故に德の賊と曰ふなり。孔子曰く、似て非なる者を惡む。莠を惡むは其の苗を亂るを恐れてなり。佞を惡むは其の義を亂るを恐れてなり。利口を惡むは其の信を亂るを恐れてなり。鄭聲を惡むは其の樂を亂るを恐れてなり。紫を惡むは其の朱を亂るを恐れてなり。鄉原を惡むは其の德を亂るを恐れてなりと。君子は經に反らんのみ。經正しければ則ち庶民興る。庶民興れば斯に邪慝無し。
万章が問うた:「孔子は陳にいたとき、『帰ろうではないか!我が郷の士たちは狂簡(大胆かつ単純)であり、進取心を持ち、初志を忘れない。』と言いました。孔子が陳にいながら、なぜ魯の狂士を思い出したのですか?」
孟子は答えた:「孔子は『中庸の道を得られなければ、狂者や獧者と付き合おう。狂者は積極的に進取し、獧者はしてはならないことを守る。』と言いました。孔子は中庸の道を求めていないわけではありませんが、それを必ず得られるとは限らないので、次善の策を考えたのです。」
万章がさらに問うた:「どうすれば狂と呼ばれるのでしょうか?」
孟子は答えた:「琴張、曾皙、牧皮のような者たちが、孔子が狂と呼んだ人々です。」
「なぜ彼らを狂と呼ぶのですか?」
孟子は答えた:「彼らの志は雄々しく、『古人、古人』と理想を語り、行動を伴わせようとします。狂者が得られなければ、潔癖や礼節を持たない者と付き合おうとする、それが獧です。それもまた次善の策です。孔子は言いました、『私の門を通り過ぎても私の家に入らない者がいるが、それに対して私は恨みを抱かない。そのような者はおそらく郷原(中庸を装った者)であろう。郷原は徳の賊だ。』」
万章がさらに問うた:「郷原とはどのような者ですか?」
孟子は答えた:「『なぜそのように雄々しいのか?言葉が行動に合わず、行動が言葉に合わないのに、『古人、古人』と言う者だ。行動が孤独で寂しげなのはなぜか?この世に生まれたからには、この世に尽くし、善行を行うだけで十分だ。』と、世俗に媚びへつらう者、これが郷原です。」
万章はさらに問うた:「一郷の人々が皆、郷原を良い人と言い、どこへ行っても郷原とされる者が、なぜ孔子には徳の賊とされたのですか?」
孟子は答えた:「彼らは非を咎めず、批判もしない。流俗に同調し、堕落した世に溶け込みます。一見すると忠信のようで、行動も廉潔のように見えます。多くの人が彼らを称賛し、彼ら自身もそれを正しいと信じています。しかし、堯舜の道に入ることができません。だからこそ、徳を害する者とされるのです。孔子はこう言いました、『似て非なるものを嫌う。稗を嫌うのは稲を乱すから、佞を嫌うのは義を乱すから、利口を嫌うのは信を乱すから、鄭の音楽を嫌うのは楽を乱すから、紫を嫌うのは朱を乱すから、郷原を嫌うのは徳を乱すからだ。』君子は正しい原則に立ち返るだけでよい。原則が正しければ、庶民は興り、邪悪はなくなる。」
孟子曰:「由堯舜至於湯,五百有餘歲,若禹、皋陶,則見而知之;若湯,則聞而知之。由湯至於文王,五百有餘歲,若伊尹、萊朱則見而知之;若文王,則聞而知之。由文王至於孔子,五百有餘歲,若大公望、散宜生,則見而知之;若孔子,則聞而知之。由孔子而來至於今,百有餘歲,去聖人之世,若此其未遠也;近聖人之居,若此其甚也,然而無有乎爾,則亦無有乎爾。」
孟子曰く、堯舜より湯に至るまで五百有餘歲、禹皋陶の若きは則ち見て之を知り、湯の若きは則ち聞きて之を知る。湯より文王に至るまで五百有餘歲、伊尹萊朱の若きは則ち見て之を知り、文王の若きは則ち聞きて之を知る。文王よりも孔子に至るまで五百有餘歲、大公望散宜生の若きは則ち見て之を知り、孔子の若きは則ち聞きて之を知る。孔子より來今に至るまで百有餘歲、聖人の世を去ること此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと此の若く其れ甚しきなり。然り而して有る無きのみ。則ち亦有る無からんのみ。
孟子が言った:「堯と舜から湯に至るまで、五百年以上の年月が経っています。その間、禹や皋陶のような人は実際に会って知ることができましたが、湯についてはその業績を聞いて知るしかありませんでした。湯から文王に至るまで、五百年以上の年月が経っています。その間、伊尹や莱朱のような人は実際に会って知ることができましたが、文王についてはその業績を聞いて知るしかありませんでした。文王から孔子に至るまで、五百年以上の年月が経っています。その間、太公望や散宜生のような人は実際に会って知ることができましたが、孔子についてはその業績を聞いて知るしかありませんでした。孔子から現在に至るまで、百年以上が経過しています。聖人が生きていた時代からこれほど遠くない時期であり、聖人が住んでいた場所にもこれほど近いにもかかわらず、そのような人がいないとは、全くいないということなのです。」